誰のために聖書は書かれましたか?
すべての人のために,聖書は書かれたのではありません。愚かな者や,悪い者や,うぬぼれて自分は賢いと思つている人のために,聖書は書かれたのではありません。神を信じない人たちや,聖書を神の真理の言葉として信じない人のために,聖書は書かれたのではありません。高慢で高ぶつた人のためにでもなく,また不精で怠けている,無関心な人のために書かれたのでもありません。『神の人』が,すべての良い業に備えをするために,聖書は書かれました。―テモテ後 3:16,17。
神の人にとつて,聖書は開かれている本であつて,光りと真理で満ちています。神の人は,聖書の完全な調和をみとめ,聖書は神の言葉であることを認めます。その人にとつて,聖書は意味の判る本です。創造主にたいする人間の関係と,人間についての神の目的を聖書は表わし示します。そして,永遠の生命を得るために,人間は何をしなければならないか,聖書ははつきり示しています。しかし,その行いによるにせよ,言葉によるにせよ,『神を信じない』と言う人たちにとつては,聖書は閉じられた本のままです。そのような人たちにとつて,聖書はたんに歴史または伝説にすぎず,矛盾や辻つまの合わない本にしか見えません。愚かな者なので,この人は神の言葉を理解しません。神は,愚かな者たちに,御自分の目的を明らかに示しません。『愚かなるものは,心の中に神なしといえり。かれらは腐れたり,かれらは憎むべきわざをなせり。善をおこなう者なし。』(詩篇 14:1)このような人のために,聖書は書かれたのではありません。
悪い者のために,聖書は書かれたのでもありません。『光りは,ただしき人のために播かれ,よろこびは,こころ直き者のために播かれたり。』光りとは,つまり神の言葉の理解のことで,それは,神の律法に自らたのしみ,神の道に歩もうと努める人のためにあるのです。『悪しき者のはかりごとに歩まず,罪人の途にたたず,あざけるものの座にすわらぬ者はさいわいなり。かかる人は,ヱホバの法をよろこびて日も夜もこれをおもう。』悪い者は,ヱホバの御意に反対の途に従いつづけます。そのような人は,ヱホバの目的については,精神的な暗やみの中に閉じこめられているのです。―詩篇 97:11; 詩篇 1:1,2。ペテロ後 2:4。詩篇 145:20。
高慢で高ぶつた人のために,聖書は書かれたのではありません。『へりくだる者を,ただしきに導き給わん。その道をへりくだる者にしめしたまわん。ヱホバのもろもろの道は,その契約と証詞とをまもるものには慈しみなり,まことなり。』(詩篇 25:9,10)高慢で高ぶつた人たちは,ヱホバ神の永遠の原則よりも自分たちの方が,はるかに高い者だと考えて,神の原則に従わおうとせず,また導きをうけようともしません。
怠け者や,不精の者,そして無関心な者たちにも,聖書は書かれていません。そのような人は,聖書を幾冊か持つているかもしれませんが,聖書を研究しようとは努めません。もし,神の言葉の理解をのぞむならば,ヱホバの次の言葉に従わねばなりません。
『我が子よ,汝もしわが言葉をうけ,わがいましめを汝のこころにおさめ,かくて汝の耳を智慧に傾け,汝の心をさとりにむけ,もし知識を呼び求め,さとりをえんと汝の声をあげ,銀のごとくこれを探り,秘れたる宝のごとくこれを尋ねば,汝ヱホバ畏るることをさとり,神を知ることを得べし。そわ,ヱホバは智慧をあたえ。智識とさとりとその御口よりいづればなり。』― シンゲン 2:1-6。
人は,真理と正義を一生懸命に探し求めなければなりません。生命に導くこれらの真理を得るために,人は喜んで辛いことを耐え忍ばねばなりません。これらの真理は,全く持つ価値のあるものです『智慧をもとめ得る人,およびさとりをうる人はさいわいなり。そわ,智慧をうるは銀をうるにまさり,その利は精金よりも良ければなり。智慧は真珠よりも貴し。なんじのすべての宝も之と比ぶるに足らず,その右の手には長きいのちあり,その左の手には富と尊貴とあり。その途は楽しき途なり。その途すぢは,ことごとく平康し。これは,執る者には生命の樹なり。これを持つ者は,さいわいなり。』― シンゲン 3:13-18。
次のような人たちのためにも,聖書は書かれていません。すなわち,いつも聖書の欠点を探すような人たちです。そのような人たちは,丹念に聖書を読みますが,それは聖書の理解を得るためではなく,いつたい外見上の矛盾をどれほど多く見つけだすことが,できるだろうかを知るためなのです。それから,見たところ矛盾と思える点について,それらの人は言い合い,口論します。しかし,結局に,そんな矛盾は全然ないと知つて,彼らはがつかりしてしまいます。しかし,満足してあきらめず,彼らは研究を続けて,前と同じく聖書を批難したり,その価値を小さく言つたり,その欠点を探そうとしています。多くの牧師たちは,この級に属します。彼らは,神の言葉の説明者であるという振りをします。しかし,聖書のほんの少しの部分だけが,考えるのに価値あるものだと教えます。アダムとヱホバについての聖書の物語りは,伝説だと彼らは言います。また彼らによると,ノアの時代の洪水は,全然起きたのではなく,ヘブル語聖書とギリシア語聖書の両方に書かれてある奇跡は,事実と全く矛盾しており,そして,聖書は実際的なものではなく,流行おくれであつて,この近代の文明には適するものではないというのです。このような具合にして,聖書にたいして人間の持つ信仰を牧師たちはなくしてしまいます。また彼らは,聖書が霊感されたものであることを否定し,聖書の著者であるヱホバ神を否定し,イエスを虚言者にしてしまいます。なぜならば,父の言葉について,『あなたの言葉は真理です』とイエスは言われたからです。これらの牧師たちは,聖書よりも自分自身の智慧と理解にたよるものを好むか,または政治家や世俗的な哲学者たちの智慧を引用する方を好みます。彼らは,聖書にたいして重きを置いていないのです。高慢で高ぶつている者,悪い者で無関心な者と共に,これらの牧師たちは愚か者の級の中に属するものです。―ヨハネ 17:17,新世。コリント前 1:19-21。
聖書は,へりくだり,教えを聞き入れる人のために書かれました。そのような人は,霊的な必要物をよく認めています。そのような人は,真理と正義を探し求めているということを示さなければなりません。イエスは,こう言いました。『その霊的な必要物を認める人たちは幸いである,なぜならば天の御国は,そのような人たちに属するからである。心のやさしいおだやかな人は幸いである,そのような人は地を相続するであろう。正義に飢え渇いている人は幸いである,なぜならばそのような人は満たされるであろう。』そのような人にとつて,聖書は光りとよろこびの源となります。『なんじの御言葉は,わが足の燈火,わがみちの光りなり。われ人のおおいなる掠物をえたるごとくに汝のみことばをよろこぶ。われいつわりを憎み,これをいみきらえど,汝ののりを愛す。』この人は,神に信仰を持ち,神の言葉に信頼し,そして自分自身の理解にたよりません。『以前に書かれたすべての事柄は,私たちを教育するために書かれたもので,私たちの忍耐と,そして聖書から来る慰めによつて,私たちが希望を持つためである。』ということを,その人は良く認めます。そしてまた『聖書のすべては,神により霊感されたものであつて,教えや,戒しめや,物ごとを正しくすること,そして義しいことを訓練することに有益なものである。それは,神の人がすべての良い業に対して,全き備えをして十分に力を持つためである。』ということをも,その人は認めます。―マタイ 5:3,5,6,新世。詩篇 119:105,162,163。ヘブル 11:6。シンゲン 3:5,6。ロマ 15:4。テモテ後 3:16,17,新世。
聖書が書かれたのは,このような神の人のためであつて,他の人のためではありません。
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働く人に対する報酬は恵みとは言わない。それは当然の給与である。しかし,働きがなくとも,不敬虔な者を義とされる方を信ずる人に対しては,彼の信仰は義と認められる。そこでダビデもまた行によらずに義と認められた人を祝福して言つている。不正を赦して頂いた者,罪をかばつて頂いた者は幸である。アブラハムとその子孫になされた「世界を相続させよう,」との約束は,律法によつて来たものではなく,信仰による義によつて来たのである。―ロマ 4:4-7,13,口語訳。