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目ざめよ! 1970
目70 9/22 3–4ページ

友情はどうなりましたか

「不法の増すによりて多くの人の愛,冷かにならん」という,聖書の予告どおりの事態が見られる今日,古風な友情を見いだすのは,たいへんむずかしいことです。(マタイ 24:12)愛想がよくて近づきやすい人々は今もいますが,それでも,そうした人々の多くでさえ,純粋の友情に関しては,とかく一線を画するものです。

とは言っても,友人をたくさんお持ちですかと普通の人に尋ねると,その多くは,きっと,「はい」と答えるでしょう。しかしなかには,答えをためらう人もいるでしょう。なぜですか。「友人」ということばには,いろいろな意味があるからです。

たとえば,知人を友人とみなしている人がかなりいます。そのような人はこう言うかもしれません。「わたしはほとんどあらゆる階層の人々を多数,友人として持っています。あの靴みがきの少年もそうだし……名前はなんだったかな。それに,行きつけのかどの肉屋の主人,それから,取り引き先の銀行の支配人もそうです。ですから,たくさんの友人がいます」。そのような人には,名前さえ覚えていない友人もいるでしょう。その程度のちょっとした知人のことを友人と呼ぶ人もいます。

事実,型にはまった親密さが友情の証拠と取り違えられる場合がよくあります。たとえば,そそくさと自己紹介をして,何分もたたないうちに,姓ではなくて,名前で呼んでもらわないと気がすまない人もいます。そして,「お住まいはどちらですか。どんなお仕事をしておられますか。学校はどちらでしたか。結婚しておられますか。お子さんをお持ちですか」などと,矢つぎばやに尋ねます。そのような人は,個人的な事柄を,あまりにも早く聞いたり話したりしがちです。しかし,そうした型にはまった「親密さ」が,いつも真の友情の証拠と言えますか。経済的な援助あるいは慰めなど,助けを必要とする場合,そのような人々のうち,いったい何人が,あなたのもとに来て,援助の手を差し伸べるでしょうか。

欧米の人々の間で,「友人」ということばは,広範な人間関係に用いられており,仕事の仲間,子どもの遊び友だち,また,腹心の友の意味にも用いられています。また,このことばは,「友好的なおなじみの食料品マーケット」「友好的な旅行会社」「友好的な銀行」「友好的な空の旅」などのように,種々の商業文句にも用いられています。友情のしるしとして,指輪や鎖さえ用いられているのです。ですから,アメリカ,カナダその他,西洋諸国では,「友人」ということばは,必ずしも親密な関係を伴うとはかぎりません。通りいっぺんの表面的な,その場かぎりの友情もあれば,永続する深い友情もあるのです。しばしば言われるように,「結局,それはあなたの意図する事柄によって左右されるのです」。

戦争や暴力のために人々が犠牲になった,ヨーロッパの多くの国々では,友情の中身も変化しました。年配の世代の人々は,友情が昔のそれとは異なっていることに,いち早く気づいています。相手の知性・気質・特別の関心事をよく知っている人,また,相手の最善の特質を引き出す人を友人とみなす人々もおれば,友情を,どちらかといえば,感情的な事柄とみなす人もいます。後者の場合,同じ趣味を持つ特定の人,たとえば,ハイキング・登山・船遊びその他,多少の冒険の伴う事柄をともに楽しむ人が友人とされています。そうした友情は,せいぜい経験をわかち合うくらいのもので,信用や信頼また忠節心を必ずしも必要とするものではありません。

友情が,ほとんど血のつながりに等しいほど,人々を堅く結びつけるきずなとみなされ,また,友人が,不法や不道徳を犯す人間に対する身の守りとなってくれた時代はすでに去り,当時のそうした考え方は,おおむね失われてしまいました。

こうした変化が生じたおもな理由は,聖書の預言どおり,『人々が自然の情愛をもたず,自分を愛する者になった』ことにあります。(テモテ後 3:1-3,新)自然の情愛なくしては,純粋の友情はありえません。

同時に,現代の世界には,親密なきずなを築かせまいとして,分裂を促すさまざまな力が働いています。真の友情を築くには,時間がかかります。ところが,今日,人々は絶えず移動しています。一箇所にちょっととどまるだけでは,永続する友情は築けません。

また,不変の友情は,信頼と忠節を必要とします。しかし,こうした特質は,今日の世代の世界に行き渡っている,騒動・犯罪・不信・暴力の風潮の中で育つものでありません。

同時に,友情は,責任を負うこと,つまり,他の人の重荷を喜んでともに負うことをも意味しています。しかし今日,多くの人は,人の重荷や苦しみにあずからないようにするため,他の人とのかかわりを持たないようにしています。いつも移動している,ある若い夫は言いました。「わたしと妻は行く先々で,何週間もたたないうちに,新しい友人を作ります。しかし,そこを去るのがつらくなるほど,友情を深めるようなことは,決してしません」。それにしても,こうした人々は,イエス・キリストの言われた次のことばから,なんと掛け離れているのでしょう。「人その友のために己の生命をすつる,これより大なる愛はなし」― ヨハネ 15:13。

貴重な友情は,犠牲を必要とします。しかし,多くの人はもはや,犠牲を払うことを望みません。ですから,過去の時代の心暖まる祝福の一つであった,古風な友情を見いだすことは,むずかしくなりました。

それでも,真の友情,たとえば,聖書に述べられているとおり,ダビデとヨナタン,また,ルツとナオミなどが互いにいだいたような友情は今でも確かに存在しています。(サムエル後 1:26。ルツ 1:16,17)しかし,そうした友情は主として,神とそのみことば聖書に信仰を置く,聖書に従う真のクリスチャンの間に見られるものです。たとえば,エホバの証人は,自分たちの友人の群れが,実際にどんどんふえているのを見ています。(マルコ 10:29,30)しかし,聖書に従う真のクリスチャンの社会の外では,真の友情はほとんど見られません。これは人類にとって,重大な損失と言わねばなりません。

しかし,人はなぜ友好的であるべきですか。今日のような邪悪な世界で,どうすれば,友好的な態度を持てますか。どんな友人を,どのようにして,作るべきですか。次の記事をお読みになれば,こうした問題だけでなく,時宜にかなった,他のいろいろな問題に対する答えが得られるでしょう。

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