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目ざめよ! 1973
目73 3/22 22–23ページ

台湾省における,ものみの塔協会支部の開設

台湾省における王国のわざは,多くの迫害に面しながらも,1928年から1956年にかけてすばらしく発展しました。1955年にはついに,エホバの証人に対する長年の禁令が解かれました。その結果,アメリカ人の宣教者であるハルブルック兄弟姉妹が台湾省にはいる道が開かれ,また1956年4月に台湾省で初めての神権的な大会が富源(フ・ユアン)で開かれました。その大会では公開講演に1,808人が出席し,123人がバプテスマを受けました。この大会の主要な講演者は,ものみの塔協会のノア会長でした。「エホバの証人の1972年年鑑」(英文)の記録は次のように続きます。

その後,台湾省の兄弟たちがいっそう行き届いた監督と援助を受けられるよう,台湾省に支部を開設するごとをノア兄弟は決めました。ポール・ジョンストン兄弟が支部の監督に任命されました。ジョンストン夫妻はギレアデ学校でハルブルック夫妻と同窓でした。ものみの塔協会の副会長であるフランズ兄弟を主要な講演者として迎え,池上<ツーサン>郷 大埔<タピ>村で開かれた大会は,台湾省における王国のわざの歴史に新しい章が初まったことをしるしづけるものでした。日本から地域の監督として訪れたエドリアン・トムソン兄弟とハルブルック夫妻,それに染<リヤン>姉妹は大会の開かれる村に先に行き,一方ジョンストン兄弟姉妹はフランズ兄弟を出迎え,いっしょに飛行機で花蓮<フアリヤン>に飛び,そこから軽便鉄道で池上<ツーサン>に着きました。この時も訪問者たちは,大会がよく組織されていることに驚きました。というのは,90㍍離れた所にある井戸から水を運ぶための「水道部門」さえ設けられていたからです。姉妹たちがチームを作ってその仕事をしました。

大会のあるプログラムでは,共産主義を非とする特別の決議が2,029人の出席者によって採択されました。兄弟たちが集まって来る間に,フランズ兄弟が演壇に登ってハモニカの即興演奏をしたのはその時のことした。それは多くの人の心を打ちました。「幸福な新しい世の社会」と題する映画を上映した時には出席者は3,029人で最高数に達しました。

台湾において王国活動拡大のための備えは次々に設けられました。台北では,より大きな屋敷が借り入れられ,その中に宣教者のためのより良い宿舎や王国会館,協会の支部事務所などが置かれました。1957年の秋には台北市外での活動に対する禁令が解除されました。それはその前の年の初めから実施されていました。それにしても,どうして禁令が取り除かれるようになったのでしょうか。聖書を学んでいたある若者の父親は,闘志と決断力のあることで知られた,省議会議員でした。その人は王国のわざに好意的で,エホバの証人の実情をむす子から聞くと,友人である内務大臣に面会できるよう取り計らってくれました。面会の結果,聖書教育運動が再び認められたのです。

また,その後まもなく,初めての巡回大会が花蓮<フアリ>で開かれました。支部の監督は中国語で公開講演をしました。こうして言語の障害が一つ乗り越えられました。次の段階は阿美<アミ>族の兄弟や聖書の音信に関心のある人びととの意志の疎通を図ることでした。

協会は,台湾省において,ものみの塔聖書冊子協会の法的許可を得ることに依然関心を持っていました。その目的で,1958年には,支部と宣教者の家のための地所を台北市雲和街99巻5号に購入しました。それは,ペンシルベニアのものみの塔協会の代理人としてポール・ジョンストンの名前で登録され,協会の認可を得るための土台となりました。それまでの試みにはほとんど成果がなかったので,アメリカ大使館の援助を求めましたが,それもうまくゆきませんでした。しかし,そのことがワシントンの国務省に知らされると,国務省は台湾省のアメリカ大使あてに,台湾省とアメリカの相互貿易条約の条項がものみの塔協会の場合にも公正に適用されるのを見とどけるよう通達しました。そのために事情が変わって1963年に協会は登録を認められ,1964年5月8日,台北の地方裁判所で認可されました。

1958年に梁<リヤン>姉妹はアメリカにあるギレアデ学校の31回めのクラスに入学するよう招待されました。同姉妹と彼女の実の兄弟はその年の夏ギレアデを卒業しました。その時にはヤンキー・スタジアムの大会で卒業式が行なわれました。ふたりは,「失楽園から復楽園まで」と題する本を中国語に翻訳する仕事を終えるため,さらに2か月間ニューヨークのブルックリンにある協会の本部にとどまりました。その後,梁姉妹は,台湾省から出た最初で唯一のギレアデ卒業生として,台北で宣教者の奉仕をするために帰国しました。台湾省では彼女の2か国語を話せる能力が多いに必要とされていたのです。中国語の文書を植字する仕事は香港から台湾に移されていました。中国語の文字を手で植字することは外部の会社に依頼し,校正は台湾省の支部が行ないました。そのようにして組まれた版から紙型を取り,それをアメリカに送りました。その紙型は,ブルックリンの協会の輪転機に掛ける鉛版を作る際の型に使われたのです。やがて梁姉妹は,台北のベテル家族の一員となり,内容がふえてゆく中国語の雑誌の校正を全時間行なうようになりました。翻訳の仕事はほとんど,香港にいた彼女の兄弟が行ないました。

その後の数年間に他の宣教者たちが続々と到着しました。1959年,宣教者の奉仕を他の都市にまで拡大することが決定され,首都から約320㌔南にある,台湾省で二番目に大きな都市高雄<カオシゥン>に小さな家が借りられました。ハルブルック兄弟姉妹と,ピールおよびヨハンソン両兄弟がそこに任命されました。

翌年の1960年4月には,協会の本部からヘンシェル兄弟が再び台湾省を訪れ,その時に阿美<アミ>族の区域でもう一つの大きな大会が開かれました。巡回大会や地域大会が定期的に行なわれるようになったことや,ブルックリンからの兄弟たちのそうした訪問は,自分がエホバの組織の一部であるという自覚を兄弟たちに与えました。このことは,兄弟たちの信仰や,エホバとそのみことば聖書の原則への献身的な愛に対する,さし迫っていた試練のための良い備えとなったことがわかりました。

中国語を話す人びとのあいだではなかなか発展が見られませんでしたが,阿美<アミ>語や他のことばを話す人びとのあいだでは表面上良い成果が得られているように思われました。台湾省の伝道者の最高数は1951年の417人から1957年の2,009人へ増加しました。さらに1961年8月には2,459人という空前の伝道者最高数が報告されました。そのうちどれほどの人がエホバとその正義の原則に対してほんとうに献身していたでしょうか。1961年4月から始まった王国宣教学校は実情を明らかにする助けとなりました。

特別開拓者と監督たち全員が,ハルブルック兄弟の指導の下で神のみことば聖書と組織的な事柄を4週間にわたって学びました。ことばが通じないという問題は依然としてありましたが,兄弟たちはその訓練から多くの益を得ました。ついで同学校は,東部に移り,その地域に住む責任を持つ兄弟たちの大部分を訓練しました。この課程は出席者全員に深い感銘を与えました。出席した兄弟たちは真理にそって生活することのたいせつさを理解するようになったので,台湾省における王国のわざに清めの時期が来ました。その結果,多くの人が,エホバに奉仕するうえでクリスチャンの模範に従うのをやめました。それらの人たちは,自分自身の利得のために組織と交わっていたにすぎませんでした。

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