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目ざめよ! 1973
目73 7/8 27ページ

聖書の真理は人びとに確かな希望を与える

この世の多くの人びとは,学問から真理を見い出し,また人間の努力で平和な社会を実現しようとしますが,失望に終わる場合が少なくありません。しかし,真理と平和を求める誠実な人びとは,聖書の真理を学ぶことによって確かな希望を見い出しています。最近,ものみの塔協会に寄せられた次の二つの経験は,そのことを示しています。

● 「私の家にエホバの証人が訪れたのは,大学二年になったばかりの春でした。私が大学へ行った目的は“真理”を見い出すことだったので,エホバの証人が訪問したころと時を同じくして校内の演劇活動に参加しはじめ,自分の時間と努力をほとんどそれに費やしはじめました。エホバの証人が携えてきた音信が真理であると確信するには,まだ知識が十分ではありませんでしたが,ただもうすぐ『終わり』が来るということが非常に強く印象に残っていたので,クラブをやりながらも聞いたことがらを友だちに話していました。それから1か月ぐらいたつと学校での生活が非常に忙しくなり,ほとんど研究は行なわれなくなりました。しかし,聖書から離れている期間に,今の大学の実状にだんだんと幻滅を感じはじめていきました。夏になり12月にする公演のための合宿やら準備におわれる日が続くようになりましたが,その公演は“近親相姦”と“殺人”がからんでいる劇で,討議もみんなの意見についてゆけず,ますます空虚感を感じるようになりました。公演が終わるとかならず,打ちあげがあり,一晩中飲んだり,踊ったり,真夜中の町を歩いて,あげくの果ては酔ったいきおいで男女が非常な不品行に陥るのが,私の入っていたクラブの常でした。

「そのようなサタンの風潮に慣れつつあったとき,そのエホバの証人が一冊の『進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか』の本をおいていってくださいました。それを読んでエホバの証人が真実を語っているという確信のようなものを得,留守にしても熱心に通ってくださる誠実そのもののエホバの証人の姿に深く考えさせられ,もしほんとうならたいへんなことだから,とにかく徹底的に調べてみようと決心してクラブをやめました。それは9月の中旬です。9月の終わりから週3回づつ『とこしえの命に導く真理』の本の研究をしていただき,12月には伝道奉仕を開始しました。それから翌年の3月,水のバプテスマで献身を表わしました。大学は,“大いなるバビロン”が経営するものだったので,5月に退学しました。家のものは,大学をやめることにたいへん反対しましたが,エホバが常に私を強めてくださいました。私は求めていた真理を大学でではなく,全く予期しなかった方法で得ていたからです。それというのもエホバがちょうどよい時に私の家に伝道者を遣わし出版物を備えて私の心を開いてくださったからです。私は,今嘆き悲しんでいる羊のような人びとに,神のことばを伝えるためもっと多くの時間を費やしたいと心から願って,全時間伝道者になることを計画しています」。

● 以前共産党員であった一人の人は,自分の経験を次のように述べています。

「私は今から13年程前から『ロシア革命』『中国革命』『マルクス・レーニン主義』などの本を読みあさるようになり,平和な社会の実現は社会主義国家の建設によってのみもたらされるものと信じ,1960年に『日本共産党』に入党しました。以来,東京・文京区と岡谷の各支部の幹部として働きました。しかし,その後数年たつうちに,活動が単に資金集めと選挙の票集めに終始しており,『このようなことで平和な社会が実現するのだろうか』と考える毎日となりました。党に対する不信感が日を追って強くなり,1968年脱党届を提出することにしました。

「そんなある日,一人の若い「エホバの証人」の訪問を受けました。私は神の存在を全く信じていませんでしたので,彼女の考えを変えようとしました。しかし,その若いエホバの証人は,私の理屈っぽい理論に対して終始おだやかに接しました。そして2冊の書籍を取り出し,調べてみるように勧められました。私と妻は,その本を求め,2回目の訪問から研究が始まりました。妻は,以前聖書を学んだことがあり,すぐに受け入れましたが,私は社会主義の思想から抜け切れませんでした。研究が進むにつれ,人間の力の弱さと人間が平和な社会を実現できないこと,エホバ神こそ頼るべき愛ある神であることを知るようになり,いやいやながら出席していた集会にも進んで出席するようになり,そこでの交わりから得た知識は,時の緊急性と宣べ伝える業の意味と重要性を教えてくれました。1969年に,いろいろな事情から私たちは岡谷から約38㌔余離れた高原に引っ越すことになりました。が,車で往復3時間の道のりも,伝道や集会への参加を多少阻むようになったとはいえ,エホバ神への献身は変わりませんでした。そして,伝道者としての資格を得るよう,会衆の兄弟と若い姉妹が往復70㌔余の道のりにもかかわらず,定期的な研究の取り決めができ,援助してくださいました。これらエホバの証人の熱心な努力と愛は,私たちを決意させるものとなり1970年5月,二人そろってバプテスマによって神への献身を表わす喜びを味わいました」。

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