ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目73 8/22 3–7ページ
  • ものみの塔協会の沼津の新しい建物

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • ものみの塔協会の沼津の新しい建物
  • 目ざめよ! 1973
目ざめよ! 1973
目73 8/22 3–7ページ

ものみの塔協会の沼津の新しい建物

― 永続する世界平和の希望を広めることに貢献する

今から25年前には,エホバの王国にかんする聖書の良いたよりを宣べ伝えていた人は日本全国でひとりもいませんでした。1949年に,初めて到着することになっていたものみの塔の宣教者たちの1グループが横浜に向かって航海中,彼らは富士山のすばらしい眺めを楽しむことができました。もしその時,だれかがそれらの宣教者たちに向かって,将来いつの日か,あの山のふもとの海岸沿いで,3階建の工場と5階建のベテルの住まいが日本におけるエホバの王国の事がらに貢献していることだろうと言ったら,彼らは,そんなことはありえない! と言ったことでしょう。

ところが,そのありそうになかったことが今では現実のものになっているのです! エホバの証人が再三再四理解するようになったことですが,現在の世界的な宣べ伝える活動が1919年に始まって以来,『小さき事の日を卑む』ことはできません。エホバはご予定の時に,ご自分の方法によって物事を成長させられるのです。『萬軍のエホバのたまう これは権勢によらず能力によらずわが霊によるなり』― ゼカリヤ 4:6,10。

1949年に,16人のものみの塔の宣教者が働き人の中核として日本に到着しました。彼らは,新しい言語を学ばねばならず,わずか一種類の小冊子,それに文書として用いるいくらかの謄写版刷りの印刷物があるのみで,しかも戦争で打ちひしがれた幾千万人もの人びとに聖書の音信を携えて行かねばならないのを見て,その出発が困難なものであることに気づきました。しかし,1,2年のうちに小さい会衆が東京,神戸,大阪,名古屋,横浜,そして京都に設立されました。戦前のかつての証人たち,また彼らと交わっていた人びとの居所もわかりました。そしてそれらの人の多くは喜んで,王国を宣べ伝えるわざを再び行ないました。その中には,仙台市の近くの石森町の三浦家族,呉市の石井家族,そして鹿児島市の東家族がいました。

海外からの宣教者たちの数はやがて91人にまで増加しました。しかし何年か経つうちに,彼らの宣べ伝える活動に大勢の日本人の証人が加わるようになりました。1973年4月には,49人の外国人の宣教者に加え,日本中で,4,223人もの日本人の全時間奉仕者たちが神の王国を宣べ伝えることに忙しく携わりました。それよりもさらに大勢の部分時間の奉仕者たちの数を合計すると,4月の日本における証人たちの数は,16,675人になります。それらの証人たちは,日本列島の12の島々に組織されている503の会衆と109の孤立した群れとともに活動に携わっています。これらの会衆と群れは,1973年4月17日の主の夕食式の出席者数として合計,38,948人を報告しました。

この拡大に伴って,教育的な聖書文書の配布数は著しい増加を見せました。1951年5月に,「ものみの塔」誌が初めて日本語で発行され,月1回発行の印刷部数は2,000冊でした。現在その雑誌は月に2回発行されており,1973年4月15日号は36万冊以上印刷することが必要でした。その姉妹誌である「目ざめよ!」誌は1956年1月に日本語で発行され始めました。最近では1つの号に,33万9,000冊も印刷されました。多くの月々に,聖書研究用の教科書の野外での配布数は,10万冊を超え,1972年12月には,158,201冊にまで達しました。

このような拡大の結果,充実した組織と,働くための十分に広い場所が必要になってきました。東京,三田五丁目5番8号にあった2階建の木造の建物はこうした急速な拡大による圧力に耐え,1949年から1962年まで協会の日本支部としてその役割を果たしてきました。しかし,1963年にその建物に代わって,同じ敷地に6階建の鉄筋コンクリートの建物が建てられました。その年,宣教者たちとともにこのりっぱな建物に移った10人のベテル奉仕者の家族は,どうしたらこの広々とした建物を十分に利用できるようになるだろうか,といぶかったものです。

しかし,神の王国を宣べ伝えるわざは引き続き拡大しました。1969年10月には,12,614人の人びとが東京後楽園競輪場で開かれた「地に平和」国際大会に出席しました。そのころまでには,東京の建物が,急速な拡大に対処するには,またもや小さすぎることが明らかになりました。訪問中の,ものみの塔協会会長N・H・ノアは,大会中に急いで沼津を訪れ,市のはずれの三本松に約3,700平方㍍の土地を買い入れる取り決めを設けました。1970年と1971年の間,この土地に建っていた9つの建物は,王国宣教学校,およびものみの塔協会が全国向けに発送する文書と雑誌を扱う中心地として重要な役割を果たしました。

1971年の末にかけて,それら9軒の古い建物の取りこわしが始まりました。そのうちの1軒から得られた古材は磐田市へ運ばれ,王国会館を建てるのに用いられました。他の家屋も取りこわされ,その古材は家具を作るのに再び用いられました。1972年1月には,沼津支部の新しい建物の建築工事が本格的に始まりました。日本中のエホバの証人は,寛大な直接の寄付と貸付け金を通じて,その工事のための資金全部を供給しました。外国人の宣教者と日本人の奉仕者たちから成るエホバの証人のある人びとは,電気工事,タイルを張り,じゅうたんを敷く仕事,それに家具を作る仕事のすべてを行なうために彼らの技術を提供しました。造園業を営む地元の1証人は,親切にも,りっぱな芝生と盆栽を寄付し,造園工事を手伝いました。他の自発的な働き人たちも多くの面で貢献し,助けになりました。

その最終的な結果は,この写真のような美しい実用的な建物となりました。広々とした工場の1階と2階は,自動鋳造,組版,紙型取り,それに印刷用鉛板を鋳造しニッケルメッキをかけ,さらに雑誌を実際に印刷し,とじ,断裁するのに必要なあらゆる機械が備わっています。平版印刷機は用紙,ビラ,その他の小さい印刷物を印刷します。工場の他の部門では,雑誌や文書を郵送したり,発送したりするため包装や箱に詰める作業が行なわれます。梱包機械は紙の断ちくずを圧縮し,後日それは業者に買い取ってもらいます。大工および機械部門は,建物の設備を整えたり,修理をしたりします。5階建のベテル・ホームには,50人の自発的な働き人から成る一致した家族のために,ベッドのある個室,シャワーと風呂の設備,広い食堂と良い食事,図書室,洗濯室,そして理髪の設備が備わっています。王国宣教学校で二週間訓練を受けるため,間もなくここを訪れる25人の生徒を収容する余裕は十分にあります。学校および生徒たちのその期間の滞在費は,無償となるよう取り決められています。そこにある王国会館はまた,エホバの証人の沼津会衆によって,毎週5つの集会のために使用されています。

ものみの塔協会の沼津工場では,エホバの証人および聖書教育に関心を持つ他の人びとのために聖書の出版物を供給する面ですでに勤勉な努力が払われています。書籍とか小冊子のような出版物のための印刷用の紙型はニューヨークのブルックリンにある協会の印刷工場に送られ,そこで印刷と製本が行なわれます。沼津工場の1階にある40㌧の輪転機は,日本全国に発送するため,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌をすでに一千万冊以上生産しました。

1973年4月28日に,ものみの塔聖書冊子協会の会長,ネイサン・H・ノアは,新しい建物の献堂式のため沼津を訪れました。おもに地元の静岡県の巡回区から合計677人が出席しました。日本各地からの宣教者も相当数そこに出席しました。そして彼らは会長と特別な食事をともにし,ゆっくり交わって一泊するよう招待されました。献堂式の話は土曜日の午後,工場の3階で話されました。

その話の中でノア会長は,西暦29年当時,地上でただひとりの人だけが神の王国を宣明して歩いていたことを思い起こさせました。それはイエスでした。そして多数の人びとがイエスをメシヤとして認めました。当時それは小さな始まりに過ぎませんでした。3年半のちの五旬節の際に120人の人が証しをするために聖霊を受けました。その場に日本人がいたという記録はありませんが,イエスは日本人のことを思いに留めておられたかもしれません。その日に多くの国々から来た3,000人の人は自分をささげて,バプテスマを受けました。こうしてクリスチャン会衆の組織は非常にすばやく発足しました。それより3年半前にそのこととかかわりがあったのはわずかひとりに過ぎませんでしたが,今や音信は,今日まで続けられてきた伝道方法で広められていったのです。

ノア会長は,2世紀のちに,クリスチャン会衆が「おおかみ」によってどのように乗っ取られたかを説明しました。背教したキリスト教世界が存在するようになり,今では9億人の人がその組織に所属しています。キリスト教世界は実際には,イエス・キリストが神の子であることを信じていません。その僧職者たちは,イエスがりっぱな人物であったことを人びとに教えていますが,罪を拭い去るための神の代理者であることを教えてはいません。しかし,わざによって自分の信仰を証明している人びとが確かに存在しています。

それから会長は,今から100年以上前に,青年であったC・T・ラッセルが神に深い関心を示すようになって以来,地上の真のクリスチャン崇拝が現代において復興したことをさかのぼって説明しました。彼は神への信仰を示したいと願った非常に精力的な人でした。その時以来,ラッセルのような人はさらに多く交わってきました。1900年代当初のものみの塔協会の建築計画の大要を述べたのち,ノア会長は,協会がブルックリンの8階建の新しい工場に移ったとき,みんなは周囲を見まわして,「これだけ広いスペースをどうするのだろう」と大声で言った,と話しました。今その建物は,4つの大きな建物から成る工場群の小さな部分を占めているに過ぎません。ものみの塔協会は,ブルックリンのコロンビア・ハイツ通りにもう2つのベテル・ホームを建て,近くにあるかつてのスクィブ会社の建物を取得しました。そして現在,ニューヨーク州北部に非常に大規模な印刷工場を建設中です。

ノア氏はこう述べました。「それはちょうどきょうここにいるみなさんのようです。みなさんがこの沼津工場の3階に入って来たときに,『がらんどうですね』と言われたことでしょう。……このあいている場所はみなさんの信仰を表わしています。わたしたちはこれから1,2年のうちにその場所が必要になる,ということを信じているのです。神の組織は前進しています。しかも早い速度で前進しています」。

会長は,過去3年間にエホバの証人が,世界のあらゆる場所でどのように拡大してきたかを説明しました。大規模な建築計画が進行中です。「その理由はわたしたちが建物をふやしたいからではありません。何万人もの人びとが真理に入りつつあり,協会に文書を求めてきているのです。1972年中に,協会は3,300万冊の書籍と聖書を印刷することが必要でした。日本は,今何が起こりつつあるかを示す典型的な例です。この国の人びとは聞く耳を持っています。彼らは神への信仰を培ってきました。その信仰は偽善的なキリスト教世界の信仰のようなものではありません。それらの人びとはわざによって信仰を示したいと願っており,それゆえ神の組織に集まっているのです。それはちょうどヤコブ書 2章14節から25節までの中で述べられているとおりです」。

ノア会長は,4月3日に行なわれたニューヨーク州にある新しいベテルホームの献堂式について説明し,その建物が450人を収容できること,またエホバの証人自身がそのホームの建築工事を行なったことを話しました。協会は,ブルックリンのベテルの家族のうち,ベテル奉仕に25年以上を過ごした86人の年を取った人たちをその献堂式に連れて行きました。そのうち44人は油そそがれた者たちでした。彼らのうちある者は,(1916年になくなった)パスター・ラッセルの時代までさかのぼることができます。そのひとりであるフレッド・フランズは今年80歳になりますが,それでも,大阪国際大会に出席する予定です。

ノア氏は,マラウィとケニアのエホバの証人たちが迫害に直面した際にとった忠実な立場について話しました。アフリカのザイール共和国では,政府によって認可されているのは3つの宗教だけであると同氏は語りました。それ以外の教派が認可を求める場合には,政府に10万㌦を預けなければなりません。わたしたちはそのことをしませんでした,とノア氏は話しました。宣教者はまだそこにおり,集会は王国会館で開かれていますが,迫害は厳しいものです。ノア氏はさらにこう語りました。「わたしたちは求められている民ではありません。わたしたちは,絶えず神の王国を支持し,神の側に立ち,そしてイエスが死人の中からよみがえされたという信仰を示さなければなりません。今のところ日本では,みなさんの行なっておられることはとても順調に進んでいますが,いつの日か,献身しているすべての人は極限まで試みられるでしょう。今こそ,信仰を築き,それを強め,聖書がほんとうに神のことばであることを人びとに示し,それらの人がわざによって信仰を証明するよう援助すべき時です。……わたしたちの信仰はくちびるによって証明されるのです」。

沼津で集会が開かれた前日の4月27日の夜,東京方面の4,273人の人たちは,日大講堂で行なわれたノア会長の話を聞くため,鉄道ストの問題を克服して出席しました。献堂式の翌日には,8,159人が晴天の野外で二時間のすぐれた話を聞くため,もと万博会場の“お祭り広場”近くにある芝生の広場に集まりました。これにより,去る4月,日本への短期間の訪問中,ノア会長が行なった話を聞くため合計13,109人が3つの集会に出席したことになります。そして日本にいるエホバの証人たちは,1973年7月25から29日まで,もと万博会場の同じ“お祭り広場”で開催される5日間の大会に非常に大勢の人が出席することを期待しています。

約24年前,日本の島々における王国を宣布するわざの始まりは非常に小さなものでしたが,耳を傾ける人すべてに真実の希望にかんする王国の音信が携えられるにつれ,今ではかつてない繁栄が見られます。それは預言者イザヤがイザヤ書 42章10,12節で語っているとおりです。「もろもろの島およびその民よ エホバにむかひて新しき歌をうたひ 地の極よりそのほまれをたたへまつれ……栄光をエホバにかうぶらせ そのほまれをもろもろの島にて語りつげよ」。

[3ページの写真]

ものみの塔協会の新しいベテル・ホームと工場 ― 沼津市

[5ページの写真]

沼津ベテルの塔と玄関

[6ページの写真]

製版部門 ― 工場の2階のこの一角では印刷に用いる鉛版が準備されます

[7ページの写真]

食堂 ― 沼津ベテルの家族は朝食前のひと時,聖書の討議を楽しみます

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする