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  • 目ざめよ! 1974
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目ざめよ! 1974
目74 11/22 16ページ

「今度は何と言ってしまいましたか」

わたしたちの多くは,自分がことばを話せるのは当然のことのように思っています。何かがほしければそれを求めることができ,何かを説明したり描写したりする時ことばを見つけるのは難しいことではありません。

しかし,外国で新しい言語を苦心して学んでいる宣教者たちにとっては事情は全く異なります。最も単純な文を作ることにさえおとし穴があります。

幸いなことに,ラテン・アメリカの人々は,新参者に対しては一般にとても丁寧です。ですから間違ったことを言っても笑わないようにしてくれます。それでも,あまりまちがっていれば微笑を隠せなくなります。そんな時,頭の中に浮ぶのは「今度はどんなことを言ってしまったのだろう」という疑問です。

わたし自身も教訓となる経験をしました。わたしと妻がペルーに来て,数週間してから荷物が船便で届きました。荷物を確認するためにターミナルへ行くと数人の税関吏がわたしたちにあいさつをしました。わたしたちはもちろん彼らに良い印象を与えたいと思っていましたし,言葉もだんだん上達していることを示したいと思いました。特に丁寧で友好的であった一人の税関吏と話していたとき,わたしは彼が,あなたは何年持っていますか(クワントス アニョス ティエーネ)と聞いた,と思いました。これは,スペイン語で「おいくつですか」と聞く時の言い方だからです。わたしは,今こそ自分がこの奇妙な文章構造を知っていることを示す良い機会だと思いました。ところが彼の目の中に,今ではおなじみになったきらめきを見たとき,自分がどこかで何かを間違えたことがわかりました。彼が実際に聞いたのは,幾人の子どもがいるか(クワントス ニニョス ティエーネ)ということでした。そして,そうです,わたしには28人,妻には29人いると答えてしまったのです。

浜辺へ遊びに行った後,友人の一人は,サンダルを履いていたのでフトボル,つまりアメリカのサッカーに似たゲームに加われなかったことを説明しました。わたしが,サンディアスを履いていたからと言った時,その人は最初けげんな顔をしましたが,その目はやがて輝きはじめました。「ああ,サンダリアスのことですか」と彼は言いました。いい加減にしておくのでは不満だったので,サンディアスとは何なのか聞いてみました。彼はあまり言いたがりませんでしたが,ついにそれが果物の一種であることを教えてくれました。

「そうですか。どんな果物ですか」とわたしは尋ねました。

「そうですね,それは緑色をしていて,どちらかといえば丸くて,そして……」

少し説明されてからどんな果物であるかがわかりました。スイカを履いてサッカーをしているところを想像できますか。

かわいそうにある宣教者は,「結婚した」を意味する「カサド」と「疲れた」を意味する「カンサド」とを混同してしまいました。ラテン・アメリカの一証人が若い宣教者の姉妹になんの悪気もなく,その姉妹が結婚しているかどうか尋ねました。それを「お疲れですか」という意味に受け取ったその姉妹は,同じほど無邪気に答えました。「はい,夜だけは」。

南アメリカの人々は一般に他の人々のことに関心を持っており,人を助けようとする精神がおうせいです。しかし,ある若い婦人宣教者は,彼らが余りにも関心を示してくれるので驚いてしまいました。彼女が腰をかけたいすは弱くなっていたので突然つぶれてしまいました。床の上で彼女は涙をうかべて,「困ったわ!(英語でアイム ソー エンバラスト)」(メ シエント タン アボチョルナダ)と叫びました。―あるいは,そう言ったと自分では思った,と言ったほうがよいかもしれません。とたんにみんなが特別にやさしくなり,助けとなってくれました。自分が言ったことが本当は,「わたしは妊娠している」(エストーイ エンバラサダ)と言うことであったのを彼女が知ったのは後になってからでした。

このような不手際や失敗にもかかわらず,エホバはペルーの宣教者の努力を祝福して来られました。彼らの進取的な精神によって,他の人々は人類に対する神の愛ある目的を学ぶのを助けられました。一人の宣教者は,スペイン語を話す面で余りにも多くの問題があったので,最初の聖書研究に行った時,家の人は自分で質問を読み,それに答え,節を読まねばならなかったと話しています。それでも,この女の人は今では献身してバプテスマを受けた神の王国の宣明者になっています。

ことばがなかなか見つからなかったり,ある時は,見つかっても後から考えてみれば見つからなかったほうがましだったように思えることもあります。しかし,ユーモアを解する気持ちがあり,少しばかり自分自身を笑うことを恐れなければ,自分たちの,どちらかと言えばおもしろい間違いを楽しむことさえできるのです。確かに,わたしたちは心暖まる思い出をたくさん集めました。―寄稿

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