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  • 週の七日目に働くのは悪いことですか
  • 目ざめよ! 1975
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目ざめよ! 1975
目75 5/22 26–27ページ

聖書はそれをどう見ていますか

週の七日目に働くのは悪いことですか

神がイスラエル民族に与えた十戒の第四番目の戒めには次のように記されています。『安息日を憶えてこれを聖潔すべし 六日の間労きて汝のすべての業をなすべし 七日は汝の神エホバの安息なれば何の業務をもなすべからず』― 出エジプト 20:8-10。

安息を意味する英語の“サバス”という言葉は,「休む,やめる,労働をやめる」という意味のヘブライ語の語根に由来します。聖書は,イスラエル人が安息日には料理をしたり,パンを焼いたり,薪を集めたり,荷を負ったり,商売をしたりすべきではないことを明記しています。(出エジプト 16:23,29。民数 15:32-35。ネヘミヤ 13:15)安息日に働くイスラエル人はだれでも『必ず殺され』ることになっていました。―出エジプト 31:15。

ところで,週ごとの安息を守ることを定めた神の律法は依然有効であると主張する人は少なくありません。なかには,この要求は族長アブラハム,イサクそしてヤコブによって守られたもので,実際その起源は昔のエデンの園にまでさか上ると言う人もいます。

聖書はこの問題をどう見ていますか。週の七日目に働くのは依然として悪いことですか。

誠実な態度で調べてみると,聖書は週ごとの安息を守る取決めがエデンの園のアダムとエバの時にまでさか上るとは述べていないことがわかります。また,アブラハムは神のある特定の「誡命」や「憲法」や「律法」を守りましたが,週ごとの安息を守ったことを示す箇所は聖書には一つもありません。―創世 26:5。

アダムとエバが創造されてからおよそ2,500年後,そしてアブラハムの死後何世紀もたった後,シナイ山でモーセの律法契約を結ぶ直前になって初めて,神は週ごとの安息を守るよう命令されました。出エジプト記 16章によると,神は奇跡的に備えたマナを一週のうち六日間拾うようイスラエル人に命じましたが,七日目にはそうしてはなりませんでした。その日は「エホバの聖安息日」になるはずでした。―出エジプト 16:23。

安息に関する律法が新しいものであることを示したモーセは,次のように述べました。『この契約はエホバわれらの先祖たちとは結ば[ざりき]……汝誌ゆべし 汝かつてエジプトの地に奴隷たりしに汝の神エホバ強き手と伸べたる腕とをもてそこより汝を導き出したまへり 是をもて汝の神エホバなんぢに安息日を守れと命じたまふなり』― 申命 5:3,15。

週ごとの安息は永久に効力を維持することになっていましたか。聖書はそのように述べてはおらず,かえってイエス・キリストが『律法を成就するため』に来たことを説明しています。(マタイ 5:17)ゆえにこう記されています。「彼[キリスト]は自分の肉によって……数々の定めから成るおきての律法を廃棄し(ました)」― エフェソス 2:15。またローマ 6:14; 7:4,6もご覧ください。

なかには,これらの句は過ぎ越し,ペンテコステの祭り,贖罪の日,第七年目そしてヨベルの年つまり第五十年目などの特別な安息を含む「儀式の律法」にのみ適用されるとして反論する人もいます。そのような人々は,週ごとの安息に関する要求を含む十戒は,過ぎ去った「儀式の律法」とは別個のものであると考えます。ほかには,第七日の安息を守るようにとの命令はモーセの律法が成立する直前に与えられたので,その命令は律法と共に過ぎ去ったわけではないと言う人もいます。聖書はこれらの見解を支持していますか。

興味深いことに,イエスはご自分が成就するために来た律法について論じたとき,殺人や姦淫を禁ずる,十戒の第六および第七番目のおきてをも含めました。(マタイ 5:17,21,22,27,28)使徒パウロは十戒の第十番目のおきてを,クリスチャンがその下から「解かれ」ている律法の一部として含めてこう述べています。「実際,律法がなかったなら,わたしは罪を知ることがなかったでしょう。たとえば,律法が『あなたは貪ってはならない』と言っていなかったら,わたしは貪欲ということを知らなかったでしょう」。(ローマ 7:6,7。ヤコブ 2:10,11と比較してください。)週ごとの安息の律法が,モーセの律法以前に与えられたことについて言えば,割礼についても同じことが言えます。ところが,聖書の示すところによると,割礼もやはりクリスチャンに対して拘束力を持ってはいません。―創世 17:9-14。コリント第一 7:19。

とはいえ,これはクリスチャンがいかなる道徳的律法の下にもないと言う意味ではありません。クリスチャン・ギリシャ語聖書は両親を敬うこと,また偶像崇拝,殺人,姦淫,盗み,貪欲などを避けることを強く勧めています。(エフェソス 4:28; 6:2。ヨハネ第一 5:21。ペテロ第一 4:15。ヘブライ 13:4。コロサイ 3:5)しかし,クリスチャンが週ごとの安息を守らねばならないと述べている箇所は,“新約聖書”のいずれの書のどこにもありません。

では,イエスご自身が安息を守り,神の「おきて」のすべてを守るよう聴衆を励ましたのはなぜですか。(マタイ 5:19)なぜなら,イエスが地上で生きておられた間,イエスとその弟子たちは共に,イスラエル人としてモーセの律法契約に服さねばならなかったからです。(ガラテア 4:4)イエスがご自分の「肉体」を犠牲として与えて死に,復活させられて初めて律法が廃棄され,「新しい契約」によって置き替えられたのです。―ルカ 22:20。ヘブライ 8:13。

週ごとの安息を守るようにとの命令をも含めて,律法契約全体がイエス・キリストにおいて終わりを告げたゆえに,使徒パウロはクリスチャンに対して次のように書き送ることができました。「あなたがたは,食べることや飲むことで,また祭りや新月の習わしや安息日に関して,だれからも裁かれるべきではありません。そうした事はきたるべきものの影であり,その実体はキリストに属しているのです」。(コロサイ 2:16,17)それより前に,パウロはガラテア州のあるクリスチャンに関して自ら「労苦したことがむだになった」のではなかろうかとの懸念を表明しました。というのは,彼らが依然として「日や月や時節や年を細心に守って」いたからです。―ガラテア 4:10,11。

それにしても,クリスチャン・ギリシャ語聖書のヘブライ 4章9節に,「神の民のために安息の休みが残っています」と記されていますが,これは何を意味しているのでしょうか。それはクリスチャンが週の七日目に働くのは悪であるという意味ですか。

そうではありません。というのは,文脈が示すように,その「安息の休み」とは,エジプトを去ったイスラエル人の大多数が約束の地で『神の休み』に入るのを妨げた不信仰の態度を取るようなことをクリスチャンはやめなければならないということを意味しているからです。(ヘブライ 3:12,18,19; 4:3)また,クリスチャンは不信仰の「業」,それも特に単に善行あるいは慈善行為をすることによって神の前で自分を正当化しようとする努力をやめて,その点では休まねばなりません。(ヘブライ 4:10。ローマ 3:20)聖書によれば,イエス・キリストに対する信仰によってのみ神のみ前における正しい立場が得られます。(ローマ 3:28)クリスチャンはそのような安息の休みを週に一日だけでなく,毎日守らねばなりません。

もちろん,七日のうち一日を休息の期間として取るのは少しも悪いことではありません。それは身体の必要とする休息や,神のことばを学んだり,霊的に人を鼓舞する他の活動に携わったりする機会を供するものとなります。特別な目的のために日を当てるのであれば,それは各人の決めるべきことです。

とはいえ,週の七日目に働きたいと思う人がいれば,聖書はそうすることに反対するものではありません。それは使徒パウロが述べたとおりです。「ある人は,ある日がほかの日にまさると判断し,別の人は,どの日もほかのすべての日と同じであると判断します。おのおの自分の思いの中で得心していなさい」― ローマ 14:5。

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