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  • 目ざめよ! 1977
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目ざめよ! 1977
目77 10/22 13–15ページ

ボリビアにおける信仰の奇妙な混合

ボリビアの「目ざめよ!」通信員

ボリビアに住む約500万の人々のうち,200万人ほどはアイマラ族とケチュア族のインディアンです。彼らはカトリックを信仰していると言いますが,先祖の崇拝した神々と“聖人”とを混同しています。およそ四世紀間もカトリック教会が存在しているボリビアに,そうした状態が見られるのはなぜでしょうか。

カトリックの宣教師の働きに関して,ロバート・バートンは「ボリビア小史」と題する著書の中で次のように述べています。「彼らは,原住民にキリスト教を理解させようと努めるかわりに,改宗者を大勢得ることを目的として仕事を開始した。実際多くの宣教師は,キリスト教の教義と未開人の迷信的な考えとが類似しているかのように見せかけた。今日まで二つの宗教の混合が続いているのはこのためである」。

こうした「二つの宗教の混合」が顕著に表われるのは,トドス・ロス・サントス,つまり万聖節です。キップ・レスターとジェーン・マッキールは「ディスカバー・ボリビア」と題する著書の中でこう述べています。「カンペシーノ[土着の農夫]にとってトドス・サントスの祭りは,こうした聖日を守るクリスチャンのしきたりとチュルパスにささげられる崇拝とが結合したものである」。

チュルパスとは,チチカカ湖周辺に見られる,成形していない石で造られた円形の塔のことです。それらは本来,インディアンのしゅう長の墓であったとされています。

カトリック教会が他の多くの異教の風習に手を加え,それらをキリスト教の風習として存続させてきたのは興味深いことです。“万霊節”も真のキリスト教に由来するものではありません。「ファンクとワグナルの民間伝承・神話・伝説標準辞典」は,“万霊節”の起源について次のように述べています。「一年のある時期(大抵年末に近いころ)に死者のための日を設ける習慣はほとんど世界中で見られるが,万霊[節]とは本来そうした習慣を真似たものである。バビロニア人は万霊祭を毎月行ない,その都度祭司によって犠牲がささげられていた」。

初期クリスチャンたちが,死者の“魂”のための祭りをしなかったことは理解できます。霊感による聖書が,「罪を犯した魂は必ず死ぬ」と教えているのを彼らは知っていたのです。(エゼキエル 18:4,口)そうです,死者は本当に死んでおり,復活を待っているのだということを,初期クリスチャンたちは理解していたのです。―使徒 24:15。

宗教の奇妙な混合が見られる別の例はディアブラダ(悪魔踊り)です。「太陽の門,ボリビアの将来」と題する本には,この悪魔踊りについて次のように述べられています。「それは,異教とキリスト教神話の結合に由来するもので,今なおボリビアの日常生活に広く見られる二元性の興味深い例である」。

ボリビアの非キリスト教徒の伝承によると,悪魔は鉱山に住み,鉱物と金属の所有者とされています。炭坑労働者たちは落盤から身を守られるようにと毎日悪魔に祈願します。また,種々の伝統舞踊団(鉱山都市オルロのあらゆる階層を代表する)は,非常に派手な仮面や衣装を付け,踊りの中で悪魔の役を演じます。彼らは自分たちのために,ビルヘン・デル・ソカボン,つまり鉱山の聖母に祈願します。カトリック教徒の考える聖母とは,もちろんマリアのことです。

カトリック教会が悪魔踊りに関係している点を指摘して,前述の「ディスカバー・ボリビア」はこう述べています。「悪魔踊りを踊る者たちは,舞踊だけでなく,多くの宗教的な儀式を仰々しく行なう。サン・フェリペ丘陵のふもとにある有名なソカボン教会では,カーニバルの間やカーニバルの後の定まったときに,まずマリアに対して敬意が払われ,それからミサが行なわれる」。

“悪魔”の衣装を付けた人々が教会に入り,カトリックの司祭の行なう聖ざん式にあずかるのを見掛けることがあります。悪魔踊りを踊る人々は教会の中に入る際,ソカボンの聖母に次のように話しかけます。「あなたの悪魔の子供,坑道を守るいとしい母の子供である私たちは,あなたの恵みを請うために地獄からやってきました」。そして教会に来るのは,今年はこれで最後というときには,その年のためにこのような別れの祈りをささげます。「スズの山におけるように,太陽の光を注いでください。私たちの心にあなたの恵みを注いでください。いとしい母,天にいます神の母よ,来年まで私たちを保護してください。では来年まで,ごきげんよう」。

ディアブラダが持つ二重の性格に関して,作家のマーガレット・ジョアン・アンスティーはさらにこう説明しています。「カーニバルの際に炭鉱労働者が,一年中彼らのあがめる悪魔の役に親近感を示すことによって聖母への献身を再び肯定するとき,ディアブラダの二重性に新たなゆがみが生じる。こうした二重傾向が同時に作用するのは例外的なものではなく,宗教を融合的[異なる形態の信仰や風習の結合]に受け入れる,アンデス山脈インディアンの特色がとりわけ顕著に表われた例である。新しい信仰が以前から存在する信仰を押しのけることはない。退けられるものは何もなく,新しい教義は従来の信仰の骨組みに吸収され,両者はもはや解きほぐすことができないほどに絡み合う」。

多くの人は信仰のこうした奇妙な混合に特別動揺を感じないかもしれません。しかし重要な問題は,全能の神はそれについてどう感じておられるかという点です。使徒パウロはコリントのクリスチャンにあてて次のように書きました。「異邦人が供える物は,神にではなく悪魔たちに供えるのだと私はいう。私は,あなたたちが悪魔たちと交わるのをのぞまない。あなたたちは,主のさかずきと悪魔たちのさかずきとを,同時に飲むことができない。また,主の食卓と悪魔たちの食卓とにともにつくことはできない」。(コリント第一 10:20,21,バルバロ訳)「釣り合わないくびかせを,未信者といっしょに持つな。正義と不義とに何のつながりがあろう。光と闇とに何のまじわりがあろう。キリストとベリアルとに何の了解があろう。信者と未信者とに何のかかわりがあろう」― コリント第二 6:14,15,バ訳。

ボリビアにおける信仰の奇妙な混合は,こうした霊感による言葉が無視されていることを物語っていないでしょうか。そうであれば,神はどうしてこのような「混合」を是認されるでしょうか。神のみ子の言葉によると,父は「霊と真理をもって崇拝する」人々を求めておられます。(ヨハネ 4:23,24)非キリスト教の神話的な考えが真理でないことは明らかです。したがって,そうした考えを捨てない人々は,神に是認される崇拝をささげることはできません。

しかし幸いなことに,エホバの証人の熱心な活動によって,多くの誠実なボリビア人は聖書の教えを理解するようになり,非キリスト教的な風習を捨てました。それらの人たちは,「かれらから離れて,とどまれ……汚れたものにふれるな」という霊感による勧めの言葉に留意しているのです。(コリント第二 6:17,バ訳)あなたもそのようにしておられますか,あるいはそのようにするつもりですか。

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