神に聞き届けられた祈り
今日でも幾千万の人々がいろいろな形の祈りをささげていることでしょう。しかし,いったいそのうちの何人が自分の祈りが神に聞かれているとの確信をもっているでしょうか。神に聞かれる祈りと,神に達しない祈りがあるのでしょうか。今から19世紀ほど前,正式なエホバ神の崇拝者ではなかったローマ人のコルネリオの祈りは神に聞き届けられました。そのことは,聖書の使徒たちの活動 10章4節に,「あなたの祈りとあわれみの施しとは記念として神のみまえに達しました」と書かれていることから分かります。では今日,神はどのような祈りに対して耳を開き,答えとなる反応を示してくださいますか。3人の方から送られた体験談をここにご紹介します。
「私の家は仏教ですが,母の妹であるおばの家が天理教の教会を開いています。おばたちは『助ける者は助かる。悪い因縁は切らねばならぬ』と熱心に布教に励んでいました。私は23歳の時,おばの勧めで3か月間天理教の修養科に行くことになりました。さて,7月初めに修養を終えて帰ってほんの2か月後に,私にとって重大なショックとなる出来事が起こりました。父が職場で心筋梗塞のために急死してしまったのです。私はこの時『神様,父を生き返らせてください。もしそうしてくださるなら天理教の布教師になって一生をささげます』と涙ながらに祈りました。しかし,その祈りは聞かれませんでした。私は,死に対する人間の無能さを身にしみて感じました。やがて結婚し4人の子供が生まれましたが,因縁への恐れにしばられて家族の幸福のため毎月二,三回子供と母を連れ,天理教会へ行っていました。しかし,世の中は次第に悪が栄える時代となり,将来に対する不安も広がってゆきました。一生懸命ご神銭(寄付)を教会に運んでも,保護されるという確信は持てませんでしたし,世を嘆くだけで全く将来の希望もありませんでした。それで『天の一番上におられる神様,この世をなぜ助けてくださらないのですか。こんな生き方をしていてもよいのでしょうか。何か変化をもたらす素晴しい手紙をください。幸福の手紙を届けてください』と訴えたものです。その私の切なる訴えは驚くべきことに真の神に届きました。神は私の祈りを聞いてくださったのです。私が清掃をしている時,一人の若い女性がさわやかな笑顔をたたえて家を訪問してこう語りました。『聖書にどんなことが書かれていると思いますか』。私は何も答えることができませんでした。するとその女性は『何が書かれているか教えましょう』と言って,毎週きまった曜日に来られるようになりました。その時の研究資料はまさに『あなたを幸福にする良いたより』a だったのです。それは私が祈り求めていた幸福の手紙そのものでした。今までだれからも教えてもらわなかった素晴しい音信が書かれており,それは私の人生の展望をがらりと変えて希望に満ちたものにしてくれました。喜びにあふれた私が,毎週来て教えていただくお礼としてお返しをしたいと言ったところ,その方は『イエスも無料で教えられたのですから私もそうしたい』とおっしゃいました。その言葉に私はさらに驚きを感じました。なぜなら,天理教の布教の実体と大きく違っていたからです。天理教では,病気の人,不遇な人を助けたいと思っても助かるにはつまるところご神銭をしてくださいと言わねばならないのです。ところがそういう人はたいてい貧乏です。ですから価なくして救いが得られるという聖書の言葉は納得のゆくものでした。司会をしてくださる方はその言葉どおり研究が終わっても無駄な世間話はせず,『早くお母さんに食事をさせてあげてください』と言って自分はお茶1杯で帰られます。こうした司会者のさわやかな行状を見るにつけ『お金をあげなければ助からない』という天理教の教えが間違っていると確信するようになりました。なるほど天理教はお金のない人なら労働奉仕でいいと口では言うのですが,毎月上級の教会から寄付の割当て額がくるので結局お金をあげなければならないのです。そうこうしているうちにおばが倒れて死んだのです。『助ける者が助かる』と日夜あんなに勧めていたおばが死んだのです。この二度目のショックは,私に『いくら個人が努力しても教えそのものが間違っているなら真の救いは得られない』ということを悟らせました。聖書こそ真理だと確信を深めた私は思い切って自分の決意を親族に話しました。真理の側に立場を定めた私には,エホバ神が祈りを聞かれる方であることや,聖書の救いは一時的な,部分的なものではなくすべてに行き渡るという確信があります。バプテスマによって献身を表明した今,率先して他の人々にも愛を示す利他的な奉仕の業を,イエスがなさったと同じ方法で,そうです,ただで与えるようにしてゆきたいと思います」。
別のエホバの証人は次のように述べています。「伝道活動の日でした。ドアをノックしようとした時,突然ドアが開いて家の人があわてて出て来られました。とっさのことで『私は聖書の伝道者です』と一言しか言えませんでした。『ちょっと待ってください』と言われ,その後すぐに『中に入ってください』と勧められました。新婚旅行から帰って来たばかりとかで荷物もまだ片付けられていない様子でした。王国会館(エホバの証人の集会場)の招待ビラを渡したところ,その家の方は『実は私は2年程研究したことがある』と言われました。私が訪問したことをたいへん驚いていましたが,とても喜んでおられる様子でした。その方は2年間続いた研究をやめる時,学んだことを忘れようと聖書と書籍を1冊だけ残してあとの出版物はすべて司会者に返してしまったとのことでした。ところが,新婚旅行中に御主人に終わりの日が近いことについて話したいという気持ちが起こり,『どうぞきっかけを与えてください』と,研究をやめてから6年ぶりに祈られたそうです。ちょうどその時車の中から武雄市の王国会館の看板が見えました。そして,御主人の方から『王国会館て何だろう』と突然尋ねられ,それをきっかけに6年前に学んだことを思い出しながら,マタイ 24章の預言の成就や,楽園が来ること,エホバの証人の大会について話すことができたそうです。新婚旅行から帰って,聖書から終わりの日の預言について話しているうちに,御主人がもっとよく理解できるような本が欲しいと思われ,その方はすぐに『明日エホバの証人が訪問してくれるように』祈られ,さらにその翌朝には『今日,必ず訪問してくれるように』と祈られたそうです。そして祈っておられたその日に私が訪問したのです。研究が再開され御主人のほうも快く研究に応じられました。御主人は研究を始めて3か月目には神権宣教学校(エホバの証人の奉仕者を訓練するために各会衆に設けられている無償の集会)に入り,1年たたないうちに献身しバプテスマを受けられました。祈り求めていた奥さんも共にバプテスマを受け,兄弟姉妹として同じ会衆で交われるのを喜びとしています。『どうぞ中に入ってください』と言われた時にも驚きましたが,家の方が祈り求めていたその時に会えたということにはもっと驚かされました。エホバは祈りを確かに聞かれる方であり,関心のある方にはみ使いを用いて奉仕者を遣わされるということを確信しました」。
もう一人のエホバの証人は次のように報告しています。「約3年前,戸別伝道をしていた伝道者が,ある床屋に入りました。そこの奥さんは,その伝道者の幼い子供の立派な態度を見て関心を持たれました。その床屋さんは私の家の近所で,子供の散髪もそこでしたから,私が再訪問を繰り返し,研究を取り決めることができました。その方は,熱心な仏教徒であったため,偶像崇拝が禁じられていることを知ると研究をやめたいと言ってこられました。それから約一年後に,御主人が急に亡くなられました。理由は嫁と姑との間の険悪な状態の間に入って神経が極度に疲労したためです。それで奥さんは,このままの状態では子供たちの成長にとっても良くないので心を改めなければと考えました。寺の住職を呼んで説教を聞くことにしましたが教えに失望して,やはり聖書しかないのではないかと考えるようになりました。悩んでいるうちに,戸別伝道をしていた一人の伝道者から,もう一度研究してみませんかと勧められて心が大きく動き,少ししてから私の所へ電話で研究を再開して欲しい旨知らせがありました。再開後は,姑との関係を改善することが先決問題と思い,ローマ 12章17,21節を共に考え,これからは,姑からたとえどんなことを言われても絶対に口答えをしないようにすること,子供たちにもそうするよう教えること,親切にし敬語を使って話すことを励ましました。早速その晩から実行に移され,それから1か月程,親子で一生懸命頑張られましたが,姑のののしりはますますひどくなるばかりでした。ついに親子で家を出ようと考えるようになりましたが,問題からすぐに逃れるのではなく,エホバに助けを求めて努力してゆくならエホバに喜ばれると話したところ,その方はそれを試してみる気持ちになり,考えなおしてもう一度頑張ってみることにしました。そうしたところ,二,三日すると,姑のののしりは少なくなってきて,十日もするとほとんどなくなりました。さらに,近所のおばあちゃんたちがお茶飲みに来た時に『うちの嫁はとても良くなった。本当に良くなった。今では自分のほうが申し訳ないと思っている』と話すほどになりました。続けて勉強してゆくうちに,今度は自分も姑の気持ちが理解できるようになり,心からの親切を示せるようになったようです。店は第3日曜日が休みなので,その日の講演に招待したところ,月1回だけということで快く応じられました。ところが集会でささげられた祈りが強く心に響き,毎週出席することを決意されました。そして家に帰ると早速,店で使っていたサービスマッチをティッシュペーパーに替えて,そこに『毎週日曜日午前10時から12時まで休ませていただきます』と印刷されました。お姑さんのほうも,今では近所の人たちに『キリスト教ほど良い宗教はない』とふれ歩いているそうです。そのため店に来る人たちが『あなたはずいぶん変わったね』とほめてくれたり,聖書に関心を持って『私にも教えて』と言ったりするようになりました。その方は今では毎週王国会館に来られるようになりましたが,出がけに,『行ってらっしゃい』とお姑さんから優しく送り出されるほどです」。
これらの経験が示していることは,祈りが聞き届けられるためには全能者であり宇宙の至上者に対するものであることが必要であることと,利己的な物質上の求めではなく,真理を叫び求める祈りでなければならないということです。あなたも真理を本当に理解したいと願っていますか。もしそうであるなら,宇宙の至上者エホバ神に心をこめて祈り求めてください。神は必ずあなたのその祈りを聞いてくださるでしょう。
[脚注]
a ニューヨーク法人,ものみの塔聖書冊子協会発行の本。