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  • 目ざめよ! 1982
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目ざめよ! 1982
目82 11/22 12–15ページ

私は,教会と,たばこと,商売をやめました

エドワード・ジョージが,その間の事情を語る

私は自分の人生の大半を,長老派教会の会員として過ごしました。教会に行き始めたのは4歳の時です。そして執事になり,日曜学校で15年間教えました。聖歌隊で歌もうたいました。私はこの教会と深くかかわり合っていました。そしてそこをやめました。

第二次世界大戦が続いていた1943年のことでした。私は20歳位で,空軍に入り,たばこを吸うようになりました。30年間たばこを吸いましたが,最後には一日3箱半から4箱のたばこを吸うまでになりました。それから私はたばこをやめました。

父は50年以上前にたばこ業を始めました。私が父の共同経営者になったのはそれから30年後のことです。それは非常に金になる商売で,年間300ないし400万㌦(約7億5,000万円ないし10億円)のもうけがありました。父が死んで,私は単独の所有者となり,何年もの間その仕事を経営していました。それからこの商売もやめました。

私が教会をやめ,たばこをやめ,商売をやめたのは,自分が何でも投げ出してしまう人間だからではありません。そうではなく,別のものを始めたからなのです。私は聖書の勉強を始めました。

しかし,すべてをこのようにやめてしまうまでには,いろいろなことがありました。たばこを始めたのは空軍に入隊してからです。私は非常に愛国主義的で,3年半にわたってボーイスカウトの隊長を務めました。それに教会もたいへん愛国主義的で,軍務に服する人々を特別にたたえました。だれの目にも付くように,大きな板の上に掲げられた星型の中に名前が書き込まれました。

私が国内にいたのは3年間で,1944年には海外へ派遣されました。私たちには,特務飛行を50回行なうことが求められました。46回目の特務飛行中にドイツのシュワルツワルトの上空で撃墜されました。私は4発爆撃機,B-24を操縦しており,乗務員は10人で,私がパイロットでした。

九死に一生を得たことは数限りなくあります。ある爆撃特務飛行に際して二つのエンジンを破壊され,コルシカ島に不時着しなければなりませんでした。飛行機の修理が済むまでそこに滞在しました。最大の脅威となったのは対空砲火です。戦闘機の襲撃を受けたことはほとんどありませんでした。ドイツ軍は多くの戦闘機を擁していましたが,飛ばすための石油がありませんでした。米国の爆撃機がドイツの油田に甚大な被害を与えていたからです。ところが驚かされることが一つありました。それはドイツ人が世界に先駆けてジェット戦闘機を開発したことです。これらの飛行機が物凄い速度で走るのを見るのは恐ろしいことでした。幸いにも,その飛行機の飛行持続時間はわずか15分ほどでした。15分では,一度だけ出撃して敵に打撃を加えることを試み,それから再度着陸することしかできません。

今言ったように,私たちにとって最大の問題は対空砲火でした。高度2万フィート(約6,080㍍)から2万5,000フィート(約7,600㍍)の間をよく飛びましたが,敵は私たちの居所をレーダーで正確に察知していたので,私たちは非常に慌てました。対空砲火で用いられたのは,時限信管の付いた直径88ないし105㍉の砲弾でした。そのような砲弾は特定の高さにまで達してから爆発し,榴散弾が四方八方に散らばりました。もしそれが近くで爆発したら,大きな損害を被るか,墜落することさえあるでしょう。

46回目の特務飛行の際にまさにそうしたことが生じました。1発の砲弾が飛行機の翼に突っ込んできてガスタンクを突き抜けましたが,爆発したのは私たちの上空でした。飛行機に当たった時に爆発していれば,私は生きてこの話をすることもなかったでしょう。

第二次世界大戦中,私は従軍牧師の司会する夜の礼拝に出掛けたことがあります。従軍牧師は,僧職者というより精神科医に近い存在でした。でも私は宗教的な慰めを探し求めていました。次の特務飛行から戻れるかどうか,皆目見当がつかなかったのです。

この46回目の特務飛行の後,やはり私は基地に戻りませんでした。砲弾が私たちのガスタンクに命中し,エンジンの一つが大破したのです。それは,ソ連国境にほど近い,チェコスロバキアとドイツが境を接するあたりで生じました。ややあって,私は,「よし,爆弾倉のドアを開け,通路に出てから飛び降りろ!」と命令しました。そして7人が飛び降りました。機内には3人が残りました。

私たちは,ソ連とドイツが干戈を交える戦線の上空に来ていましたが,眼下の戦いは激しく,私たちはひどくやられていました。そのため何もできません。飛行機は早いスピードで旋回しながら降下し始めました。操縦装置を奪われ,車輪も動きませんでした。高度が下がるにつれ機体は水平になりましたが,地面にぶつかり,横滑りして止まりました。飛行機が炎上したので私たちは上の出入り口から飛び出しました。

私はドイツ人の捕虜になりました。私にとって戦争は終わったも同然でした。6か月間を捕虜として過ごした後,ソ連軍により解放されました。空軍での兵役期間が終了した後,フロリダ州のジャクソンビルに戻りました。それは1946年のことです。

私の家族もベロアの家族もジャクソンビルに住んでおり,戦争中二つの家族は互いに親しくなっていました。第二次世界大戦が終わってから,私はイボンヌ・ベロアと出会い,結婚しました。彼女の家族はエホバの証人でしたが,彼女はまだエホバの証人としてバプテスマを受けていませんでした。彼女の家族と交わりはしましたが,宗教については話させないでほしいと彼女に頼みました。

私は私で長老派教会と共に活動を続行し,イボンヌはイボンヌでエホバの証人との交わりを続けました。二人の間で宗教問題ゆえのいさかいが起こることはありませんでしたが,やがてイボンヌがエホバの証人たちのもとから漂い出るようになりました。彼らとの研究をやめ,非常にこの世的になり,クリスマス,感謝祭,元旦,および他の祭日を祝い,政治に手を出すようにさえなりました。

その間,私はエホバの証人のことはほとんど耳にしませんでしたが,ある時エホバの証人の一人が私のために,また私の友人であるアイビー博士のためにある仕事をしてくれました。この仕事をしてくれた人はアイビー博士に来たるべきハルマゲドンの戦いについて話したのです。この医師はイボンヌを小さいころから知っていましたから,イボンヌを呼んで,「イボンヌ,君はエホバの証人として育てられたんだってね,どうして僕にハルマゲドンについて話してくれなかったんだい」と尋ねました。彼女は言いました。「兄のドンを呼んできますわ。その問題についてはドンから説明してもらいます」。その結果,アイビー博士とその妻,そして私とイボンヌはエホバの証人と勉強するようになり,ドン・ベロアが研究を司会しました。

これがそもそもの始まりで,この時には私はやる気になっていました。自分の教会で生じている出来事のあるものについて,不愉快に思っていました。自分は執事で,献金を催促するのもその仕事の一部でしたが,その仕事は嫌いでした。次の食事にも事欠くような人をよく目にしましたが,そういう所で私は献金を催促していたのです。

私たちは牧師に年間1万2,000㌦(約300万円)支払っていましたが,当時その額は,会衆内のほぼどんな人も得ていなかった額でした。執事の一人はこのことにいや気がさし,こう言いました。「なぜ説教師たちは大きな教会にばかり召されるのだろう,小さな教会に召されることは全くない。多額の給料を支払ってくれる大きな教会に行くようになるのがお決まりのパターンだ!」

教会の教義にもいや気がさしていました。「長老派教会通覧」を購読していましたが,そこに地獄の火に関する長い資料が載り,地獄とは悪人がとこしえの責め苦を受ける場所であるとされていました。それが間違っており,魂とは不滅ではなく,人が死ぬと魂も完全に存在しなくなることを私は知っていました。もし人々が再び生きることがあるとしたら,復活によらなければならないのです。―エゼキエル 18:4,20。伝道の書 9:5,10。ローマ 6:23。ヨハネ 5:28,29。

ともかく,こうした聖書研究が始まり,そうした事情で私がいろいろなものをやめることが始まったのです。まず最初にやめたのは,長老派教会との交わりでした。

ドン・ベロアは忠実に四,五年も毎週私たちの家に来て,毎回3時間,聖書を研究してくれました。私たちは数冊の本を,聖書を使いながら学びました。ドン・ベロアはいつも,何事につけても聖書の裏付けを示してくれました。それに私とイボンヌは,王国会館に集まるエホバの証人たちの会衆の成員と会うために,王国会館へ出掛けるようになっていました。彼らの誠実さと友好的な態度には心を動かされました。ある晩に,重大な罪を犯した一人の証人が排斥されましたが,その時私は心の中で考えました。「自分の通っていた長老派教会なら,そんなことは決してしなかっただろう」。エホバの証人たちは会衆を道徳的に清く保つために懸命な努力を払っているのです。

この時までに,私はエホバに命を献げ,バプテスマを受ける準備ができていました。たばこはまだ吸っていましたが,研究の間はたばこの本数を二,三本に何とか抑えることができました。この習慣がエホバの証人のひんしゅくを買うものであることは分かっていましたが,禁止されていたわけではありませんでした。ところが,ちょうど私がバプテスマを受けたいと思ったころ,たばこを完全に断つようにという方針の転換がなされました。

私の気持ちを想像してください。たばこが健康に有害であることは言うまでもありません。それは分かっていました。私は幾十年もの間ヘビースモーカーで,朝,目を覚ますと,1時間半はせき込んでいました。しかし多年にわたって,少なくとも8回ないし10回は禁煙しようと大変な努力を払いましたが,いつも失敗していました。

ともかく,私はもう一度やってみることにしました。今度の動機となる力は以前よりも強いものでした。エホバを知るようになったのです。今度は,『心をこめてエホバを愛しなさい』,そして特にたばこに関係して適用できる『隣人を自分自身のように愛しなさい』というイエスの言葉を熟考しました。(マタイ 22:37-39)過去45年間,正統派の宗派に属していながら,私はこの分野において自分自身のように隣人を愛しなさい,と教えられたことは一度もありませんでした。

したがって今度は,たばこの常用癖に対する闘いにおいて霊的な力を注ぎ込まなければなりません。私はエホバの助けを祈り求めました。家族もこの闘いに勝てるように助けを祈り求めてくれました。ある晩のこと,4歳になる娘のケリーが,「お父さんがたばこをやめられるようどうぞ助けてください」とエホバに祈るのを聞いて,胸を打たれました。

私はたばこをやめる最終期限を設けました。エホバの証人の大きな大会が1975年に開かれることになっていました。その大会の前日の晩にたばこをやめることにしました。大会に先立つ2か月間というもの,私は以前よりも多く,1日4箱半もたばこを吸いました。それは賢明なことではありませんでしたが,一種の最後のしたい放題,たばこへのいとまごい,ある種の心理的大詰めだったと思います。1975年のその大会の前日の晩,私は最後のたばこを吸いました。それ以来1本もたばこに火を付けていません。

逆戻りはできません。たばこを再び吸おうとは決して思いません。しかし7年経った後でも,吸いたいという欲求は襲ってきます。たばこには惑でき性がないと言う人がいても,信じてはなりません。最初の1年間,私は毎晩のように自分がたばこを吸っている夢を見ました。今でも時々その夢を見ます。衝動を感じたときに使えるよう,私は車の中に1袋のはっかを置いておきます。奇妙なことに,私が禁煙したその日と同じほど衝動が強くなると,幸いそれは数秒で消えてしまうのです。休みのない闘いが続きましたが,エホバの過分のご親切のおかげで私は闘いに勝ちました。

そして3番目の挑戦に直面することになりました。クリスチャンである自分がたばこを吸ってはならないのであれば,他の人が吸うためのたばこを提供するのも間違っているのではないでしょうか。お金になるこのたばこ業をどうしても譲り渡すべきでしょうか。クリスチャンにふさわしくないと考えられたために,年間1万から1万5,000㌦の収入があった仕事をやめたエホバの証人のことを私は知っていました。しかし私のたばこ業は年間数百万ドルの収益をあげていたのです。州に支払う取引税は,毎月10万㌦から11万㌦の間でした。

私の仕事は仲買人でした。大手の製造業者が農家の人からたばこを買い入れてそれを乾燥させ,製品を完成させて包装します。私はそれを買って小売商に売っていました。たばこ産業の規模には驚かされます。紙巻きたばこだけではなく,葉巻き,刻みたばこ,かみたばこ,かぎたばこなどもあるのです。余り人には知られていませんが,かぎたばこだけでも大事業です。私はそれを何トンも売りました。この商売では景気後退ということはありません。実際,生活しにくい時代になると,人々は不安になって以前よりも多くたばこを吸うようになります。

では,私のたばこの会社はどうなったでしょうか。私はそれを譲り渡すことに決め,実際にそうしました。三つのものをやめることに関する試練はすべて終了しました。

これらのことすべては,まさにエホバのクリスチャン証人と聖書を学んだために生じたことでした。その研究の最高潮となったのは,アイビー博士夫妻,それに私とイボンヌの4人が1975年にエホバの証人の大会でバプテスマを受けたことです。

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私は,「よし,爆弾倉のドアを開け,通路に出てから飛び降りろ!」と命令しました

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彼女の家族と交わりはしましたが,宗教については話させないでほしいと彼女に頼みました

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次の食事にも事欠くような人をよく目にしましたが,そういう所で私は献金を催促していたのです

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3番目の挑戦: クリスチャンである自分がたばこを吸ってはならないのであれば,他の人が吸うためのたばこを提供するのも間違っているのではないでしょうか

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4歳になる娘のケリーが,「お父さんがたばこをやめられるようどうぞ助けてください」とエホバに祈るのを聞いて,胸を打たれました

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