「ぼくが悪いんじゃないよ」 言い逃れの時代
ガシャーン! 幼いジョニーの母親は,どうしてそんな凄い音がしたのかと台所へ飛んで行きます。見ると,床の上にクッキーの入っていた広口瓶が粉々になっています。そこにジョニーが立っています。手にぎこちなくクッキーを握りしめ,同時に何食わぬ顔をしようと一生懸命です。そして出し抜けに,「ぼくが悪いんじゃないよ」と言います。
親の立場にある人は,子供が自分の過ちの責任をなかなか認めないことをよく知っています。しかし,今日の大人の社会も同じ問題を抱えています。自分の欲求を満足させたいという誘惑は,当然自分に期待できる抵抗力よりも大きい,と考える人が増えているようです。
例えば,同じ女性に3回も暴行を働いた男のことを考えてみましょう。この男は公判の時,自分は自分の男性ホルモンの犠牲者なのだ,体内のテストステロン濃度が高かったのだと抗弁しました。この男は無罪になりました。うそを見破られたある政治家は,偽証を飲酒の問題のせいにしました。ある麻薬密輸業者は,「活動癖症候群」の犠牲者であると主張した結果,無罪とされました。
US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌によれば,自分のことをセックス中毒者または愛欲中毒者と考えている人たちを援助する目的で毎週面談を行なっている団体が2,000以上あります。また,アルコール中毒者更生会を模倣した全国組織が200余りあります。例えば,苛虐癖者更生会,ゲイ過食症患者更生会,賭博癖者更生会,債務者更生会,変人更生会,仕事中毒者更生会などです。
専門家の中には,そうした形の破壊的な行動はみな中毒なのかもしれないという考えを支持する人もいれば,中毒を認知するこの新たな傾向を憂慮している人もいます。ある心理学者が述べているとおり,「何もかも中毒症として類別してゆくなら,何をしても言い逃れできるといった世界になってしまうかもしれない」のです。ある心理療法医は,人がいったん自分に,どうしようもない中毒の犠牲者であるというレッテルをはってしまうと,その人を治療することは一層難しくなります。言い訳をすることがその人の個性の一部となるからです。
刑事裁判の教授であるウィリアム・リー・ウィルバンクス博士の説によれば,中毒治療に関連した現代の流行はすべて,同博士が新たな弊風と呼ぶ四語哲学,すなわち“I cannot help myself”(「自分ではどうすることもできない」)哲学の一部です。ウィルバンクス博士は,「科学界で強まっている傾向,つまり人間を本人の制御できない内的,外的な力によって動かされる物体とみなす傾向」を激しく非難しています。そして,「こういう見方をする人は,人間の行動に自由意志の果たす役割などほとんど,あるいは全くないと言っているようなものだ」と付け加えています。
種々の研究結果からすれば,人間の意志の力は,昔から知られている中毒を克服することにおいてさえ,これまで考えられてきた以上に大きな力を有しているようです。例えば,ヘロイン中毒患者の約75%はその常用癖から抜け出そうと試みても失敗しますが,ベトナム戦争退役軍人の間では成功率がずっと高くなっています。ほぼ90%がその常用癖から抜け出せるのです。麻薬は同じものであり,中毒状態も同じなのに,なぜでしょうか。ウィルバンクスが示唆しているように,「彼らの価値体系と自己鍛錬が,『きっぱり拒絶する』助けになった」のでしょうか。薬物依存とか,さらにはある種の問題に陥る生まれつきの傾向とかいった事柄は実際にはないというのではありません。ウィルバンクスが述べているように,そのような要素は「誘惑との闘いを一層難しくするとしても,まだ勝ち目はある」のです。
確かにそのとおりです。欲求をすぐに満足させたいという気持ちは強いかもしれませんが,打ち勝ち難いほど強いわけではありません。エホバの証人の活動によって世界的に証明されているとおり,麻薬中毒患者,アルコール中毒の人,姦淫を行なう人,ギャンブル好きの人,同性愛者などは,自分の欲求を満足させなければならないわけではないのです。それらの人たちは,意志の力を働かせ,さらに大切なこととして神の聖霊の助けを受けるなら,問題を克服することができます。現に克服しています。ですから,“専門家”が何と言おうと,わたしたちの創造者は,どんなときに人の行動の責任はその当人にあるかを知っておられます。(民数記 15:30,31。コリント第一 6:9-11)しかし創造者は,憐れみ深い方でもあります。「わたしたちが塵であることを覚えておられ」て,決してわたしたちに無理なことは期待されないのです。―詩編 103:14。