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  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1964
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1964
塔64 2/15 99–100ページ

頭を使うに時があり,同情するに時がある

「頭を使え!」,気の短い機械工が新米の助手にどなりました。「同情して下さい! 一生懸命働き口をさがしているところなんです!」,銀行に借金のある失業者が,すぐに利息を払わなければ,抵当物を流すと言われて嘆願しました。

このような表現によって私たちは,種々の精神能力,すなわち一方においては理性,思考力,記憶力,意志力,他方においては愛情,同情,あわれみの相違を認めます。ある場合はそのうちのどれを働かすべきかははっきりしていますが,他の場合は選ばねばなりません。たとえば土曜日の朝,ニューヨーク市の混雑する14番街を歩くと,各ブロックで数人の人から施しを求められます。それは盲人かも知れず,車つきいすに乗った病人かも知れず,ローラースケートに乗って動き回る足のない人かも知れず,黒衣をまとった尼僧かも知れません。彼らはみな施しを受けるに価しますか。それともみなそれに価しないでしょうか。あなたの同情心は全部の人にあげたいと思いますが,あなたの理性はとてもそんな余裕はないと言います。それに,そのうちのいく人が実際に援助を必要としているのかもわかりません。

このことから私たちは,ずっと昔賢王ソロモンが述べた次の原則を思い出します。「天が下のすべての事には季節があり,すべてのわざには時がある。……愛するに時があり,憎むに時があり……」。(伝道 3:1,3,新口)そうです。創造主は私たちに,知恵,正義,愛,力などの特質をお与えになったので,私たちがどういう場合にどの特質を適用すべきか自分で決定することを期待されます。ある場合は正義を第一に適用しなければならないでしょうし,他の場合には知恵を,さらに他の場合には愛を第一に適用しなければならないでしょう。したがって,あわれみを必要とする事実が存在するときに厳格な正義を適用するのが間違いであるのと同じく,事実が厳格な正義の適用を命ずるときに感傷に負けるのは間違いです。つまり頭を使うに時があり,同情するに時がある,ということです。

この原則をよく説明しているのは,イエスがかつて話された放蕩むすこについてのたとえ話です。そのむすこは,父から受け継いだ財産を使い果たしたのち悔い改めて,父の家に戻ってきました。父はその子を寛大にゆるし,彼のために祝宴さえもうけました。父親は,むすこが戻ったという喜びから同情を示しました。しかし兄のほうはそうではありませんでした。彼は頭を使ったのです。彼が言ったことは全く真実でした。彼は放蕩をしたこともなく,何年も忠実に父に仕えましたが,父は「このあなたの子」のためにもうけたような祝宴を催してくれたことは一度もなかったのです。兄の言ったことはみな真実でした。しかしそれはなんと間違っていたのでしょう。その時は,ソロバンをはじく時ではなく,同情すべき時,「このあなたの弟は,死んでいたのに生き返り,いなくなっていたのに見つかった」のですから喜ぶべきときでした。―ルカ 15:11-12,新口。

この反対を示す例は,ダビデ王が老齢のために王位を譲らねばならなかった時のことに関する聖書の記録です。ダビデのむすこのひとりアドニヤは,父が王位継承者を指名するのも待たずに,高ぶりと野心にかられて,「わたしは王となろう」といっていました。そして「自分のために戦車と騎兵および自分の前に駆ける者五十人を備える」ことさえしました。「彼の父は彼が生れてこのかた一度も『なぜそのような事をするのか』と言って彼をたしなめたことがなかった。アドニヤもまた非常に姿の良い人で……あった」。―列王 1:5,6,新口。

ダビデはなぜこの美ぼうのむすこにしたい放題をさせたのでしょうか。むすこの感情を害するようなことをなに一つ言わなかったのはなぜでしょうか。なぜならダビデは,頭を使うに時があり,き然とした態度で懲戒するに時があり,同情するに時があり,感傷的になるに時があることに気づかなかったからです。そして,正当な継承者ソロモンに与えられるまえに父から王位を奪おうとするようなむすこを育てました。

ダビデ王は,アドニヤ以上にハンサムのむすこアブサロムについても同じ間違いをしたようです。というのは,反逆的でごう慢なこのむすこが,父の王位横領に失敗して殺されたとき,ダビデはあきらめきれず,非常に悲しんだからです。ダビデは,「わが子アブサロムよ。わが子,わが子アブサロムよ。ああわたしが代って死ねばよかったのに。アブサロム,わが子よ,わが子よ」といって泣きました。ダビデの配下の将軍ヨアブはダビデをいさめて言いました。「あなたは,きょう,あなたの命と,あなたの」家族「の命を救ったすべての家来の顔をはずかしめられました。それはあなたが自分を憎む者を愛し,自分を愛する者を憎まれるからです」。この場合,悪いむすこアブサロムに対するダビデの感傷と悲しみは不にあいなものでした。―サムエル後 18:33; 19:5,6,新口。

頭を使うべきときに同情し,しっかりした態度で正しい原則を固守し適用せねばならぬときに感傷に支配されて,ダビデ王と同じ間違いをし,同じような結果を刈り取っている親が今日たくさんいます。最近出版された,「ティーンエイジの横暴」という本の中で,青年教育の分野の2人の専門家は,「未成年」すなわちティーンエイジャー「の都合のために,おとながその権利や特権を捨てる」ことに対しての懸念を表明しています。そしてとりわけ次のことを述べています。つまり保養地の多い州の警官たちは,「申し合わせたように,10歳代の子供が酔っぱらったり乱暴を働いて逮捕されたことを夜親に電話で知らせると,たいていの親は,警官に対して不信と憤りの態度を示す」と言うということです。

でも私には子供がない,とおっしゃいますか。それでもこの原則はあなたと関係があります。なぜなら,あなた自身に適用できるからです。自分自身に対して親切にするのに時があり,自分自身に対してきびしくするにもまた時があります。ペテロは,イエスが自分をたいせつにするように望みましたが,イエスは神が自分のために苦しみの道を定められたのを知っていたので,ペテロに向い「サタンよ,引きさがれ」と言われました。ペテロはしっかりしなければならぬ時に自分に親切にしようとしました。彼がその師を3回も否定したわけはその事からおのずとわかります。

たしかに頭を使うに時があり,同情するに時があります。その時を知る者はほんとうにしあわせです。

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