クリスチャンは清さを保つ
清い,清さ(clean,cleanness)ヘブライ語およびギリシャ語の幾つかの語が,清いものや浄いもの,ならびに浄めの行為を表わします。浄めの行為とは,汚し,不純にし,腐敗させるどんなものからも解放された,きずや汚点のない状態に回復させることです。これらの語は身体的な清さを表わしますが,それ以上に,道徳的または霊的な清さを表わす場合が多くあります。身体的な清さと儀式上の清さはしばしば重複します。ヘブライ語の動詞タヘル(清い,清める)は,普通,儀式上の清さか道徳上の清さを指します。タヘルのヘブライ語の同意語はバラルで,この語はさまざまに変化して,「一掃する,選び分ける,清く保つ,清い者であることを示す,清める」という意味を持ちます。(エゼキエル 20:38。伝道の書 3:18。詩編 18:26。エレミヤ 4:11)「清い,浄い」を意味するギリシャ語カタロスは,身体的,道徳的,宗教的な意味で使用されています。(マタイ 23:26。マタイ 5:8。テトス 1:15)「汚れ」は,ヘブライ語のタメ,ギリシャ語のアカタルシアを訳したものです。―レビ記 5:2。マタイ 23:27。ガラテア 5:19。
クリスチャンの清さ クリスチャンは律法とその清めに関する要求の下にはありません。とはいえ,イエスが地上におられた時代には,律法とその諸々の習慣がまだ施行されていました。(ヨハネ 11:55)律法は「来たるべき良い事柄の影」を備えており,『その実体はキリストに属しています』。(ヘブライ 10:1。コロサイ 2:17)それで,パウロはこの浄めの問題に関してこう書きました。「そうです,律法によれば,ほとんどすべてのものが血をもって清められ[モーセは,書と民と天幕と様々な器に血を振りかけた],血が注ぎ出されなければ,許しはなされないのです。それゆえ,天にあるものを模型的に表現したものはこのような手段で……清められることが必要でした」。「汚れた人たちに振り掛けられた,やぎや雄牛の血また若い雌牛の灰が,肉の清さという点で聖化をもたらすのであれば,まして,永遠の霊により,きずのないすがたで自分を神にささげたキリストの血は,わたしたちの良心を死んだ業から清めて,生ける神に神聖な奉仕をささげられるようにしてくださるのではないでしょうか」。―ヘブライ 9:19-23,13,14。
それで,クリスチャンをあらゆる罪と不義から清めるのは主イエス・キリストの血です。(ヨハネ第一 1:7,9)『キリストは会衆を愛し,そのためにご自分を引き渡されました』。「それは,会衆を神聖なものとし,み言葉による水の洗いをもってそれを清めるため」,会衆が,汚点のない聖なるもの,またきずのないもの,「りっぱな業に熱心な民」となるためでした。(エフェソス 5:25-27。テトス 2:14)したがって,このクリスチャン会衆の成員すべては『ずっと以前の自分の罪から清められたことを忘れる』べきではなく,神の霊の実を示し続けて(ペテロ第二 1:5-9),『父[神]が,実を結んでいるものをみな清めて,さらに実を結ぶようにされる』ことを覚えていなければなりません。―ヨハネ 15:2,3。
それゆえ,クリスチャンは「肉と霊のあらゆる汚れ」に用心して,高い規準の身体的,道徳的,霊的清さを保たなければなりません。(コリント第二 7:1)イエスが言われたこと,つまり『外から入るものではなく,人から出て来るものが人を汚す』ことを考え,キリストの清めの血から益を受けるこれらの人々は霊的な清さにいっそうの重きを置きます。彼らは神の前に「清い心」と「清い良心」を保ちます。(マルコ 7:15。テモテ第一 1:5; 3:9。テモテ第二 1:3)清い良心を持つそのような人たちにとっては「すべてのものが清いのです」。それとは対照的に,良心の汚れた不信仰な人たちにとって「清いものは何一つありません」。(テトス 1:15)心を清く保とうとする人々は,次のように述べるイザヤ 52章11節の諭しに注意を払います。「汚れたものには何にも触れるな。エホバの器具を運んでいる者たちよ,……身を清く保て」。(詩編 24:4。マタイ 5:8)そうすることによって彼らの「手」は比ゆ的な意味で清められ(ヤコブ 4:8),神は彼らを清い人として扱われます。―サムエル第二 22:27。詩編 18:26。ダニエル 11:35; 12:10もご覧ください。
もはや律法の下にはいませんでしたが,使徒パウロはある時,神殿で儀式上の清めを行なうことによって律法の要求を守りました。パウロには一貫性が欠けていましたか。パウロは律法やその手順と闘っていたわけではなく,律法への服従はクリスチャンに対する神のご要求ではないことを示したに過ぎませんでした。その手順が新たなキリスト教の真理に違反しない場合には,神が律法の下に定められたことを行なうのに,これといった問題はなかったのです。パウロがそのように行動したのは,ユダヤ人がイエス・キリストについての良いたよりを聴くのを不必要に妨げないためでした。(使徒 21:24,26。コリント第一 9:20)使徒パウロは同様の趣旨に沿って,食物そのものは清くても,それを食べることが人をつまずかせるなら自分は食べることを差し控えるだろうとも論じました。(ローマ 14:14,15,20,21。コリント第一 8:13)このすべてにおいて,パウロは他の人々の救いに大きな関心を示し,それを実現させるために自分にできるすべてのことを行ないました。ですから,パウロは,『わたしはすべての人の血について潔白である』と言うことができました。―使徒 20:26; 18:6。