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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1990
塔90 5/15 30–31ページ

読者からの質問

■ クリスチャンが狩猟や魚釣りに行くのはふさわしいことですか。

狩猟に対する反応は様々で,多くの場合,根深い感情が関係しています。ですからクリスチャンにとって最善の方法は,この問題について聖書に記されているエホバ神のお考えを理解して適用するよう努力することです。

神は人類に「野獣」と「家畜」双方に対する支配権をお与えになりました。当初人間には,動物を食物にするために殺してもよいという創造者からの認可はありませんでしたし,そうする身体的必要もなかったことでしょう。(創世記 1:24,29,30)神が人類に動物の肉を,「その魂つまりその血」を正しく抜いたうえで食べる権利を初めてお与えになったのは,大洪水後のことでした。(創世記 9:3,4)家畜の肉も野獣の肉も食用にできました。

イスラエル人は羊や牛などの動物を飼っていて,肉を食べたいと思うときにはそれらの動物をほふることができました。彼らは食物を得るために狩猟や漁もしました。(申命記 12:20-24; 14:4-20)これは,わたしは『民をすなどる多くのすなどる者を呼びにやる。彼らを狩り出す多くの狩人を呼びにやる』という,神が用いられた比喩的な表現と調和します。(エレミヤ 16:16)後に,イエスは漁師たちをご自分の使徒たちのうちに含め,実際の漁の仕方を指導されました。―マタイ 4:18-22; 17:27。ルカ 5:2-6。ヨハネ 21:4-7。

年老いた族長イサクがおいしい肉料理を食べたいと言ったとき,息子のヤコブは進んで2頭の子やぎを殺して父親の好む料理を作りました。しかしエサウは,父親の好きな獲物の肉を得るために野獣を仕留めました。ここで注目できるのは,家畜の肉ならすぐ得られるのに,イサクが狩猟動物の肉を求めたことです。さらに,息子たちは二人とも食物になる動物を殺しましたが,それは自分のためではなく,ほかの人のためであった,という点にも注目できます。―創世記 27:1-19。

動物は,食用の肉とされる以外の理由で殺されることもあるでしょう。動物の毛皮は衣服になります。(列王第二 1:8。マルコ 1:6。ヘブライ 11:37)保護用の覆いや器具も動物の皮で作られました。それも,食物としては清くないとされていたためイスラエル人が食べなかった動物の皮が用いられました。―出エジプト記 39:33,34。民数記 24:7。裁き人 4:19。詩編 56:8。

狩りをする人たちは,動物を殺したならその血を注ぎ出すようにという神のご要求から,動物の命は神から来ているのでうやうやしく扱うべきであり,気まぐれに扱うべきではないことを思い起こしたはずです。(レビ記 17:13)ニムロデは動物を殺していたようです。そして恐らく,自分の狩猟の腕前,獲物の大きさや数,それらの獲物で作った記念品などを自慢していたことでしょう。彼は「エホバに敵対する力ある狩人」でした。―創世記 10:9。

クリスチャンであっても,動物を狩って殺したり魚を釣り上げたりする,そのようなスリルを楽しむようになる場合があります。猟師や釣り師たちの中には,心をよく吟味した結果,“殺す喜び”に影響されている自分に気づいた人が少なくありません。そういう興奮には,無慈悲に動物の命を軽視する態度が伴うものです。ですから,狩猟や漁業は(殺したり捕獲したりすることが,食物や他の適切な目的のために行なわれる場合)間違ったことではありませんが,もしクリスチャンがニムロデを思わせるような精神を抱いているとしたら,漁猟はふさわしいことではなくなるでしょう。しかし,追跡して仕留めるスリルや,それを記念するものを得る楽しみのほかにも危険があります。

「ものみの塔」誌,1983年10月15日号では,真のクリスチャンが攻撃用と護身用の別を問わず,銃を携帯したり所持したりしない理由について説明されました。(23-26ページ)ある証人たちは,その助言について黙想し,猟銃を所持することについても再検討しました。銃器を全部処分することにした人や,銃を飾ることを避け,容易に触れられないようにした人も少なくありません。したがって,それらのクリスチャンは,武器を自慢したり武器に頼ったりしているような印象を与えることはありません。それだけでなく,猟銃を所持することもしない,あるいは容易に触れられないようにすることにより,悲惨な出来事を防ぐことができます。そのようにすれば,死をもたらす武器を子供が手にして誤って人を殺傷したりすることはなく,非常におびえた人や極度のうつ状態になった人の手元に銃があるということもないでしょう。―箴言 22:3と比較してください。

中には,特定の猟獣の肉や魚の味を好むクリスチャンがいるかもしれません。その場合,そのような食物を得る最も実際的な方法は狩りや釣りです。ほかに,森の中で行なう狩猟に伴って,空気や運動を楽しむ人や,釣りをしながら静かに時間を過ごすと気分がくつろぐ人もいます。聖書はこれを非としていないので,そうしたことを楽しむかどうかに関して他の人を裁く必要はありません。またイサクとその息子たちの例から分かるように,だれがその猟獣や魚を食べるのかを問題にする必要もありません。―マタイ 7:1-5。ローマ 14:4。

使徒ペテロはかなり漁に愛着を抱いていたようです。復活させられたイエスは,ペテロが魚や漁業に対する自分の気持ちを分析するよう,そばに置いてあった幾らかの魚を使って援助されました。イエスは,「ヨハネの子シモン,あなたはこれら以上にわたしを愛していますか」とお尋ねになりました。―ヨハネ 21:1-3,9-15。「ものみの塔」誌,1988年11月1日号,31ページをご覧ください。

同様に,正しい良心を抱いて狩りや釣りに行くことを選ぶクリスチャンも,優先順位を適正なものにすべきです。例えば,もし会衆の集会が計画されている時に狩猟や釣りのシーズンが始まるとしたら,その人はどうするでしょうか。また,その人の会話は,その人が自分の狩猟や釣りの腕前を自慢する人であることを示すでしょうか。円熟したクリスチャンが,たまに狩猟あるいは魚釣りをすることがあるとしても,「はい,主よ,わたしが[こうした事よりも]あなたに愛情を持っていることをあなたは知っておられます」と,確信をもって言えるのであれば,それは良いことです。―ヨハネ 21:16。

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