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マルコ 注釈 10章

マルコ

注釈 10章

10:1

ユダヤと境界を接する地方,ヨルダン川の向こう側: ヨルダン川の東側にあるペレア地域,特にユダヤに接する地方を指すと思われる。マタ 19:1の注釈と付録A7,地図5を参照。

10:4

離婚証書: マタ 19:7の注釈を参照。

10:6

創造の始め: 人間の創造を指すと思われる。イエスはここで,創造者が男女の結婚を制定し,人間社会の基本単位を作ったことを述べている。

10:8

一体: マタ 19:5の注釈を参照。

10:11

妻を離婚して: または,「妻を去らせて」。マルコが記したイエスのこの言葉は,省略されていないマタ 19:9の記述に照らして理解しなければならない。そこでは,「性的不道徳以外の理由で」という語句が入っている。(マタ 5:32の注釈を参照。)離婚に関するイエスの言葉をマルコが引用している箇所は,不忠実な配偶者による「性的不道徳」(ギリシャ語ポルネイア)以外の根拠で離婚する場合に当てはまる。

妻に対して姦淫の罪を犯す: イエスはここで,男性は「どんな理由でも」妻を離婚することが許されるという,当時浸透していたラビの教えを一蹴している。(マタ 19:3,9)妻に対して姦淫の罪を犯すというのは,ほとんどのユダヤ人にとってなじみのない概念だった。ラビは,夫が妻に対して姦淫の罪を犯すことはあり得ず,女性だけが不忠実になり得ると教えていた。イエスは,夫に妻と同一の道徳上の義務を課すことによって,女性の尊厳を重んじその身分を高めた。

10:12

もし妻が,夫と離婚した後: イエスはこの言い回しによって,不忠実な夫を離婚する妻の権利を認めている。それは当時のユダヤ人には受け入れ難かったと思われる。しかしイエスによれば,キリスト教の方式として男性と女性に同じ基準を当てはめることになった。

10:13

幼い子供たち: この子供たちの年齢には幅があったのかもしれない。ここで「幼い子供たち」と訳されているギリシャ語は,新生児や幼児(マタ 2:8。ルカ 1:59)だけでなく,ヤイロの12歳の娘(マル 5:39-42)を指しても使われている。しかし,並行記述のルカ 18:15で,ルカはイエスと交流したこの子供たちについて別のギリシャ語を使っていて,その語は非常に幼い子や胎児だけを指す。(ルカ 1:41; 2:12)

10:15

幼い子供のように: 謙遜で,教えやすく,信じて疑わず,素直に受け入れるといった,幼い子供のような好ましい性質を持っていること。(マタ 18:5)

10:16

子供たちを抱き寄せ: この点はマルコの記述だけに含まれている。「抱き寄せる」に当たるギリシャ語はこことマル 9:36にだけ出ていて,「抱き締める」とも訳せる。イエスは,ただ子供に「触れて」もらおうとして連れてきた大人たちの期待を上回ることを行った。(マル 10:13)少なくとも7人いたきょうだいの最年長だったイエスは,幼い子供たちに何が必要かを理解していた。(マタ 13:55,56)イエスはさらに,祝福があるようにと願い始めた。ここで使われているギリシャ語は「祝福を願い求める」に当たる語の強意形で,イエスが優しく温かくそうしたという意味に理解できる。

10:17

善い先生: この男性は「善い先生」という表現を形式的なへつらいの称号として使っていたと思われる。宗教指導者たちは多くの場合そのような誉れを要求したからである。イエスを「先生」また「主」と呼ぶのは適切なことで,イエスはそう呼ばれることに異議を唱えなかったが(ヨハ 13:13),誉れは全て父のものとした。

10:18

神以外に善い者は誰もいません: イエスはここで,エホバを何が善いことかに関する究極の基準として認めている。エホバは何が善で何が悪かを決める主権者としての権利を持つ方ということ。アダムとエバは反逆して善悪の知識の木の実を食べて,その権利を自分のものにしようとした。(創 2:17; 3:4-6)イエスはその2人とは異なり,謙遜に,基準を定める権限は父のものだとした。神はご自分の言葉を通して命じている事柄によって何が善いことかを明らかにし,定義している。(マル 10:19)

10:21

愛を抱いて: この裕福な若い支配者に対するイエスの心情を記しているのはマルコだけ。(マタ 19:16-26。ルカ 18:18-30)イエスの気持ちのこの描写は,感情豊かな人だったペテロから聞いたことに基づいているのかもしれない。「マルコの紹介」参照。

10:25

ラクダが針の穴を通る方が簡単: イエスは誇張法を使って要点を示していた。文字通りのラクダが実際の縫い針の穴を通れないように,裕福な人が,エホバとの関係より富の方を優先し続けるなら,神の王国に入ることはできない。イエスは,裕福な人が誰も王国を授けられることはないと言っていたのではない。「神には全てのことが可能なのです」とも言っているから。(マル 10:27)

10:26

言った: 直訳,「彼に言った」。「互いに言った」としている写本もある。

10:30

新しい体制: または,「新しい時代」。ギリシャ語アイオーンは,基本的に「時代」という意味で,特定の期間,時期,または時代を特色づける情勢や特徴を指せる。イエスはここで,神の王国統治の下での新しい時代について述べていて,そこでは永遠の命が約束されている。(ルカ 18:29,30)用語集の「体制」参照。

10:32

エルサレムに上る道を進んで: この都市は海抜約750メートルで,聖書には,崇拝者が「エルサレムに上る」という表現が多い。(ヨハ 2:13。使徒 11:2)イエスと弟子たちはヨルダン渓谷から上るところだった。(マル 10:1の注釈を参照。)渓谷の最低部は海面より約400メートル低い。エルサレムまで1000メートルは上ることになっただろう。

10:34

唾を掛けられ: 人の体や顔に唾を掛けることは,非常な侮辱,敵意,憤りを示す行為で,そうされた人に恥辱をもたらした。(民 12:14。申 25:9)イエスは,ここで自ら述べているように,そのような扱いを受ける。それは,「侮辱や唾から顔を覆い隠さなかった」という,メシアに関する預言の実現となった。(イザ 50:6)イエスはサンヘドリンに出ていた時に唾を掛けられ(マル 14:65),ピラトによる裁判の後にもローマ兵に唾を掛けられた。(マル 15:19)

10:35

ゼベダイの息子であるヤコブとヨハネが近づいて: マタイの記述では,ヤコブとヨハネの母親がイエスに近づいて依頼しているが,そもそも2人の息子の願いだったと思われる。そう言える根拠は,この依頼について聞いた他の10人の弟子が母親にではなく「その2人の兄弟に対して憤った」とマタイが記していること。(マタ 20:20-24)マタ 4:21;20:20の注釈を参照。

息子: 「2人の息子」とする写本も幾つかあるが,ここの訳の読みには他の写本による強力な裏付けがある。

10:37

1人をあなたの右に,1人を左に: ここではどちらの側も誉れや権威を意味するが,一番誉れがあるのは常に右側。(詩 110:1。使徒 7:55,56。ロマ 8:34)マタ 25:33の注釈を参照。

10:38

杯から飲み: マタ 20:22の注釈を参照。

私が受けているバプテスマを受ける: または,「私が受けている浸礼を受ける」。イエスはここで「バプテスマ」という語を「杯」と並列させている。(マタ 20:22の注釈を参照。)イエスのこのバプテスマはすでに宣教期間中に進行している。イエスの場合,西暦33年のニサン14日に苦しみの杭に掛けられて処刑される時に,そのバプテスマを完全に施され,いわば死へと浸される。起き上がることを含む復活によって,このバプテスマは完了する。(ロマ 6:3,4)イエスの死へのバプテスマは明らかに水のバプテスマとは全く別のもの。イエスの水のバプテスマは宣教の始めに終わっていたが,その時に死へのバプテスマは始まったばかりだった。

10:42

威張り: または,「威圧し」,「人々の主人となり」。このギリシャ語はギリシャ語聖書で4回だけ使われている。(マタ 20:25。マル 10:42。ペ一 5:3。そして使徒 19:16では「押さえ付けて」と訳されている。)イエスの助言は,忌まわしいローマの束縛やヘロデ家による圧政を思い起こさせた。(マタ 2:16。ヨハ 11:48)ペテロは要点を理解したと思われる。後にクリスチャンの長老たちに,威圧するのではなく手本によって導くよう勧めている。(ペ一 5:3)関連する動詞がルカ 22:25で使われていて,イエスは同様のことを述べている。その動詞はコ二 1:24でも使われ,パウロはクリスチャンが仲間の信仰の「主人」となってはならないと述べている。

10:45

命: マタ 20:28の注釈を参照。

10:46

エリコ: マタ 20:29の注釈を参照。

目が見えない物乞い: マタイの記述(20:30)は,この時,目が見えない2人の人がいたことを述べている。マルコとルカ(18:35)はどちらも1人について述べている。マルコの記述だけに名前が出ているバルテマイに注目したのだと思われる。

10:47

ナザレ人: イエスを指す呼び名で,後には弟子たちもそのように呼ばれた。(使徒 24:5)イエスという名前のユダヤ人は大勢いたので,それぞれを識別する言葉を付けて呼ぶことがよくあった。人々を出身地と結び付けるのは聖書時代の習慣だった。(サ二 3:2,3; 17:27; 23:25-39。ナホ 1:1。使徒 13:1; 21:29)イエスは若い時代の大半をガリラヤのナザレの町で過ごしたので,イエスに関してこの語を使うのは自然なことだった。イエスは,さまざまな機会にいろいろな人から「ナザレ人」と呼ばれている。(マル 1:23,24; 10:46,47; 14:66-69; 16:5,6。ルカ 24:13-19。ヨハ 18:1-7)イエス自身もその呼び名を受け入れ,使った。(ヨハ 18:5-8。使徒 22:6-8)ピラトが苦しみの杭に掲げた板には,ヘブライ語,ラテン語,ギリシャ語で「ナザレ人イエス,ユダヤ人の王」と書かれていた。(ヨハ 19:19,20)西暦33年のペンテコステ以降,使徒や他の人たちはしばしばイエスのことをナザレ人またはナザレの人と言った。(使徒 2:22; 3:6; 4:10; 6:14; 10:38; 26:9)マタ 2:23の注釈も参照。

ダビデの子: 目が見えないバルテマイはイエスを「ダビデの子」と呼んで,メシアであることをはっきり認めている。マタ 1:1,6;15:25の注釈を参照。

10:51

ラボニ: 「私の先生」を意味するセム語系の言葉。「ラボニ」はもともと,「先生」を意味する敬称「ラビ」より敬意のこもった温かな表現だったのかもしれない。(ヨハ 1:38)しかし,ヨハネが書いた時には,「私の」を意味する一人称接尾辞「イ」は恐らくこの称号では特別な意味を失っていたのだろう。ヨハネは単に「先生」と訳している。(ヨハ 20:16)

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