コリント第一
注釈 7章
さて,皆さんからの手紙に書かれていたことを取り上げます: こことコ一 8:1から分かるように,コリントの兄弟たちはパウロに手紙を書き,結婚のことや偶像に捧げられた食物を食べることについて尋ねていた。コ一 1:2; 8:1の注釈を参照。
女性に触れない: 女性と性的な接触を持たないということ。この理解は「触れる」という表現が性的な接触や性関係を意味する他の聖句とも合っている。(創 20:6,7。格 6:29)パウロは夫と妻が互いに与えるべきものを与えるよう勧めているので,夫婦の性関係をとどめているのではない。(コ一 7:3-5。コ一 7:3の注釈を参照。)パウロが「男性は女性に触れない方がよいでしょう」と言ったのは,結婚していないクリスチャンに独身のままでいるよう勧める文脈でのこと。(コ一 7:6-9。マタ 19:10-12と比較。)
性的不道徳が広く見られる: この表現はギリシャ語ポルネイアの複数形を訳したもの。この冒頭部分を「世間に多い不倫関係」としている翻訳もある。(「新約聖書」,柳生直行訳)これは古代コリントの状況をよく表している。コ一 5:9の注釈を参照。
与えるべきもの: 直訳,「負債」,「義務」。これは結婚という神からの贈り物に当然伴う性関係を指す。夫婦は互いに同意した場合を除き,その祝福を受ける機会を相手から奪ってはならない。(コ一 7:5)イエスは,一方が性的不道徳を犯したときという別の例外も認めている。その場合,もう一方は離婚するかどうかを決めることができる。(マタ 5:32; 19:9)
譲歩であって: または,「許されていることであって」。コ一 7:2のパウロのアドバイスを指すようだ。
私のよう: 使徒パウロは宣教旅行をしていた時,結婚していなかった。聖書は,パウロが結婚したことがあったかどうかはっきり述べていない。パウロの幾つかの言葉からすると,妻を亡くした可能性もあるようだ。(コ一 7:8; 9:5)
ある人はこれ,別の人はあれというようにです: 独身でいる人もいれば結婚する人もいる,ということ。
和解しなさい: パウロはここで複合動詞カタッラッソーを使っていて,その基本的な意味は「交換する」。ギリシャ語聖書で,この動詞は「敵意を友好関係と交換する」,「調和を取り戻させる」という意味で使われている。神との敵対関係を平和な関係に置き換えられたのと同じように,緊張した結婚関係を円満な関係に置き換えられるということを示すために,結婚に関してこの動詞を使ったのかもしれない。ロマ 5:10の注釈を参照。
言います。主ではなく私がです: パウロはこの章で何度か,自分の考えや意見をキリストの言葉と区別して述べている。(25,40節も参照。)パウロは謙遜に,特定の質問についてはイエス・キリストの教えを直接引用できないということを読者に思い出させているようだ。しかし,パウロは自分の意見を聖なる力に満たされたキリストの使徒として書くことができた。イエスが約束したように,聖なる力は弟子たちが「真理を十分に理解できるように」導いた。(ヨハ 16:13)パウロの助言は,そのように神の聖なる力の導きによって書かれ,聖書のほかの部分と同じようにクリスチャン全てにとって権威のある役立つ指示となった。(テモ二 3:16)
クリスチャンではない妻: 直訳,「信じていない妻」。この文脈でこの表現は,宗教上の信念を全く持っていない妻のことを言っているのではない。イエスに信仰を持っておらず,エホバに献身していない人を指している。ユダヤ教徒か異教の神々の信者だったかもしれない。
クリスチャンではない: 直訳,「信じていない」。この文脈で,パウロはこの表現をイエス・キリストの贖いに信仰を抱かない人を表すのに使っている。そのような人は,汚れた世から離れておらず,罪の奴隷という状態から解放されていない。正直に生き,道徳的な生活を送っているとしても,神から見て聖なる清い人ではない。(ヨハ 8:34-36。コ二 6:17。ヤコ 4:4)この節のとの関係で神聖なものとされに関する注釈を参照。
との関係で神聖なものとされ: ここで「神聖なものとされ」と訳されているギリシャ語動詞ハギアゾーとそれに対応する「聖なる」という意味の形容詞ハギオスは,神のために取り分けられていることを表す。神聖なものとされると,聖なる清いもの,神への奉仕のために取り分けられたものとなる。(マル 6:20。コ二 7:1。ペ一 1:15,16。用語集の「神聖さ」参照。)神の前でのこの清い立場は,神がご自分の子を通して与えてくださった贖いに信仰を抱く人に与えられる。この節のクリスチャンではないに関する注釈を参照。
聖なる: パウロは,クリスチャンでない夫や妻が結婚の絆によって「聖なる」ものとなると言っているのではない。その人は悪い行いをしていたり,汚れた習慣を持っていたりするかもしれない。パウロが言っていたのは,クリスチャンでない人がクリスチャンである配偶者「との関係で」神聖なものとされるということ。それで,神はそうした結婚関係つまり結び付きを清く尊いものと見なす。クリスチャンである親のおかげで,幼い子供は神からの世話と保護の下,聖なるものと見なされる。両親共にクリスチャンでない子供よりも恵まれた境遇にある。
離れる: ここで使われているギリシャ語コーリゾーはコ一 7:10,11でも使われている。
各自がエホバから与えられた分に応じて: 「分」とは,エホバがクリスチャン各自に与えている,またはそうなることを許している状況や境遇のこと。パウロはクリスチャンに自分の境遇を変えることばかりに気を取られずに歩む,つまり生きていくよう勧めた。パウロはこの節で「各自」と訳されるギリシャ語を2回使っていて,神がクリスチャン一人一人を気に掛けていることを強調しているのかもしれない。ほとんどのギリシャ語写本はここで「主」という語(ギリシャ語,ホ キュリオス)を使っているが,ここの本文で神の名前を使う十分な理由がある。付録C3の序文とコ一 7:17を参照。
神: 初期の幾つかのギリシャ語写本は「神」としている。しかし,後代の一部の写本は「主」を使っている。ギリシャ語聖書のヘブライ語訳の幾つか(付録C4のJ7,8,10)では,この節のこの部分が「エホバ」となっている。
その人は割礼を受ける前の状態に戻そうとしてはなりません: パウロは,何も身に着けずに走るギリシャの競技会に参加しようとしてユダヤ人の一部の競技者が行ったことを念頭に置いていたのかもしれない。軽蔑やあざけりを避けようとして,包皮に似たものを復元する手術を受けて「割礼を受ける前の状態に戻そう」とする人がいた。割礼を巡る論争でコリントの会衆が分裂しそうになっていたようで,パウロはクリスチャンに,割礼を受けていてもいなくても,招かれた時の状態から変化しようとしないように勧めた。(コ一 7:17-20。ヘブ 13:17)
解放されて主に仕える自由民……自由民: または,「主に仕える解放奴隷……自由民」。解放奴隷(ギリシャ語アペレウテロス)とは,奴隷状態から解放されて自由民になった人。聖書で,このギリシャ語はここでしか使われていない。しかしそのような人たちは,コリントがローマによって再建された時に大勢住むようになったので,そこでよく知られていた。一部の人はクリスチャンになった。一方,奴隷になったことがないクリスチャンもいた。パウロはそうした人たちのことを指して「自由民」(ギリシャ語エレウテロス)と言った。その人たちは生まれながらに自由だった。とはいえ,どちらのグループのクリスチャンも,イエスの貴重な血という「代価によって買われ」た。それでクリスチャンは,「解放され[た]自由民」も元からの「自由民」も,神とイエス・キリストの奴隷であり,お二方の命令に従うべきだった。クリスチャン会衆で,奴隷,解放された自由民,元からの自由民に違いはなかった。(コ一 7:23。ガラ 3:28。ヘブ 2:14,15。ペ一 1:18,19; 2:16)用語集の「自由民」参照。
未婚の人: または,「童貞の人」,「処女の人」。しばしば「処女」と訳されるギリシャ語パルテノスは,字義通りには「性交をしたことがない人」を指し,字義的また比喩的な意味で男性にも女性にも使われる。(マタ 25:1-12。ルカ 1:27。啓 14:4。使徒 21:9の注釈を参照。)しかし,この後の節(コ一 7:32-35)は未婚の人だけでなく今は結婚していない人にも広く当てはまる。
私の意見を述べます: ここでパウロは結婚と独身について個人的な意見を述べている。結婚を悪く言ったり禁じたりしているのではなく,主に仕える上での独身の利点を聖なる力に導かれて強調している。コ一 7:12の注釈を参照。
未婚の人: コ一 7:25の注釈を参照。
苦難を身に: しばしば「苦難」と訳されるギリシャ語は基本的に,さまざまな状況での圧力から来る苦痛,苦悩,苦しみを意味している。「困難」,「問題」とも訳せる。「身」と訳されているギリシャ語はしばしば人間を指して使われる。(ロマ 3:20の注釈を参照。)この文脈で,「身」(体)に招く「苦難」は,神から見て「一体」となった夫婦によくある問題や試練を指す。(マタ 19:6)「苦難を身に」という表現は,「生活上の困難を」や「日々の困難を」とも訳せる。結婚や家族生活に伴うそのような「苦難」は,病気,経済的な問題,クリスチャンの場合は迫害によって生じるかもしれない。コ二 1:4の注釈を参照。
世を利用している: 多くの聖句で「世」と訳されるギリシャ語(コスモス)は主に,人類という世を指す。(ヨハ 1:9,10; 3:16の注釈を参照。)しかし,この文脈で「世」はより広い意味で,人間の生活に影響を与える枠組み,人間が生活し,人間社会が機能する体制を指している。衣食住など世の中の経済システムと関連があるものを含む。(ルカ 9:25の注釈を参照。)例えば,クリスチャンは自分や家族を養うためにこの世を「利用」する。しかし,世を十分に利用することは避ける,つまり生活の中で何よりも優先したりはしない。
今の世のありさまは変わろうとしている: または,「今の世の場面は変わっていく」。ここで「ありさま」と訳されているギリシャ語は,何かの「姿」や「形」,「現在の物事の仕組み」を指す。パウロは当時の劇場を念頭に置き,この世を場面が移り変わって役者が次々と出入りするステージに例えていたのかもしれない。この表現は現状の世界,物事の仕組みや姿が「過ぎ去りつつあ」ることも意味しているのかもしれない。(ヨ一 2:17)
主の事柄: つまり,神の子と天の父エホバのために行う全ての事柄。クリスチャンとしての生活,崇拝,奉仕が深く関係する。(マタ 4:10。ロマ 14:8。コ二 2:17; 3:5,6; 4:1)コ一 7:33の注釈を参照。
気を使います: ギリシャ語動詞メリムナオーはここで「気を使います」と訳されているが,その語の意味は文脈によって異なる。この節でこの語は積極的な意味で使われていて,主を喜ばせるために主の事柄に熱心に励み,ふさわしい関心を向けるという考えを伝えている。続く節で,この語は夫や妻が配偶者の感情面,身体面,生活面で必要とする事柄に関心を向けることについて使われている。(コ一 7:33,34)コ一 12:25によれば,こうした気遣いや関心は会衆内でも互いに示される。他の文脈で,このギリシャ語動詞は,あれもこれもと考えて気がそらされ,喜びを失うような心配も指す。(マタ 6:25,27,28,31,34。ルカ 12:11,22,25,26)マタ 6:25,ルカ 12:22の注釈を参照。
世の事柄: ここで「世」と訳されているギリシャ語コスモスは,人間の生活領域とその枠組みを意味する。「世の事柄」には,衣食住など生活に関係した日常的また世俗的なことが含まれる。この文脈でパウロは,ヨ一 2:15-17に述べられているようなクリスチャンが避けようと努める正しくない世の事柄について言っているのではない。コ一 7:32の注釈を参照。
を抑え付け: 直訳,「に輪縄を掛け」。この表現は文字通りに使われるとき,動物を捕まえたり動きを制限したりするために首に縄を掛けることを指す場合がある。捕虜を拘束することについても使われる。この文脈では比喩的に使われて,誰かに制限を課したり行動を規制したりするという考えを伝えている。パウロは結婚と独身について助言を与えたが(コ一 7:25-34),コリントのクリスチャンの自由を制限したかったわけではない。「気を散らさずに……主に」仕えられるよう助けようとしていた。
未婚の人が: または,「人が未婚の状態で」,「人が自分の処女性(童貞性)に対して」。ここで使われているギリシャ語パルテノスは,しばしば「処女」と訳される。それで,この部分を「自分の処女」つまり自分の婚約者に対してという意味に取って訳している聖書もある。しかしこの文脈で,パルテノスは明らかに,処女(童貞)の人ではなく,自分自身の処女性(童貞性),つまり未婚である状態を言っている。パウロはこれまでの節で独身を勧めていて,ここはその論議の続き。
若さの盛りを過ぎて: この表現はギリシャ語の複合語(ヒュペラクモス)の訳で,その語は「越えて」という意味の語ヒュペルと「盛り」や「最高点」という意味の語アクメーに由来する。2つ目の語はしばしば花の咲き具合に関して使われた。ここで「若さの盛り」は,若い人が身体的に成長して子供をもうけることができるようになっている時を指すようだ。しかし,そのような体の変化にはしばしば強い感情が伴って,良い判断をするのが難しくなる。この文脈でパウロは独身である利点を論じている。パウロが言いたかったのは,若い人は身体的に十分成長していても感情や信仰が成長の途上にある間は,急いで結婚するよりも自制を磨くことに励む方が良いだろうということ。
結婚しない: または,「自分の処女性(童貞性)を守る」。コ一 7:36の注釈で説明されているように,ギリシャ語パルテノスはこの文脈で,処女(童貞)の人ではなく,処女性(童貞性),つまり結婚していない状態を言っている。この理解は文脈に沿うもので,パウロは独身でいる利点を論じている。(コ一 7:32-35)
結婚する: または,「結婚して処女性(童貞性)を失う」。コ一 7:36,37の注釈を参照。
主: この文脈で,「主」という称号はイエス・キリストもエホバ神も指せる。
主に従う人とだけ: または,「主の信者とだけ」,「その人が主と結び付いている場合だけ」。仲間のクリスチャンと,ということ。聖なる力の導きによって書かれたこの指示は,全てのクリスチャンに当てはまる。パウロはロマ 16:8-11で,仲間の信者に関して「主に従う」という表現を使っているので,ここでも仲間の信者について言っているのは明らか。コロ 4:7で,この表現を「愛する兄弟」,「忠実な奉仕者」,「共に……仕える奴隷」という言葉と一緒に使っている。ユダヤ人という背景を持つクリスチャンは,周囲の異教の国々の人と「結婚による同盟を結んで」はならないという神がイスラエルに与えた律法をすでに知っていただろう。エホバは,「彼ら[イスラエル人ではない人たち]はあなたの息子に,神に従うことをやめさせて,ほかの神々に仕えさせる」とイスラエルに警告した。(申 7:3,4)それで,クリスチャンの時代,「主に従う人とだけ」結婚するようにという訓戒は,エホバの崇拝者でキリストの弟子である人とだけ結婚するようにということを意味するだろう。
私の意見では: コ一 7:25の注釈を参照。