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ガラテア 注釈 3章

ガラテア

注釈 3章

3:1

無分別なガラテアの人たち: 「無分別な」に当たるギリシャ語(アノエートス)は,必ずしもガラテアのクリスチャンが知性に欠けていたことを意味するわけではない。この文脈では,ある辞典が述べているように,「理解するために知的能力を使おうとしないこと」を指す。パウロは直前でガラテアのクリスチャンに,正しいと認められているのは,モーセの律法に従っているからではなくイエス・キリストへの信仰を持っているからであるということを思い起こさせていた。(ガラ 2:15-21)イエスはその人たちをモーセの律法の有罪宣告から自由にしていた。(ガラ 2:21の注釈を参照。)愚かなことに,ガラテアの人たちの中には,貴重な自由を捨てて,有罪を宣告するだけの廃止された律法に戻りつつある人たちがいた。(ガラ 1:6)パウロは「無分別なガラテアの人たち」と言って,その人たちが後戻りしていることを叱責した。

ガラテアの人たち: パウロがここで言っているのは,パウロが以前に伝道したガラテア南部にある会衆のクリスチャンのことと思われる。ガラ 1:2の注釈を参照。

悪影響を受けた: または,「悪影響を与えられた」。ギリシャ語動詞バスカイノーは,ギリシャ語聖書でここだけで使われている。この語は,「魔法をかける」や「呪文をかける」という意味で使われることもあり,そう訳している聖書もある。しかし,古代ギリシャ語で比喩的な意味もあったので,必ずしも人を惑わすために魔力が働いていることを意味したわけではなかった。パウロは,この語を正しい道からそれさせて悪い影響を与えるというもっと広い意味で使っている。ガラテアの人たちを惑わそうとする人たちの良くない影響を強烈に表現している。

3:3

聖なる力に導かれて歩み始めたのに: ガラテアのクリスチャンは,十分に成長したクリスチャンになることを目指して歩み始めていた。当初は,聖なる力の導きに従って行動していた。

人間的な考え方をして歩みを終えるのですか: 直訳,「肉において完成されていくのですか」。ガラテアのクリスチャンは「聖なる力に導かれて歩み始めたのに」,この時には,神の聖なる力に導かれていない人たち,特にモーセの律法を固守することや割礼を強く推奨する人たちの影響を受けていた。(ガラ 3:1; 5:2-6)そのように「人間的な考え方をして歩」むなら,クリスチャンとして十分に成長することができず,永遠の命の見込みを失う危険もあった。(ガラ 6:8)

3:6

エホバ: ここで引用されている創 15:6では,元のヘブライ語本文に,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。(付録C1とC2参照。)現存するギリシャ語写本はここでテオス(神)という語を使っている。入手できるセプトゥアギンタ訳の写本の創 15:6で使われている語を採用したのだろう。そのために,ほとんどの翻訳はここで「神」を使っている。しかし,この引用が取られた元のヘブライ語本文にはテトラグラマトンが含まれているので,この訳の本文で神の名前が使われている。創 15:6はロマ 4:3とヤコ 2:23でも引用されている。

3:7

アブラハムの子孫: 割礼の契約は,もともとアブラハムと結ばれた。「偽兄弟たち」は,クリスチャンは律法を守る場合にのみ「アブラハムの子孫」になれると論じていたようだ。(ガラ 2:4; 3:1,2。創 17:10。用語集の「割礼」参照。)しかしパウロは,本当の「アブラハムの子孫」は信仰によって生きる人,つまりアブラハムのような信仰を持つ人であると説明している。(ガラ 3:9)ガラ 3:29の注釈を参照。

3:9

信仰を持っていた: この節で,「信仰を持っていた」と訳されているギリシャ語ピストスは,誰かまたは何かに信頼を寄せる人や信仰を持つ人のことを表す。「忠実な」という意味もある。コ二 6:15の注釈を参照。

3:10

こう書かれているからです。「……は皆,災いを被る」: パウロはここで,申 27:26を引用している。その聖句から分かるように,ユダヤ人は,従うと同意していた律法に違反するなら,律法に書かれている災いに遭うことになっていた。(出 24:3)「災いを被る」という語(ギリシャ語エピカタラトス)は,悪いことが起きると神から宣告されることを指す。パウロは,全てのユダヤ人が,アダムの罪だけでなく律法の災いを被る状態からも買い戻される必要があったことを示した。(ロマ 5:12。ガラ 3:10-13)ガラ 3:13の注釈を参照。

3:11

正しい人は信仰のゆえに生きる: パウロはハバ 2:4を引用して,クリスチャンが正しいと認められるための本当の基盤は,モーセの律法に従った行いではなくキリスト・イエスへの信仰であることを強調している。(ロマ 10:3,4)ロマ 1:17の注釈を参照。

3:13

杭: 使徒 5:30の注釈を参照。

私たちの代わりに災いを被る: モーセの律法には,その契約の下で律法に違反する人は災いを被るとある。(ガラ 3:10の注釈を参照。)パウロがこの節で引用している申 21:22,23(脚注)は,「神の前で災いを被っている」者の体が杭に掛けられたことを示している。それで,イエスは災いを被っている犯罪者として杭に掛けられなければならなかった。それはユダヤ人のためで,イエスは律法によってユダヤ人が受けることになっていた災いの重荷を全て担った。このように,イエスの死によって,イエスがメシアであるという信仰を持つユダヤ人は誰でもその災いから解放されることになった。パウロがここで言っていることは,イエスがパリサイ派のニコデモに語ったことと共通するところがあるようだ。ヨハ 3:14の注釈を参照。

3:15

契約: ギリシャ語ディアテーケーは,ギリシャ語聖書に33回出ていて,いつも「契約」または「合意」という意味で使われている。(マタ 26:28。ルカ 22:20。コ一 11:25。ガラ 3:17; 4:24。ヘブ 8:6,8; 10:16,29; 12:24)幾つかの聖書翻訳で,この節のギリシャ語ディアテーケーは人の「遺言」と訳されている。しかし,前後の文脈で,神がアブラハムと契約を結んだことについて述べられていることを考えると(ガラ 3:16-18),この節でも「契約」と訳すのがふさわしいだろう。ガラ 3:17の注釈を参照。

3:16

約束はアブラハムとその子孫に語られました: パウロは聖なる力に導かれて,イエス・キリストがアブラハムの子孫の主要な部分であることを明らかにしている。(ギリシャ語スペルマは,直訳「種」で,メシアに関するエホバの約束に関連して「子孫」と訳されている。付録A2参照。)エデンの園での反逆の後,エホバは「女」が生み出す「子孫」がサタンである蛇の頭を砕くと約束した。(創 3:15)エホバはアブラハムとの契約で,アブラハムの子孫によって人類が祝福されると言った。(創 12:1-3,7; 13:14,15; 17:7; 22:15-18; 24:7。ガラ 3:8)神は,その子孫がユダ族のダビデ王の子孫だということも明らかにした。イエスはそうだった。(創 49:10。詩 89:3,4。ルカ 1:30-33。この節のあなたの子孫たち……あなたの子孫に関する注釈を参照。)ガラ 3:26-29で,パウロはアブラハムとの約束の実現において,アブラハムの子孫の副次的な部分が存在することを示している。ガラ 3:29の注釈を参照。

あなたの子孫たち……あなたの子孫: 直訳,「あなたの種[複数形]……あなたの種[単数形]」。パウロはアブラハムとその「子孫」に対する神の約束について述べている。(創 12:7; 13:14,15; 17:7; 22:17,18; 24:7)これらの約束の中で,アブラハムの「子孫」(直訳,「種」)に当たるヘブライ語やギリシャ語は単数形である。しかし,集合的な意味での子孫を指すことが多い。ここでパウロは,ギリシャ語スペルマの複数形(訳は「子孫たち」)と単数形(訳は「子孫」)を対比している。そのように区別して,神がアブラハムの子孫を通してもたらされる祝福について語った時,おもに1人の人つまりキリストのことを言っていたということを示している。地上の全ての家族がアブラハムの「子孫」によって祝福されるという約束に,アブラハムの子孫全てが含まれたはずはない。というのは,アブラハムの息子イシュマエルの子孫も,アブラハムがケトラによってもうけた息子たちの子孫も,人類を祝福するために用いられることはなかった。約束の子孫はイサクを通して来ることになっていた。(創 21:12。ヘブ 11:18)その後,この家系はイサクの息子ヤコブ(創 28:13,14),ユダの部族(創 49:10),ダビデの家系(サ二 7:12-16)に絞られた。イエスはアブラハムの子孫で,この1つの家系から出た。(マタ 1:1-16。ルカ 3:23-34)それで西暦1世紀のユダヤ人は,1人の人がメシアつまりキリストとして,また救出者として来ることを期待していた。(ルカ 3:15。ヨハ 1:25; 7:41,42)また,自分たちはアブラハムの文字通りの子孫なので,神の恵みを受けた民で神の子供となれるとも考えていた。(ヨハ 8:39-41)

とは述べられていません: または,「とそれは述べていません」。もしかすると,「と彼は述べていません」。ギリシャ語で,ここの主語は明示されていないが,パウロが引用している聖句とも神とも考えられる。主語は恐らく「それ」で,パウロが引用している聖句を指すが,「彼」つまり神と理解することもできる。

3:17

430年: ここでパウロは,アブラハム契約が結ばれた時から,モーセの律法契約が結ばれた時までの期間のことを言っている。エホバとアブラハムの間で結ばれた契約は,紀元前1943年,アブラハムとその家族が,神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地カナンへ向かう途中にユーフラテス川を渡った時に発効したと思われる。(創 12:4,5,7)それは後にニサンとして知られる月の14日に起きたようだ。そう言える根拠として,出 12:41には,「430年」後の紀元前1513年の「ちょうどその日に」,エホバがご自分の民をエジプトの奴隷状態から解放したことが書かれている。

神が前に結んだ契約: これは,神がアブラハムと結んだ契約を指す。その契約は紀元前1943年,アブラハムがユーフラテス川を渡った時に発効したようだ。(創 12:1-7)430年後の紀元前1513年に結ばれた律法契約は,アブラハム契約を無効にするものではなく,つまり取り消すものではなく,それに付け加えられたものだった。それはアブラハムの子孫イエス・キリストに人々を導くものだった。(ガラ 3:15,16)ガラ 3:24の注釈を参照。

契約: または,「合意」。(ガラ 3:15の注釈と用語集を参照。)1世紀のクリスチャンはセプトゥアギンタ訳で,「契約」に当たるギリシャ語がヘブライ語ベリートの訳として使われているのを目にしただろう。そのヘブライ語は「契約」または「合意」という意味で,ヘブライ語聖書に250回以上出ている。(出 24:7,8; 詩 25:10; 83:5,脚注)コ二 3:14の注釈を参照。

3:19

違反を明らかにするために: パウロによると,モーセの律法の主な目的は,「違反を明らかに」し,イスラエルや全人類が神の前で不完全な罪人であることを明白にすることだった。(「違反」に当たるギリシャ語については,ロマ 4:15の注釈を参照。)律法は,罪に相当する領域や範囲全てをはっきり示した。それでパウロは,非常に多くの行いや,態度でさえ,罪深いものであることが既に示されているという意味で,「多くの」過ちや罪が「明らかに」なっていると言うことができた。(ロマ 5:20; 7:7-11。コ一 15:56の注釈を参照。詩 40:12と比較。)律法が罪深さをあらわにするので,律法に従おうとする人は皆,自分が法的に有罪であることに気付いた。律法が定めた犠牲は,自分の罪深い状態を絶えず思い起こさせるものとなった。(ヘブ 10:1-4,11)全ての人は罪を完全に贖うことができる完全な犠牲を必要とした。(ロマ 10:4)この節の子孫に関する注釈を参照。

付け加えられた: 「付け加えられた」と訳されているギリシャ語をパウロが使ったのは,モーセの律法が一時的なものであることを表現するためだったと思われる。もっと長く続くアブラハム契約と約束の「子孫」に関するその実現に比べると,特にそうである。(創 3:15; 22:18。ガラ 3:29)

子孫: 直訳,「種」。(付録A2参照。)この文脈で,イエス・キリストを指す。ガラ 3:16の注釈を参照。

時まで: パウロが「時まで」という言葉を使っていることから,律法はずっと続くよう意図されてはいなかったことが分かる。目的を果たした時,律法契約は終わった。(ロマ 7:6。ガラ 3:24,25)

天使たちを通して……伝えられました: ヘブライ語聖書には,天使たちが律法契約を伝えたとは明言されていない。しかし,この聖句や使徒 7:53(注釈を参照)やヘブ 2:2,3にはっきり書かれている。おそらくエホバから権威を与えられた天使たちが代理としてモーセに話し,その後モーセに証しの石板2枚を与えた。(出 19:9,11,18-20; 24:12; 31:18)とはいえ,実際に法を定めたのはエホバであり,神とイスラエルの間の契約の仲介者として任命されたのはモーセだった。

仲介者: 名前が述べられていないこの仲介者はモーセ。モーセはエホバとイスラエル国民の間の契約,つまり法的拘束力を持つ合意を結ぶために,神と国民の間の仲介者として行動した。(用語集の「仲介者」を参照。)「仲介者」と訳されるギリシャ語メシテースはギリシャ語聖書に6回出ている。(ガラ 3:19,20。テモ一 2:5。ヘブ 8:6; 9:15; 12:24)それは法律用語。ある辞典によれば,「平和や友好関係を築いたり回復したりするか協定[つまり合意]を結ぶために,または契約を批准するために,2者の間に入る者」という意味。律法契約を仲介したモーセは,イスラエル国民が契約を守ってその恩恵を受けられるようにした。例えば,モーセは,契約が発効した時に大切な務めを果たした。(出 24:3-8。ヘブ 9:18-22)祭司を任命し,祭司の仕事が行われるようにした。(レビ 8:1-36。ヘブ 7:11)また,600以上の条項からなる律法をイスラエル人に伝えたり,イスラエル人が罰を受けないで済むようエホバに嘆願したりした。(民 16:20-22; 21:7。申 9:18-20,25-29)

3:20

関わっているのが1人だけなら,仲介者は要りません: パウロはエホバがアブラハムと結んだ契約について論じている。エホバがこの契約または約束をしたのであり,それが果たされるかはエホバに懸かっていた。アブラハムに,満たすべき条件が示されることはなかった。(ガラ 3:18)一方,律法契約には2者が関わっていた。モーセを仲介者としてエホバとイスラエル国民の間で結ばれた。(ガラ 3:19の注釈を参照。)イスラエル人は契約の条項に同意し,律法に従うという神聖な約束をした。(出 24:3-8。ガラ 3:17,19)用語集の「契約」参照。

神の約束の場合がそうでした: 直訳,「神はひとりです」。ギリシャ語写本はここで「神」としているが,ギリシャ語聖書のヘブライ語やその他の言語への翻訳の幾つかは,神の名前を使っている。パウロが使った表現は,申 6:4の言葉とよく似ている。そこには,「私たちの神エホバはただひとりのエホバです」とある。イエスも,マル 12:29(注釈を参照)に記録されているように,申 6:4を引用した。パウロは,ロマ 3:30とコ一 8:4で同じ聖句に暗に言及している。

3:22

罪に拘束: 「拘束されるようにしました」と訳されているギリシャ語動詞は,「囲い込む」,「閉じ込める」という意味で,抜け出せる見込みがほとんど,あるいは全くないことを暗示する。文字通りの意味で,魚を網に囲い込んで捕まえることを指せる。(ルカ 5:6)その語は,不完全な人間が罪深さにとらわれた状態を印象的に表現している。パウロが述べているように,「聖書は全ての人」つまり罪深いアダムとエバの全ての子孫「が罪に拘束されるようにし」た。律法を含む聖書は,個々の人が神から見てどれほど罪深いかをはっきり示した。(ガラ 3:19の注釈を参照。)この悲惨な拘束から抜け出せる希望をキリストだけが差し伸べることができた。

3:23

拘束され: パウロは直前で人間が「罪に拘束され」ていることを示した。(ガラ 3:22の注釈を参照。)この節でパウロは,同じギリシャ語(「拘束され」と訳されている)を使って違う点を強調している。イスラエル人は,モーセの律法によって保護されており,その律法により,「やがて明らかにされる[キリストへの]信仰」へと導かれた。

3:24

私たちをキリストに導く保護者: パウロがこの例えで使っている「保護者」に当たるギリシャ語(パイダゴーゴス)は,字義的には「子供を導く者」という意味で,「養育係」とも訳される。この語はガラ 3:24,25以外では,コ一 4:15でのみ使われていて,そこでパウロはクリスチャンの奉仕者をそのような保護者に例えている。(コ一 4:15の注釈を参照。)この美しい隠喩で,パウロはモーセの律法を幼い子を学校に毎日連れていく保護者もしくは養育係に例えている。こうした保護者は実際の先生ではなく,子供を守ったり,家庭の決まりを守れるよう助けたり,しつけを行ったりする責任があった。同じようにモーセの律法は神の基準をはっきりと支持し,律法を完全に守れない罪深い状態にあることをイスラエル人が理解できるよう助けた。この「保護者」の教えを受け入れた謙遜な人たちは,神の唯一の救いの手段であるメシアつまりキリストが必要な状態にあることを理解した。(使徒 4:12)

3:25

キリストへの信仰が始まった今: イエスは完全に律法を守った唯一の方。それでパウロは,ここで言う信仰つまり完全な信仰が始まったと言えた。イエスは律法を守って実現することによって,エホバ神から良いと認められる機会を弟子たちに与えた。こうして,「信仰を……完全にしてくださる方」となった。(ヘブ 12:2)キリストが弟子たちと「体制の終結までいつの日も」共にいるので(マタ 28:20),もう保護者のもとに戻る必要はない。(ガラ 3:24の注釈を参照。)パウロはこのように論じて,イエス・キリストを土台として完全にされたこの信仰が始まったことによってモーセの律法は廃止されたということをはっきりさせている。

3:27

キリストへのバプテスマを受けた: この表現は,天に行くよう選ばれたクリスチャンが聖なる力でバプテスマを施された,つまり選ばれた時に,主と特別な関係に入ることを示している。その人たちは,天に行くよう選ばれた人たちの会衆という「1つの体」の一部となる。イエス・キリストがその体の頭。(コ一 12:13。マル 1:8。使徒 1:5。啓 20:6。ロマ 6:3の注釈を参照。)コ一 10:2でパウロは同じような例えを使い,ある人々が指導者また解放者「へのバプテスマを受け」ることができると言っている。コ一 10:2の注釈を参照。

キリストを身に着けました: または,「キリストを身にまといました」。このギリシャ語動詞はコロ 3:10,12にもある。ある辞典によれば,この表現は「考えや感情や行動がキリストに似たものとなり,キリストの生き方を再現できるほど,キリストの精神を備えるようになる」ことを意味する。パウロはローマの手紙で,同じギリシャ語動詞を似たような表現で使っている。ロマ 13:14の注釈を参照。

3:28

ユダヤ人もギリシャ人もなく: 「ユダヤ人」という語は,ユダヤ人の子孫つまりイスラエル人を指す。(用語集参照。)「ギリシャ人」という語はここで,ユダヤ人ではない民族全てつまり異国人を指して,より広い意味で使われていると思われる。(ロマ 1:16の注釈を参照。)それで,神から見れば,「アブラハムの子孫」かどうかは,もはやアブラハムの生来の子孫かどうかで決まるのではない。神に仕える人々は「皆が……一つになっている」ので,人種や国籍による区別はない。(ガラ 3:26-29。コロ 3:11)神はユダヤ人と異国人から成る「神のイスラエル」という新しい国民を選ぶことにより,公平であることを示している。(エフ 2:11-18。ガラ 6:16の注釈を参照。)パウロがガラテア州のクリスチャンに対してこの真理を強調したのは適切だった。ガラテアは,ユダヤ人,ギリシャ人,ローマ人,その土地の民族が入り混じっていた。

奴隷も自由民もなく: 「奴隷」は他の人に所有される人だった。「自由民」は生まれながらに自由であり,市民権を与えられていた。(用語集の「自由民」参照。)神から見れば,奴隷のクリスチャンも自由民のクリスチャンも違いはない。クリスチャンは皆,イエスの貴重な血によって買われており,神とキリスト・イエスの奴隷である。(コ一 7:22[注釈を参照],23。ペ一 1:18,19; 2:16)

3:29

皆さんは……まさにアブラハムの子孫であり: アブラハムの子孫の主要な部分はキリスト。(創 22:17。ガラ 3:16の注釈を参照。)パウロはここで,「キリストのもの」である人たちが「アブラハムの子孫」(直訳,「アブラハムの種」)の副次的な部分として加えられることを示している。(マル 9:41。コ一 15:23)この副次的な部分は,聖なる力によって選ばれた14万4000人のクリスチャンで構成される。(啓 5:9,10; 14:1,4)この選ばれたクリスチャンの中には生来のユダヤ人もいるが,大半は異国人。(使徒 3:25,26。ガラ 3:8,9,28)

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