フィリピ
注釈 1章
フィリピのクリスチャンへの手紙: このような書名は原文にはなかったと思われる。古代写本からすると,後に書名が付け加えられた。各書を識別しやすくするためだったのだろう。コ一 書名の注釈とメディア・ギャラリーの「パウロが書いたフィリピの手紙」を参照。
キリスト・イエスの奴隷: ロマ 1:1の注釈を参照。
パウロとテモテから: フィリピのクリスチャンへのこの手紙の筆者はパウロだが,パウロは最初のあいさつでテモテを含めている。パウロがローマで最初に拘禁されていた頃に,テモテはパウロと一緒にローマにいた。その時期にパウロがローマから書いた他の2通の手紙,コロサイの手紙とフィレモンへの手紙にも,テモテの名前が出ている。(コロ 1:1,2。フィレ 1)テモテ自身,フィリピの手紙とヘブライの手紙が書かれた間のどこかの時点で,ローマで拘禁を経験したようだ。(フィリ 2:19。ヘブ 13:23)
フィリピ: 使徒 16:12の注釈を参照。
聖なる人たち: ロマ 1:7の注釈を参照。
監督たち: ここでパウロは,フィリピ会衆で教え導く人たちについて,「監督」に当たるギリシャ語(エピスコポス)の複数形を使っている。(使徒 20:28と比較。)他の箇所でパウロは,特別な割り当てを果たすようテモテを任命したのは「長老団」だったことを述べている。(テモ一 4:14)このようにパウロは会衆の誰か1人を監督として挙げてはいないので,監督が複数いたことは明らか。ここから,1世紀の会衆がどう組織されていたかが理解できる。ギリシャ語聖書で「長老」と「監督」は言い換え可能な語として使われていて,それらが同じ立場を指していることが分かる。(使徒 20:17,28。テト 1:5,7。ペ一 5:1,2と比較。)会衆で監督として仕える人の数は,その会衆にクリスチャンとして十分成長した男性である「長老」として資格のある人が何人いるかによって決まった。(使徒 14:23)使徒 20:17,28の注釈を参照。
援助奉仕者たち: または,「補佐たち」。ギリシャ語ディアコノスは,字義的には「仕える人」という意味で,ここでは,クリスチャン会衆の任命された「援助奉仕者」という役割を指して使われている。テモ一 3:8,12で同様の意味で使われている。パウロがその語の複数形を使っていることから,さまざまな務めを果たして監督たちを補佐するそのような奉仕者が会衆に何人かいたと推察できる。この節の「監督たち」,「援助奉仕者たち」に当たる語句に,「司教,司祭」,「助祭」などの注記が付いている聖書もある。キリスト教会はそうした称号を使って,1世紀のクリスチャンの間に階級があったという印象を与えている。しかし,語句の本来の意味をはっきり伝える訳語からも明らかなように,クリスチャン会衆内の責任ある立場は上下関係を表していない。「援助奉仕者」という訳語は,会衆のために一生懸命働く男性が行う奉仕を際立たせている。
皆さんに惜しみない親切が示され,平和が与えられますように: ロマ 1:7の注釈を参照。
祈願: 使徒 4:31,フィリ 4:6の注釈を参照。
皆さんが……貢献してきたからです: パウロがとりわけ思い浮かべていたのは,ルデアが家の人たちと共にバプテスマを受け,パウロと伝道仲間に家に泊まっていくよう熱心に勧めた時のことかもしれない。(使徒 16:14,15)
拘禁されている私: パウロは他のどの使徒よりも多く拘禁されたかもしれない。(コ二 11:23と比較。)約10年前,フィリピで短い間牢屋に入れられたことがあった。(使徒 16:22-24)このフィリピの手紙を書いている時点では,ローマで自宅拘禁されていた。兵士に絶えず見張られながら,カエサルの前で裁判を受けるのを待っていた。(使徒 25:11,12; 28:30,31)フィリピの人たちは,拘禁されているパウロに助けが必要なことに気付き,エパフロデトを通して贈り物を届けた。エパフロデトはパウロと共にいる間に,自分の命を危険にさらしてまでもパウロをさらに助けた。(フィリ 2:25,30; 4:18)
良い知らせを……広める法的権利を得る: パウロがここで使っている語には法的な意味合いがある。それは,良い知らせを広める活動を法的な手段によって活発に推進することを指す。約10年前にフィリピにいた時,パウロは良い知らせを伝える権利を確立するためにローマの法制度に訴えた。(使徒 16:35-40)パウロはローマ帝国で神の王国の良い知らせを自由に伝える権利を確立するために戦っていた。ある参考文献にはこうある。「パウロは地下牢だけでなく法廷でも証人だった」。
擁護し: 「擁護」と訳されているギリシャ語(アポロギア)は法廷での弁明に関してよく使われる。(使徒 22:1; 25:16)イエスは,弟子たちが「地方法廷に」引き渡され,「[イエス]のために総督や王の前に」連れていかれて「その人たちと異国の人々に証言する」と予告していた。(マタ 10:17,18)パウロは,エルサレムでユダヤ人の反対のために捕らえられ,カエサレアにいるローマ総督のもとに連れていかれた。(使徒 23:23-35)カエサレアにいる間に「カエサルに上訴し」たので,ローマ帝国の最高法廷で信仰を擁護する機会が開かれた。(使徒 25:11,12)パウロが実際にカエサル・ネロあるいはカエサルの代理人の前に出たかどうかは聖書に書かれていない。上訴したパウロは,フィリピの手紙を書いた時,ローマで裁判を待っていた。(使徒 28:17-20)
正確な知識: パウロはここで,神と仲間の信者への愛を,神についての正確な知識を得ることや神が何を望んでいるかを識別することと関連付けている。聖書で「知る」や「知識」に当たるギリシャ語は,「個人的な経験を通して知る」という意味でよく使われている。ここで「正確な知識」と訳されているギリシャ語については,ロマ 10:2,エフ 4:13の注釈を参照。
十分な識別力: ここで「識別力」(直訳,「感覚による知覚」)と訳されているギリシャ語はここにしか出ていない。関連する語がヘブ 5:14の「そのような人は,使うことによって識別力[または,「知覚力」。直訳,「感覚器官」]を訓練したので,正しいことも悪いことも見分けることができます」という文で使われている。聖書の中で,これらの語は,道徳面や信仰面での識別力を指して使われている。パウロは,フィリピのクリスチャンがそのような識別力を得て愛の豊かな人になり,神から見てより重要なこととあまり重要でないことを見極められるようにと祈った。(フィリ 1:10)クリスチャンは道徳感覚が鋭敏なら,白黒はっきりしている事柄だけでなく,どうすればよいかすぐには分からない複雑な状況でも,正しいことと悪いことを見分けられる。そうすれば,良い決定をしてエホバとの友情を持ち続けることができる。
親衛隊: パウロはローマでの最初の拘禁中(西暦59-61年ごろ),「兵士の監視の下に1人で暮らすことを許可された」。(使徒 28:16)自宅拘禁されていた間に,「キリストのために拘禁されていることが,親衛隊の全員……に知られるようになっています」と書いている。ローマ兵の精鋭である親衛隊は何千人もいた。ここで使われているギリシャ語はラテン語プラエトーリウムに由来し,そのラテン語はもともとローマ軍の司令官が住む場所(天幕もしくは建物)を指す語だった。そこを守る兵士たちが,カエサル・アウグストゥスの治世中にローマ皇帝の護衛を務めるようになった。そのため,フィリ 1:13のこのギリシャ語が幾つかの翻訳では,「官邸護衛」や「近衛兵」と訳されている。親衛隊は任務のために皇帝とその家族の近くに配置された。
ねたみや競争心からキリストについて伝道している人もいます: 間違った動機で神に仕える人たちがいた。その中には,キリスト教に改宗したユダヤ人で,使徒パウロを通して伝えられた清い教えから離れた人が含まれていたと思われる。その人たちは,神をたたえることよりも自分や自分の考えをアピールすることを第一に考えていた。(ガラ 6:12,13)パウロの評判,権威,影響力をねたんで,パウロの信用を落とそうとした。(フィリ 1:17)それでもパウロは,キリストのことが広められていたので喜びを失わなかった。(フィリ 1:18)
他の人たちは良い動機でそうしています: 誠実なクリスチャンは純粋な動機つまり善意でキリストについて伝道していた。その人たちは,パウロのような,キリストの代理をする人に対しても善意(喜び,親切)を表した。その結果,神からの好意や善意を受けた。(詩 106:4,脚注。格 8:35)
イエス・キリストが持っている聖なる力: イエスが使う神の聖なる力を指すと思われる。使徒 2:33には,イエスが「約束の聖なる力を天の父から受けた」と書かれている。フィリ 1:11で,パウロはクリスチャンが「イエス・キリストによって……正しい実を豊かに結び,神がたたえられ,賛美されますように」と祈った。復活したイエスが天に昇って以来,神は地上のクリスチャンに必要なものを与えるためにイエスを用いてきた。イエスは,ヨハ 14:26で「父が私の名によって[聖なる力を]遣わす」と述べており,ヨハ 15:26では「私は父のもとから援助者を遣わします。それは真理を伝える聖なる力で,……私について証言します」と述べている。使徒 16:7の注釈を参照。
救われる: または,「釈放される」。パウロはローマでの最初の拘禁中(西暦59-61年ごろ)にフィリピの手紙を書いた。パウロがここで使っている言葉は,フィリピのクリスチャンの熱烈な祈りによって釈放されるというパウロの確信を伝えているのかもしれない。釈放されればフィリピを訪れることができるので,パウロがフィリピの人たちをまた訪問したいと述べていることと一致する。(フィリ 2:24。メディア・ギャラリーの「西暦61年ごろ以後のパウロの旅行」参照。)パウロがここで使っているギリシャ語(ソーテーリア,「救い」とよく訳される)は,この文脈でパウロの永遠の救いを指すと理解することもできる。
気後れせずに語り: コ二 7:4の注釈を参照。
生きることはキリストのためであり,死ぬことは自分のためになります: パウロはここで,自分が生きることと死ぬことを対照させているようだ。生きている間は神と仲間のクリスチャンに仕える人生を楽しむことができるのに対し,忠実を保って死ぬなら天で不滅の命を得られた。(テモ二 4:6-8)
私はその2つの間で揺れています: カエサルの前で裁判を受けるのを待って自宅拘禁されている間,パウロは2つの可能性の間で揺れていた。1つは,兄弟たちに引き続き仕えるために生き続けること。もう1つは,神に忠実な人として死ぬこと。(テモ二 4:7,8)パウロはどちらを選ぶとは言わなかった。(フィリ 1:22)しかし,「解放されてキリストと共になること」の方が良いとは言っている。キリストの臨在の間に天での報いを受けることが保証される唯一の方法は,死ぬまで忠実であり続けることだとパウロは知っていた。(啓 2:10)
解放されて: パウロは,自分の死のことを言っていたと思われる。西暦65年ごろに書かれたテモテ第二の手紙で,関連するギリシャ語を使って自分の死について,「解放される時が迫っています」と述べている。(テモ二 4:6)「解放されてキリストと共になること」という表現は,コ二 5:8にある次の言葉と同じことを言っていると思われる。パウロは,「私たちは……この体から離れて主のもとに住まいを持ちたいと思っています」と述べている。天に行くよう選ばれた自分が神に忠実な人として死ぬなら「解放され」,後に復活してキリストの「天の王国」で生きる道が開かれる,と考えていた。(テモ二 4:18)パウロがコ一 15:23で説明しているように,「キリストのものである人たち」は将来の「キリストの臨在の間に」復活して天で生きる。それでパウロはここで,後に復活して天で生きられるよう忠実を保って地上での歩みを終えたいという願いを言い表している。「解放」という語のパウロの使い方は独特のものではない。他のギリシャ語著述家も死の婉曲表現としてその語を使った。
私が再びそちらに行く時: または,「私が再び皆さんと共にいる時」。ここで使われているギリシャ語のフレーズには,名詞パルーシアが含まれていて,その語は字義的には「傍らにいること」という意味。特に,目に見えないイエス・キリストの臨在に関して,「臨在」と訳されることが多い。(マタ 24:37。コ一 15:23)ここでパウロは,フィリピのクリスチャンを再び訪問したいと述べる際に,この語を使っている。パウロがフィリ 2:12(注釈を参照)で「いる時」と「いない[時]」を対比してこの語を使っていることは,パルーシアを「臨在」や「いる」と訳す根拠になる。マタ 24:3,コ一 16:17の注釈を参照。
振る舞う: または,「市民として行動する」。パウロがここで使っているギリシャ語動詞は,「市民権」(フィリ 3:20と注釈)や「市民」(使徒 21:39)に当たるギリシャ語と関連がある。ローマの市民権は大変高く評価され,責任と特権が伴っていたので,ローマ市民は一般に国事に積極的に関与した。(使徒 22:25-30)それで,パウロはこの動詞の語形をキリストについての良い知らせにふさわしく振る舞うことについて使うことで,クリスチャンの活動,特に良い知らせを広めることに参加するという考えを伝えている。フィリピの住民はローマから一種の市民権を与えられていたので,積極的な参加につながるこうした要素をよく知っていただろう。使徒 23:1,フィリ 3:20の注釈を参照。
一致して: または,「思いを一つにして」,「1人の人として」。使徒 4:32の注釈を参照。