「ほんとうに,なんという変化だろう」
アイスランドの「目ざめよ!」通信員
世の中にはずいぶん多くの変化が起きています。アイスランドでも,他の国と同様,人々の間でそうした変化が話題になっています。年配の人たちが若い世代と意見を交換し合うとすれば,次のような会話になるのではないでしょうか。
「わたしが生まれた時から,物事がどれほど大きく変わったか,若いおまえたちには想像できないよ。小説家のジュール・バーンでさえ,われわれの時代に近い人間だったのに,これほど多くの変化を想像することはできなかった。あの半島の先端の,ベスビュス火山のようなかっこうの火山が見えるかな。ジュール・バーンは,『地球の中心への旅』という小説を,あそこから始めているだ。彼は,主人公にあの噴火口を下降し,地球を突き抜けて,イタリアのストロンボリへ出る旅をさせている。ジュール・バーンがそんな空想小説を書いたのは一世紀ばかりの前のことだが,それ以来世の中はずいぶん変わった」。
「ねえ,もっと話してください。おじいさんの昔ばなしを聞くのは,いつも,とってもおもしろいんです」。
「若い者たちの中には,世の中の事情が今とはたいへん違っていたということを信じない者もいるだろうが,この五,六十年のあいだに,これまでにない変化が起きたんだよ。
住居
「たとえば住居のことを考えてみよう。むこうに近代的なアパートが見えるだろう。あの建物は鉄筋コンクリートでできていて,戸や窓にはスチールやアルミのサッシが付いている。家には,ふかぶかとしたじゅうたんや電気ストーブ,冷蔵庫やその他いろいろ近代的な道具がある。それに,ほら,煙突がないだろう。温泉から引いた湯で暖房しているんだ。わたしが育った家とはずいぶんの違いだ」。
「おじいさんは昔風の農場に住んでいたんでしょう」。
「そうなんだ。そういう農場を見たければ,むこうの丘の上にある,小さな屋外博物館に行くといい。わたしの家はそこにあるようなトーフベエール,つまり壁も屋根も芝生でできた家だった。内部は厚い板で内張りがしてあった。破風は木造で戸がついていた。また窓があったが,家の窓といえばそれだけだった。床は地面そのものだった。
「ほとんど,どの農家も,また町の家でさえそんな造りになっていて,電気とか水道などの設備はなかった。また,台所の大きないろり以外に暖房装置はなかった。もっとも牛小屋からいくらか熱が伝わってきたがね。牛小屋は家のわきに建てられてつながっていたから,冬のあいだ,牛にえさをやったりミルクをしぼったりするときに外へ出なくてもすんだ。実にいごこちの良い家だった」。
「でも,どうしてそんなふうに家を建てたんだろう。全部木造にはできなかったの」。
「材木はそれこそ少なくて,小さな板切れ一枚でも輸入しなければならなかったんだ。海のそばに住む人たちは,よく流木を使ったが,手にはいる材木といえばただそれだけで,しかも,最も必要な時のために取っておかねばならなかった」。
「わあ,なんて家だろう。もっといい家がほしいとは思わなかったんですか」。
「思わなかったね。わたしたちはそれより良いものを知らなかった。それに,不平を言ったり反抗してみたところでどうにもなりはしなかった。あのころの人々は,若い者も比較的謙遜で,暮らしにもっと満足していた。人々があちこちで,抗議のために大騒ぎするということはなかったし,その頃の若者には,そうしたばかばかしい事にかかわっている暇がなかったんだよ。仕事といえば,むこうの干し草畑で働いている人たちが見えるだろう」。
「ええ,見えますよ。精を出して仕事をしていますね」。
仕事
「今の標準からすれば,そう言えるね。あの人たちはああしたトラクターや近代設備を使っているから,夕方までにはすましてしまうだろうが,わたしの時代には,草刈りがまで何でも刈った。刈った草をひっくり返したり,かき集めたりするのをぜんぶ手でしたんだよ。気候がしめっぽいから,現在機械を使って一日で仕上る仕事を,何週間もかかることがしばしばあったね。これは大きな変化だ ― ほとんどあらゆるものが機械化されている」。
「でも,いいことじゃないですか ― 機械に仕事をやらせるのは」。
「もちろん,それは何も悪いことではない。しかし,仕事もまた人間にとって害にはならない。わたしたちはずいぶん小さい頃から,いろいろな仕事をおそわった。わたしの父の農場で,なんでもすることを習わなきゃならなかった。また農場だけではわたしたちの多くの子どもを養えなかったので,魚もよくつった。農夫たちは共同で舟を持っていたから,沖で漁がでてきたんだ。また町に行ったり,物を家に運ぶのにもその舟を使った。
「当時,帆を張るほど大きな舟はほんとうに少なかったから,強い風が吹くと危険な事になった。そういう甲板のない小舟が転覆したり難破すると,かせぎ手を全部失うという,悲劇がよく起きた。小さな村では,そのようにして,強壮な男たちをすっかり失ってしまうということがあったんだよ。1そうの魚船がゆくえ不明になったのを覚えているが,あれは1911年のことだっただろうが,27人がおぼれ死んだ。その人たちの家族は妻子と老人を合わせて85人ぐらいだった。それがどれほど大きな災難だったか,おまえもわかるだろう」。
「よくわかります。ぼくは船乗りになりたいとは思わないけれど,でも,もしなるとしたら,あの港に何せきかいる,近代的な,ディーゼルのトロール船がいいな。あのトロール船はレーダーや水中電波探知機などをみな持っているから,沈むことなんかないでしょう」。
「不沈ということばは,たとえ今の時代でも,ちょっと強すぎるね。アンドレ・ドリア号を覚えているかい。巨大な,そして近代的な遠洋定期船だったが,衝突して沈没してしまった。しかし,鋼鉄製の何千トンもある船がほとんどどんな暴風雨も切り抜けられるのは確かだ。それは,わたしの若い頃に知られていたどんなものよりも,ずっと性能の良い,いわばつり機械だ。しかし,わたしも陸上,たとえば農場にいるほうがすきだ。農場は住みごこちの良い所で,ほとんど自給自足のできる単位,つまり,それだけで小さな世界だったんだよ。食べ物がないからといって,自動車で近くのスーパーマーケットまで出かけることはなかった。他の物も,わたしたちはたいてい自分たちで作ったんだ。作る楽しみがあったね」。
衣食
「でも,どうしてそんなことができたんですか。ぼくが知っているのでは,アイスランドの農業はあまり生産的ではありませんでしたよ。おじいさんが作ったのはほとんど牧草じゃなかったんですか」。
「まあ,大部分そうだがね。それだけじゃなかったよ。しかし,その草で家畜が飼えたから,必要品の大半はまかなえたんだ」。
「ぼくにはよくわからないな。動物から肉やいくらかのミルクが得られても,それだけでは足りなかったでしょう」。
「全部まにあったというわけじゃないよ。しかし,肉にもいろいろあって,羊や牛,ウマの肉さえあったし,牛からはミルクがとれたから,基本的な必要品は,ほんとうに十分だった。クリームやカード,それに塩が少ない時肉の保存に使う,すっぱい乳漿も手に入った。野菜もいくらか栽培したんだよ。イモとかカブラ,キャベツなどをね。だが,穀物は作らなかった。そういう作物は,もちろん,ここのように夏の短い土地では作れなかった。穀類は今でも『植民地物資』として知られている砂糖やコーヒー,クギや材木などといっしょに,町で,南豆袋入りのものを買った。
「それらの支払いは,ふつう,刈ったままのあるいはつむいだ余分の羊毛とか,さかなの干物,魚油,綿毛などで済ませた。物々交換をしたり,良い値で売ろうとしたものだ。家には羊から刈った毛が十分にあったから,つむいで編み,衣類はたいてい家で作った。クツ下やセーター,ウールの下着まで作ったが,それらは,この土地の気候に今でもうってつけだ」。
「じゃ,おじいさんは,農場にばかりいて,そうした物をみな自分で作ったというわけですか」。
「まあそういうことだね。自分たちが食べる食糧はあったし,時には,なま魚や鳥の卵,そのほかに,ある種の地衣類つまりアイスランドごけや野イチゴも手にはいって,料理に変化を添えた。食物,衣類,それに雨露をしのぐ屋根があれば,ほかになにがいるだろう。それで十分じゃないか」。
レクリエーションと輸送
「ではレクリエーションにはどんなことをしましたか」。
「そうだね,わたくしたちにはあまり暇はなかった。夜も働いたからね。たいてい,男も女も,糸をつむいだり,編んだりといった,羊毛の加工をした。一日中外で働いたあと,家族がみんな同じところにすわって一緒にすごすのは楽しかったね。わたしたちはまた,かわるがわる昔の武勇談や詩,聖書の朗読をしたものだ。そうしたことはみな,自家製のローソクやアザラシとかクジラの油をともしたランプの火のもとで行なわれたのだよ。時には客がきていろんな話をしたり,遠い昔のでき事をうたった叙事詩を暗誦したりして楽しませてくれたこともある」。
「それは楽しかったことでしょうね。でも,おじいさんたちはいろいろな所へ行くことはなかったんですか」。
「行ったよ,時にはね。毎日曜日,馬に乗って教会に行くのが習慣だったから,途中,他の農家をちょくちょく訪問した。中には社交をゆっくり楽しむために,土曜日に出かける人さえいた。
「おまえたちは,当時のような生活をあまりいいとは思わないだろうが,退屈でわびしい生活だったと考えてはいけないよ。実に充実した生活だった。わたしはいつだって,今のようにせわしくて,むだの多い世の中より,昔の生活のほうが好きだね。もっと時間があったから,創造者の御手のわざについて思いをめぐらすことができた。自動車や飛行機でかけずりまわることはなく,馬に乗ったり,多くの,馬の買えない人たちは歩いた。しかも,溶岩の塊りのあいだの,羊や馬の踏みならした数キロの道を歩くことがしばしばあった。若いおまえたちには理解できないかもしれないが,わたしたちはそうすることをとても楽しんだよ」。
「すごい変わりようですね! ほんとうにそういう生活をして自分の目で見なければ,理解できないような気がしますね ― そしておじいさんの見た変化もね」。
一番大きく変わったのは人間
「だがね考えてみると,一番大きな変化は,科学や近代技術の成し遂げたものではなく,人々の思いや心臓に影響を与える変化だ」。
「それはどういう意味ですか」。
「人間がずいぶん変わった,つまり,さくがなくなったとでもいおうか。近ごろの人々には邪魔になるようなものは何もないように思われる。人々を抑制するものが何もないのだ。一般に権威や他の人の権利とか所有物に対する尊敬の念が見られない。人はもうだれも信用することができず,不安につきまとわれている。昔はそうじゃなかった。わたしの若い頃には,男というのは信頼できるもの,約束は約束だったが,もうそういうわけにはいかなくなった。不正や買収や,あらゆるたぐいの盗みがはびこっている。だが,こうした不法の新たな傾向に,クリスチャンは少しも驚かない。今日の人々の大部分がどんな精神的傾向を持つか,はるか昔に聖書の預言の中であらかじめ述べられていたからね。テモテ後書 3章1-5節の聖句を覚えているだろう」。
「ええ,ぼくは暗記しています。そこで使徒パウロは,人々が『自分を愛する者,金を愛する者,……[そして]神を愛するより快楽を愛する者』となるであろうと述べています」。
「まさにそのとおりだ。パウロはまた,『終わりの日』に『対処しにくい危機の時代が来る』とも述べている。それは,一般の人々の道徳が低下するためだ。なにも,1914年以前の人々が完全だったとは言わないが,それでも人々は使徒パウロが述べたほどに堕落していなかった。ずっと素朴で実直であり,甘やかされていなかった。今だったら,かなり多くの人は,そうした人々をうぶな人間だと考えるだろう。しかし,身心ともに緊張している今の時代より,はるかにゆっくりと幸福な生活だった。人々の態度の変化は,物質面の変化をすべて合わせたものにおとらない。おまえたちにもその違いがわかるだろう」。
「はい。そして,おじいさんの今のお話や以前おじいさんがわたしに話してくださったことを考えると,神の新しい事物の体制について,聖書が述べている事柄をもっとよくわかるようになるのが楽しみです」。
「若い者がそう考えるのは正しいことだ。おとなもそう考えるべきだよ。なぜかというと,エホバとその目的に関する知識は,非常に重要だからね。ヨハネ伝 17章3節(新)の内容を思い出せるだろう」。
「ええ,思い出せます。そこでイエスはこうおっしゃっています。『唯一のまことの神であられるあなたと,あなたのつかわされたイエス・キリストとの知識を取り入れること,これは永遠の命を意味します』」。
「そのとおり。だから,1914年以来の世の中の変化について,おまえたちが持っている知識は,今が実際,預言された『終わりの日』であることを知るのに役だつのだよ」。