アメリカ北西部の巨木
太平洋に面するアメリカ北西部に夜明けが訪れ,森林の中に朝日が差し込むころ,そびえたつ木々の間で伐採者たちが働いている。その光景は巨人の国の小人といったところだ。カスケード山脈の重々しい岩山や巨木の上に立ちこめた霧が,陽光を受けてしだいに消えてゆく。アラスカ東南からカリフォルニア北部にまたがるここ森林地帯では,幾千人もの人々が伐採の仕事に従事している。
オートバイのモーターに似た電動機の音が深い森のしじまを破る。電動式くさりのこぎりが巨木の幹にくい込み,樹齢1,000年は経たかと思われる大木が地面にものすごい音をたてて横倒しになる。それら大木と比べると,それを切って丸太にする作業をしている人々はアリのように見える。直径2.5メートルから3.5メートル以上もする丸太があり,それらはワイヤロープでしばって,運搬所に引っぱってゆく。そこは「ガリバー旅行記」を思わせる光景である。
樹木は最大の植物であり,たいていの植物と違って,生きているかぎり決して生長をやめない。アメリカだけでも千種類以上の樹木がある。木材伐出し人夫は樹木を硬材と軟材とに分類するのが普通である。
硬材と軟材
軟材に属するのは一般に針葉樹,つまり常緑樹で,松の葉に似た針状の葉をつける。その木材は乾燥すると軽量で,容易に切れる。モミ,マツ,スギなどは針葉樹,つまり軟材の例である。
硬材樹木は幅の広い葉を持つことが多く,材質がしっかりしており,一般にがんじょうで重たいのでそれとわかる。このグループに属する樹木の多くは落葉樹である。つまり,秋になると葉を落とし,春に新芽を吹く。カエデ,クルミ,カバ,リンゴ,モモの木など,その種類は多い。
小さな種からの巨大な生長
樹木を生長させ,木材にそれ独自の特質を与えるものはなにか。樹皮のすぐ下には形成層と呼ばれるものがあり,皮膚のようにぴったりと木についている。それは新しい生きた細胞でできており,木が生長するのはこの部分においてである。毎年,新しい年輪が幹に加えられるからだ。
それは辺材の一部となり,樹液を根から葉に送る。辺材は時たつうちに心材となり,樹木に強さを添える。
心材の中では細胞の化学的構成が変化し,大部分セルローズとなる。樹木はおもにセルローズとリグニン(木質素)という,いわば天然のプラスチックでできている。セルローズでできた細胞はリグニンによって非常な強さで結び合わされているので,60メートルあるいは90メートルもの高さに達するアメリカマツやレッドウッドは強烈な暴風にも耐えられる。
しかも,こうした巨木の始まりはというと,小さな種粒なのである。巨木セコイアの種は約6ミリの大きさしかないが,その中に新しい木に必要な肝要な要素が含まれている。たとえば,いつの日にか木の幹となる白い糸のようなものがある。種には2枚の小さな葉がついているほか,一方の端に根の先が,他方には芽がある。驚くことに,「ワールド・ブック百科事典」はこう報じている。「根の方を上に向けて種をさかさまにして植えても,数時間後には重力に引っ張られたかのように種は逆回転している。同時に,芽と葉のついた方の端は太陽の光に引っ張られでもしたように上を向く」。
また,種にはなんと多くの種類があるのだろう。針葉樹は毬果を結ぶ。その大きさというと,小石くらいの大きさのアメリカツガのものから,およそ30センチもあるマツ科のある樹木の毬果までいろいろある。種が熟すと,毬果が割れて中味が飛び出し,風によって散らされる。
なかには羽のついた種もあり,地面に落ちるまでに長い距離を飛ぶ。どんぐりのようにはずんだりころがったりするのもあれば,綿毛をつけていて風に運ばれるものもある。そして言うまでもなく,多くの樹木の種はその果実の中におさまっている。
アメリカマツ
アメリカマツは高さ60メートル以上にも達する。山の斜面にのこぎりの歯のような模様ができるのはこのためである。アメリカマツはその価値の面から巨木の中の王といえよう。というのは,この軟材樹木は北アメリカの他のどんな樹木よりも良質の木材となるからである。木繊維が特殊に織り混じってできているため,重量の割には異常なほど強い木材となっている。この木材には一度くぎを打つとなかなか抜けないというすぐれた特質がある。塗料をぬりやすく,加工も簡単で,湿ったところでもかわいたところでも腐りにくい。
帆船の船長はアメリカマツをその高さと強さのゆえにマストとして重宝したものである。アメリカマツは今日,住居の建築用材として需要が高く,製材と合板の両方に使用される。あまり大きくないアメリカマツの丸太や木片は製紙用パルプ,工業用アルコール,工業用化学薬品,人工バニラや燃料にされる。
アメリカスギとモミ
アメリカスギつまりカヌースギはアメリカ北西部のもう一つの巨木で,高さは45メートルから60メートルに達し,根株はさしわたし4.5メートルの太さになる。木目がまっすぐで割れやすく,簡単な道具を使って削ったりできる。インディアンは巨大なアメリカスギを使ってトーテム柱を作り,それに歴史を彫った。さらにこの木の丸太の中をくり抜いてカヌーを作ることができた。のみや石のおの,ビーバーの歯や二枚貝のからを使って細部に芸術的な装飾を施し,砂とサメの皮で木材の表面をなめらかにしたのである。
今日アメリカスギは戸だなや物を貯蔵する場所の建材として特に好評を得ている。強力なにおいを放つので虫がよりつかないからである。建築家はまた,アメリカスギを天然に仕上がった壁板として現代家屋に使えないか試験中である。
モミはパルプ製造者にとってたいへんありがたい木となっている。一つの製造会社が1,000ヘクタールから3,000ヘクタールのモミの森林を所有している場合もある。モミの木から作る紙を使っている本や新聞,その他日常一般の用途のための安価な紙が利用できないなら,全世界の通信事は苦慮に立たされることだろう。新聞を1回発行するのに240アール分のモミの木が使用されることがある。パルプはさらに衣料にも用いられ,レーヨンの原料となる。
高さが30メートルから60メートルあるシトカモミは,アメリカ西部地方で最もみごとな針葉樹の一つである。90メートル以上にも達するシトカさえある。その木材の内部繊維は重量の割には非常に強力にできているため,第一次世界大戦中には飛行機の材料として用いられた。今日ではギターやピアノといった,音をみごとに再生する優秀な楽器の製作に用いられている。
レッドウッドとセコイアの巨木
オレゴン州の南部を海岸沿いに南下すると,レッドウッドが目につく。高さの点からは巨木中の王といわれるレッドウッドは現存する樹木の中で最も高く,30階建てのビルと同じくらいになる。事実,アメリカで知られている最も高い木は,高さ約112メートルのレッドウッドである。直径3メートル以上の幹を持つレッドウッドは珍しくない。その木材は明るい赤味を帯びている。柔らかくてもろいが,腐朽と害虫には異常なほどの抵抗力を持っている。そのため,建築物内部の仕上げ材料として,そのほか耐久性が重要な問題となる箇所でしばしば用いられる。
レッドウッドは海水面から海抜約760メートルの間に生育する。一方,巨大なセコイアは大木の林立する分布区域の中でもかなり隔たった場所で見いだされる。寒さや干ばつにも耐え,高地でも育つからである。セコイアの巨木はレッドウッドほど高くはならないが,その幹の太さはレッドウッドより大きくなる。それほどの高さと太さとを兼ね備えた木がほかにないことから,多くの人はセコイアの巨木を世界で最も威厳のある木とみなす。樹齢3,000年を数えるのもあると信じられており,老齢で枯死したセコイアの例は全然知られていない。
カリフォルニア州のシェラネバダ山脈のセコイアの木ゼネラル・シャーマンは,セコイアの巨大さを示す代表例といえよう。高さ83メートル,根元の円周は31メートルである。地上に高々と生育するこの巨木の直径は,5.7メートルもある。木全体の重さは6,000トンを越えるものと推測されている。それでいて,この途方もない大木は非常にちっぽけな1粒の種から始まったのである。しかも,その種は5万粒でやっと1ポンド(約454グラム)の重さしかない。
これらの木は木目がまっすぐで砕けやすい。伐採者がしばしば経験することだが,切り倒すさいに木全体がばらばらに砕けてしまい,木材として使いものにならなくなる場合がある。そうなると,生育に1,000年以上要したかと思われる木が完全な損失となる。
人間に対する多くの利点
衣食住それに燃料など,そのすべてを樹木は提供してくれる。樹木が空気をきれいにし,葉の小さなあなから炭酸ガスを吸収してくれることにわたしたちは感謝できる。樹木は太陽の光,水,鉱物の助けを借りて,どんな過程でかは十分に知られていないが,葉の中で食物を合成する。その方法は光合成と呼ばれており,それによって樹木の細胞は養われている。
大気の汚染で樹木が突然絶滅するようなことにでもなれば,人間をはじめ他の生物は呼吸できる空気の欠乏のため,ついには窒息死するであろう。
ゆえに,アメリカ西海岸の伐採者にかぎらず,ほとんどの人の生活の中で,樹木は重要な役割を演じているのである。木材から作られる机,飾りだな,いす,テーブルその他たくさんの美しい家具に対して,わたしたちすべては感謝する理由を持っている。紙があることも喜ばしい。それゆえに,啓発や希望,また慰めのことばを載せた印刷物を読めるからだ。空気をきれいにしたり,木蔭を設けたり,景色に美を添えたりするなど,樹木がしてくれるほかの事柄にも感謝すべきではないだろうか。わたしたちの愛ある創造者が,アメリカ北西部の驚くべき巨木をも含めて,すばらしい変化に富む最大の植物をもってこの地球を美しく飾られたことに,わたしたちはどんなにか感謝できることだろう。