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目ざめよ! 1972
目72 2/22 25–28ページ

多くの人がもはや僧職を望まないのはなぜか

世界中のどの国でも事情は大同小異です。ローマ・カトリック教会では多数の司祭が僧職を放棄しており,神学校の入学者数は減少の一途をたどっています。過去7年間に約2万5,000人の司祭が僧職を去りました。この傾向がとどまる見込みはありません。自由聖職のための司祭協会のユージン・C・ビアンチ会長はこう述べました。「社会学者は,聖職者の補充人員の増加も,また聖職者の減少傾向のとどまることも見通せない」。それにしても,なぜこうした事態が進展したのでしょうか。

ローマ・カトリック教会当局が司祭に対する強制的な童貞制を断固として固守していることがその一因であるとする人が大ぜいいます。司祭,それもとくに若い司祭たちで,強制的な童貞制の廃止を望む人々はふえています。1971年3月14日から18日まで,アメリカ,メリーランド州ボルチモア市で開かれた司祭会議全米連盟の大会で代表者たちは多数決で次の宣言を採択しました。「われわれは現役の司祭が童貞と結婚のいずれをも選択できるようにし,しかもそうした変更を直ちに実施するよう要請する」。

この大会に集まった司祭のおよそ90%はこうして,1967年に教皇パウロ6世が出した回勅,サセルドタリス・セリバタス(司祭の童貞制)に反対する立場をみずから記録に残したのです。そうすることにより,それらの司祭はカトリック教会内でより高い地位に昇格する機会をおそらく無にしたと考えられます。それだけに,彼らの取った態度は強烈な感情を反映するとともに,おおかたの司祭の気持ちをよく表明するものと言えます。平均年齢39歳のそれら司祭はアメリカの司祭たちの60%以上を代表しているとされています。

確かに盛んに論議されている問題ではあるにしても,司祭の童貞制に対する教会当局の立場は,司祭たちがなぜ僧職を去ってゆくのか,また司祭になる人がなぜ少ないかという問題すべての解答を与えるものではありません。司祭の強制的な童貞制は何世紀ものあいだ実施されてきました。が,これほど多くの司祭たちがその反対を叫んだことはかつて一度もありませんでした。わずか2年前まで任意の童貞制という考えに反対していた司祭でさえ,そうした考えを変えてしまいました。それら司祭たちが聖書の中で命じられているなんらかの事柄に反対しているのではないということは注目に価します。事実,カトリック百科事典(1908年版第3巻,481ページ)はそのことを認めて,こう述べています。

「われわれは童貞制が使徒たちに対しても,あるいは使徒が任命した者たちに対しても強制的に課されているということを示すなんらの証拠をも新約聖書中に見いださない」。

『司教』あるいは『助祭』は「ひとりの妻の夫」であるべきことをテモテ前書 3章2,12節(欽)およびテトス書 1章6節(欽)の使徒パウロの指示に言及した同事典(第3巻,483ページ)はこう述べています。

「これらの句は,童貞制が最初から聖職者に強制的に課せられたとするいかなる主張をも決定的に非とするように思える。一方,他の男子にも自分と同じようになってほしいとする使徒の願い(コリント前 7:7,8……)は,福音の聖職者すべてが結婚するよう彼が望んだという推論を非とするものである。離婚がひん繁に行なわれていた当時にあって,適格な候補者とは,おそらく当人の権威を尊ばれるものとする,聖パウロの述べた他の特質の中でも,一人の妻に忠実を保つことによって示される安定した性格の持ち主であることを確かにこの句のことばは示している……

「こうした初期の時代においてさえ,教会が聖域者すべてに童貞制を強制したことを証明しようとする試みが一部の著述家によって,大いになされた。故ビッケル教授はそのうちでも最も署名な人物であった。しかし,ファンクおよびクラウスなどの学者によって代表されるその反対意見は,よりすぐれた証拠に基づいているようであり,また近年,一般に広く受け入れられている」。

制度に対する不満

このようなわけで,強制的な童貞制に対する反対を表明している多数の司祭は実際には,伝統に基づく現行の制度に対する不満を表明しているのです。それで,将来の職業としての僧職を顧みようとしない人々も,また僧職を去る人々も,現行の制度が自分たちにとって最善のものであるという確信を持ってはいないようです。もし彼らが他の人々に奉仕したいという純粋な欲求を持ち,かつ現行の規準にのっとって司祭となることが,そうした欲求を満足させる最善の方法であると確信しているならば,疑いもなく彼らは司祭になるか,あるいは司祭としてとどまるはずです。最近の調査が明らかにしたところによれば,カトリックの聖職者の問題の多くは,現行の取り決めに対する不満 ― 高位僧職者との意見の相違,不十分な指導,同僚の司祭たちからの支持の欠如,またある種の道徳問題に関する教会当局の立場に対する不満 ― をその核心とするものであることは注目に値します。

信仰および信条も確かにこの問題に関係しています。カトリック系のコモンウィール誌はこの面を大きく取り上げました。同誌1970年2月13日号は次のように評しています。

「聖職にかかわるこの問題は実際には,信仰と信条,および制度に対する信頼,また聖職はもはや他の多くの職業よりもはるかに有意義な職ではないとの一般的な確信面でのいっそう重大な危機のほんの一面を示すものにすぎない……

「童貞制に関する規定が変われば,結婚するために僧職を去った多くの司祭を『正統派的信仰』に引き戻せるであろうが,彼らの全部はおろか,その大半をさえ引き戻せないであろう。

「また,そうした変革が,現在,人生に関する決定をみずから下している世代の人々に目立った影響を及ぼすということは,きわめて疑わしい。聖職が彼らにブリガム・ヤング[一夫多妻]の特典を提供するものであったとしても,信仰と信条の問題が依然として残るであろう。

「このことはローマ教皇庁の立場をむずかしいものにするのは必至である。教会当局はその気になれば童貞制の規定をあすにでも変更できるのだが,そうしたところで,根本的な問題は依然未解決のまま残るであろう。教会の全般的な不快な病状に関して万能薬どころかなんの治療法もないのである。

「ある意味では,このことを考えれば,ローマの教会当局がなぜ旧来の伝統に固執せねばならないかがいっそう容易に理解できる。童貞制に関する規定は変革を叫び求めているが,たとえ現時点で変革を行なったところで,ローマ教皇庁は教会制度上の利己主義に根ざす圧力に応じているのだという冷笑的な非難以外に何が得られるであろうか」。

それにしても,幾世紀も存在してきたローマ・カトリック教会が,人を司祭にさせるに,あるいは司祭としてとどまらせるために必要な信仰と信条を教え込むことが今やできないのはなぜですか。カトリック教会自体が信仰および信条の土台そのものを危くしたためでしょうか。このことは,多数の司祭がある道徳上の問題に関する教会の立場に失望している理由の一つではありませんか。

聖書の教えに従っていない

使徒パウロはテモテにこう書き送りました。「聖書はみな神の感動によるものにして教誨と譴責と矯正と義を薫陶するとに益ありこれ神の人の全くなりて,諸般の善き業に備を全うせん為なり」。(テモテ後 3:16,17)使徒パウロのこのことばは,聖書が正しい教えと行為の規準であるべきことを示しているのではありませんか。したがって,自分の属する教会の教えが聖書と一致していないことに気づく人々の信仰はかなり動揺するのではありませんか。このことからもう一つの質問が生じます。カトリック教会は聖書にしるされている真理を教え,かつ聖書が霊感のもとに書かれたということを支持していますか。

幾世紀にもわたってカトリック教徒および他の宗教団体の信者は,魂は不滅であり,肉体が死んだ後にも生き残る,人間の霊的な部分であると教えられてきました。しかしそれは聖書が教えることですか。新アメリカ聖書(ワシントンのカトリック大司教,神学博士,パトリック・オボイル枢機卿の出版認可を受けた)は,その中の「聖書神学用語解説」の「魂」の項目でこう述べています。

「新約聖書の中で,『人の魂を救う』(マルコ 8:35)とは,人の(プラトン哲学の意味における)『肉体』とは対照をなす,人間のある『霊的な』部分を救うという意味ではない。それは,具象的かつ身体的(肉体と対比せよ)存在であることに加えて,生きて欲望を持ち,愛と欲求をいだく人間であるという事実を強調したうえでの人そのものを救うという意味である。魂と肉体の間には対立状態もなければ相違もない。この両者は,一個の具体的な実体を単に異なった仕方で描写しているに過ぎない」。

また「肉体」という見出しのもとにはこう書かれています。

「聖書の中では,魂とは対照的なものではなくて,総体的なかつ具体的な十全の人間,つまり人そのものなのである。ギリシア語本来の意味において魂と肉体を区別することは聖書とは相容れない」。

カトリック教会が幾世紀にもわたって,魂と肉体とは同じものではないと教えておきながら,これは聖書の教えではないと言うのはおかしなことではありませんか。教会が教えてきたことと,神のみことばに実際に述べられていることの間の矛盾は,多くの人の信仰をそこなう原因の一つになってきたのではないでしょうか。人間は不滅の魂を持っていると信じてきた人が,それは聖書の教えではないということを認めるカトリックの公式の出版物を読むなら,いったいどう感じるでしょうか。聖書と一致しない他の多くの事柄を教えられてきたのではないだろうかと疑うようになるのではありませんか。

明らかに聖書に反する教理が教えられてきただけでなく,聖書が霊感のもとにしるされたということさえ疑問視されてきたのは注目すべきことです。神学者ハンス・クングの述べた点を論じた聖オーガスチヌス修道会のグレゴリー・バウムは最近次のように書きました。

「昔われわれは聖句を誤りのないものとみなしてきた。それが神のみことばであるという理由で,教会は聖書のページに見られるいかなる誤りも容易に認めようとはしなかった。しかしながら,もっと批判的かつ歴史的に調べて見ると,聖書には多くの誤りのあることが明らかになった。神学者はこの問題をどのように扱ったであろうか。彼らは聖書の中で,神の霊感によってしるされたゆえに誤りのない部分と,霊感を受けずにしるされたゆえに誤りとされうる部分とを区別しなかった。むしろ,われわれが聖書中に間違いを見つけようと,後世の人々が誤りを見つけようが,聖書全体は霊感のもとにしるされたものであること,聖書全巻は神のことばを人間に伝達するものであることを提唱したのである。この見解は最初,カトリック教徒の間に驚がくと怒りを引き起こし,教会当局からは消極的な反応をさえ招いたが,ついには教会に認められ,教会の公式の見解となった」。

カトリック教会が,みずから聖書に反するものとして公に認める事柄を教え,今や,聖書は誤りに満ちているという考えをさえ受け入れる点で行なってきたことからすれば,カトリック教会が危機に見舞われているのは驚くべきことでしょうか。もしカトリック教会が聖書の教えに従い,すべての面で聖書の規準に一貫してつき従っていたなら,こんなことにはならなかったのではないでしょうか。もし教会がそうしていたのであれば,司祭に対する強制的な童貞制など問題にさえならなかったでしょう。なぜなら,聖書はそのような考えを支持してはいないからです。

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