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  • ボロブドール ― 哲学を反映する石の建造物
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目ざめよ! 1972
目72 5/22 17–20ページ

ボロブドール ― 哲学を反映する石の建造物

インドネシアの「目ざめよ!」通信員

ボロブドールは,中部ジャワの,段々の緑のたんぼが絵のように美しい風景のなかにある。西暦800年ごろに建てられた建造物で,その名は「丘の上の僧院」という意味だと考えられている。しかしこれは僧院というよりもむしろ,丘の頂上をおおう,高さ42㍍の四角い石の山である。そして不思議なことにこの巨大な石の山は,仏陀の哲学を反映している。

仏教の教えは神を実在者とは考えない。したがって人間が重要なものになってくる。だから中国人の仏教徒の多くは仏教徒であると同時に,道教や儒教の信奉者でもあるのだ。仏教の宗教的に不足したところを充足するためである。仏教は信仰というよりもむしろ哲学であるから,ボロブドールも礼拝所というよりは黙想の場所に近い。

今日のボロブドールは,人気のある観光地であることに次いで,インドネシアの仏教徒の聖地である。彼らの多くは,5月の満月の夜,仏教徒の最もたいせつな祭りである仏陀の成道会を祝うために,毎年霊場もうでをする。

魔術のことを真剣に考えている

その夜,仏陀の追随者たちは,ボロブドールの周囲の野原に集まる。その場所は魔力の強力な貯蔵所となる,と信じられており,「黒魔術」と戦うための「白魔術」を習得できると言われている。仏陀の霊が南の山の頂上に,目に見える姿で現われると考えられていて,祭りが終わると人々は,祭りにこられなかった者たちのために,また病人をいやすために,ボロブドールから「魔法の水」を持ち帰る。

ワイワアク,つまり仏陀の成道を祝う祭りを自分の目で見た人なら,心霊術や秘術が仏教徒にとっていかに重要な位置を占めているかがよくわかる。そして当然のこととして,なぜ仏教徒は,神を信じないのに,一方では目に見えないものから魔力がくると真剣に考えているのだろうか,と思うかもしれない。

仏教徒の進化を描写

ボロブドールという石の建造物の形自体,仏教の哲学に似ていると言える。どうしてそう言えるか。10段に積み重ねられた層の頂上に小室があるのは,人間は徐々に転生して仏陀の運命の窮極 ― 涅槃に到達するという仏教の考え方を描写するものだからである。涅槃は中央の最上段のへやによって表わされている。はっきり入口とわかるものはない。しかし四方に,段ピラミッドの最上層のへやに通ずる階段と門口がある。

進化論は仏教の哲学の一部である。すべての生命は岩に起源を発すると考えられている。岩が砂になり,砂が植物になり,植物がこん虫に変わり,こん虫が野生動物に,野生動物が家畜に,そして家畜が人間になったと,仏教徒は考えているのである。

ダーウィン説の場合のように,鎖の輪など必要でない。仏教流の進化は輪廻によって成し遂げられる,とされているからである。だから仏教徒は,喬荅摩仏陀自身人間になる以前から,あるときには兎として,別のときはカメとして,またサルとして生ていたと信じている。次いで,仏教の哲学によると,仏陀は人間となり,のちに霊となり,最後に涅槃に達したのである。

さて,こうした仏教の考え方による生命の異なる段階がすべて,ボロブドールの石造建造物全体に見られる浮彫りや像によって表わされているのである。たとえば,人間になる前の仏陀のいわる前身は,兎として,あるいは難船した水夫たちを背中に乗せて浜に無事に連れ帰って彼らの命を救った良いカメとして表わされている。こうしてその彫刻は,人間の進化にかんする仏教の哲学を絵画的に描いている。

人間の苦悩を除こうとする努力

ボロブドールの最初の5層の,よく保存された何百という浮彫りには,人生は苦悩で満ちているという仏教の考え方が表わされている。

覚者という意味で仏陀と呼ばれた喬荅摩悉達多は,西暦前563年から483年まで生存したと言われている。病気と老齢と死とを突如意識した彼は,人間の苦悩を除く知恵を求めて家庭を去った。それはたいへん昔のことであった。そして彼の教えは遠くアジアに広がった。しかしちょっと考えてみると,彼はいったい何を成し遂げたのだろうか。

良い意図をもっていた喬荅摩は,最後に人間の問題の解決に成功しただろうか。病気と病気の原因,老齢と死とその原因を取り除いただろうか。それとも,喬荅摩が正覚を得てから2,500年後の今日でも,人々は病気や老齢や死の苦しみのもとにあるだろうか。「もちろん私も時々病気になり,人々が年を取って死んでいくのも目にする」とあなたは言うかもしれない。では仏陀は実際に人間を苦悩から解放したと言えるだろうか。

菩提樹の下で7年過ごしたのち,仏陀は,慈悲と修道生活こそ,涅槃に到達するかぎであるという結論に達した。そして,もし人が,見,聞き,かぎ,感じ,味わい,考えることから少しも影響を受けないなら,人は,老,病,死を離脱し,それらを超越し,意識しなくなって,いわゆる涅槃に到達すると説いた。涅槃とは,どこかに存在する場所ではなくて,ある状態,あらゆる苦悩の終わりと説明されている。

しかし人は当然くびをかしげるだろう。完全に世から離れて,何も聞かない,何も見ないなど,どうしてそんなことができるだろうかと。たとえば,非常に恐ろしい,ほんとうにいやなことが自分の友だちに行なわれるのを見れば,わたしたちはすぐに反応しないだろうか。ほとんどの人はそうだと思う。あるいは,ひどく熱いものに手を置いたことに突然気づいたなら,自動的に手をひっこめないだろうか。正常な人ならみんなそうする。

「輪廻」には記憶が伴わない

仏教の哲学で次にくるものは,次の4層の段に示されている。ボロブドールのこの部分は,下段のように四角形ではなく円形である。そしてその上には,石をくり抜いてつくった72のつり鐘形の小室がある。各小室には仏像が一体置かれている。これらの像は,何の装身具もつけていないから,人間の生活よりも水準の高い,霊の生活を意味すると仏教徒は考えている。仏陀の主要な姿勢はどの像においても同じであるが,手の位置の違いが,徳の高くなってゆくありさまを示すといわれる。

人間が,この短い生涯のあいだに,人世から完全に解脱して,何ごとも感ぜず,何ものも見ず,聞かず,かがず,また何も考えない境地に達するのは不可能に思えたので,喬荅摩は,人間が死後,より高い形態に進化するという,ヒンズー教の輪廻の信仰を維持した。

この考え方によると,人の死後,その真の霊的性格は,どこかほかの場所で生まれた赤ん坊に直ちに移され,また人間として進歩をつづけて無我の境地に達する機会を得る。もし前世を正しく送っていたなら,新しい人生はより良いものになる,と考えられている。つまりより裕福な親をもち,より美しく,またよりすぐれた性格の持ち主になるというわけである。一方,前世で悪いことをしていたなら,前よりも貧しい境遇に,前よりも醜い姿に生まれ,もし極悪人だったなら,家畜の子に転生することさえあると言われている。

しかし,前世で起きたことが思い出せないとすれば,輪廻に,経験に,なにの益があるだろうか,と人は思うかもしれない。もし前世の教訓を少しも覚えていないとすれば,どうして性格の改善,またはより高い望みをめざしての努力がありうるだろうか。

解脱,それとも生活を楽しむのが良いか

仏教徒の巡礼は,4層の段に安置されている72体の仏像を巡拝しながら,人間としての生活からの解放をさぐり求めるのである。各像は,その手のぐあいにより,いかにして解脱して無我の境にはいるかにかんするヒントを与えていると言われる。しかしたとえ解脱したところでいったいどうして幸福になり,また幸福を享受しそれを分かち合うことができるのだろうか,と人は考えるかもしれない。というのは,生活を楽しむには,ちょうどその正反対のこと ― 自ら参加し,感覚や頭脳を用いることが要求されるからだ。

仏陀は,ほんとうに生きることへの愛を教えただろうか。彼の哲学はむしろ生への恐怖を示唆していないだろうか。生からの逃避を試み,生から解脱することはたしかに,自分を,あるいは他人を幸福にしうる道ではない。喬荅摩の悟りの哲学はむしろ,生を排除し,その存在を終わらせようとしながら,そうすることの不確かな高潔さを自分や他人に確信させるよう努力する道ではないだろうか。

ヒンズー教はいつも,死後地獄で責め苦にあうという恐ろしい未来を人々に予期させた。仏教は無我に徹することによってこの恐怖を除こうとした。地獄を恐ろしい場所にするのは五感の働きであるから,五感を働かせなければ,地獄もその効果を発揮できなくなる。そして没我の境に徹すれば,善,悪,快,不など,すべてを滅することになる,と仏陀は考えた。

ボロブドールの10番目の最後の段は,つり鐘形の巨大な構造物でなっている。内部に一つのへやがあって二つに仕切られている。巡礼はこのへやまでくると完全に沈黙し,自分が,解脱の最高の形態である涅槃に象徴的に達したことを黙想する。彼は存在しなくなったのである。世界は依然として存在するが,彼自身は世界から離脱したのである。そしてどんな物質上の問題や霊的問題も,もはや当人には影響をおよぼさなくなる,と信じられている。当人にとって世は終わり,そのあとに来るものはもはや何もないとされている。

真に解放をもたらす道

約6,000年前に存在しはじめて以来,人間が病気,老齢,死などで苦しんできたのは事実である。したがって人間がこうした苦しみから解放される道をさがし求めるのもまた当然である。であれば人間の創造者に,苦しみがついにはどのようにして終わるのかを尋ねるのはどうか。

そうすれば,神がほかならぬこの地上で,すべての従順な人間のために,苦しみを終わらせてくださることがわかるだろう。それらの従順な人々にとって涅槃は必要でない。彼らは豊かな,幸福な生活を送るだろう。植物も,地も,動物もみなよいものである。良いものを愛し,生きることを喜ぶ人々のために聖書は次のように約束している。「[神は]かれらの目の涙をことごとく拭ひ去り給はん。今よりのち死もなく,悲歎も,さけびも,苦痛もなかるべし。前のものすでに過ぎ去りたればなり」― 黙示 21:4。

ボロブドールは人間が作ったものであり,それを生み出した哲学もまた人間が編み出したものである。喬荅摩悉達多は人間であった。だから彼の思想もまた人間の考えである。ボロブドールはインドネシアの芸術と技術を示す顕著な建造物ではあるが,それはただ人間が解放を必要としていることを表わすものにすぎない。神のことばである聖書は,人類を解放する神の方法を簡単なことばで告げている。そして,神が私たちを老齢と病気と死から解放してくださる時が今や間近に迫っていることを知って,あらゆる人種,ひふの色,言語の人々が勇気を出すことができる。

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