ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目72 9/22 9–12ページ
  • 自由を守るために

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 自由を守るために
  • 目ざめよ! 1972
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 聖書の真理を語ったために投獄される
  • 民権条例
  • アメリカにおける自由のための戦い
  • すべての人のための自由
  • 自由は長続きしたか
    目ざめよ! 1976
  • カナダの新憲法を見る
    目ざめよ! 1985
  • 権利章典 ― なぜ必要だったか
    目ざめよ! 1991
  • 「良いたよりを擁護して法的に確立する」
    エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
もっと見る
目ざめよ! 1972
目72 9/22 9–12ページ

自由を守るために

あなたは基本的人権が保証されている国にお住まいですか。もしそうであれば,自分の自由は保証されている,と考えておられるでしょう。しかし実際問題として,個人の自由はどれほど保証されていますか。いつでも自由を行使できるという確信がありますか。

仮にあなたが自分の町の政治権力者の腐敗行為を公に指摘する義務を感ずる場合,あなたは言論の自由の権利を行使することができますか。それとも警察ににらまれますか。またたとえば,住民の大半が労働組合員である町に住んでいて,あなた自身はその労働組合に対して大いに異議がある場合,あなたは自分の見解を人々の前で妨害を受けずに述べることができますか。人種問題で緊張しているある町へ行って,人種の無差別待遇を支持する話をはじめたらどうなりますか。どれほど長く言論の自由を行使することができますか。

自由がどれほど保証されているかを実際にためしてみようと思えば,あなたの見解と,大多数の人,あるいは権力の座にある人々の見解とが相容れない場所で,自由の権利を行使してみることです。人々は,自己中心的な考えや偏見その他の人間的弱さに陥りやすく,自分の意見を率直に述べる個人や,きらわれている少数者に対する態度にそれが影響します。そういう人間に遭遇すると,地方の政治家や警察官が,憲法の与える権利を無視することは珍しくありません。

もし憲法の保証する権利を不法にも無視されたら,あなたはどうしますか。裁判に訴えて穏便な方法でその権利を擁護しますか。しかし,裁判にかけて長々と戦うだけの資力のない人たちはどうですか。彼らはおそらく,歯ぎしりをして憤慨し,激しいデモか,あるいは「既成体制」に対して武器を取って反抗する以外に道はない,と結論するでしょう。

しかし,暴力に訴えたところで,より大きな自由がもたらされるでしょうか。そういうことはまずないでしょう。暴力はさらに多くの暴力を生んで,憲法の与える自由の停止を招きかねません。たとえ革命政府が政権を握ったとしても,反対者に対しては自由は差しのべられないかもしれません。新政府の政権獲得を支援した人々でさえ,気がついたときには前ほどの自由はなくなっていたということになるかもしれません。このように,人間の自由の追求は徒労に終るおそれがあります。

しかし,裁判所では,自由を守るための無血の戦いが数多く行なわれてきました。そのうちのいくつかは勝利を得,歴史的先例となっています。そのうちのひとつは,カナダ人の自由を強化することに貢献しました。

聖書の真理を語ったために投獄される

1946年12月7日のことでした。カナダに住むエホバの証人のひとりルイーズ・ラムは,ケベック州,バーダンで人々の家を戸別に訪問し,聖書にしるされている希望を与える事柄について人々と話し合っていました。当時は,モーリス・ジュプレシス首相が同州の政界の首領として,16年にわたる支配を行なっていました。彼は,自分のとはちがう宗教団体の人間が,ケベックの人々と宗教問題について論ずるのをこころよく思いませんでした。そこで彼は警察力を用いて,エホバの証人から言論の自由と信教の自由を取り上げました。ラム嬢は,これらの自由を行使したために逮捕された多くの人の中のひとりでした。

彼女は,何の罪も明示されずに,また友人や弁護士を呼ぶことも許されずに,週末の間留置されていました。カナダで多年たいせつにされてきた自由を行使したかどで,彼女は写真や指紋を取られ,普通の犯罪者と変わらない扱いを受けました。

週末を留置所で過ごしたあと,彼女は出て行ってよいと言われました。しかし,彼女を拘留したことで州の警察官を起訴しないことに同意する趣旨の釈放書に署名しなければなりませんでした。もし署名を拒否すれば,罪に問われます。彼女は拒否しました。そして告訴されました。しかし裁判所は後日それを却下しました。

そこでラム嬢は,言論の自由と信教の自由を守るために,その警官に対する民事訴訟を起こしました。これは長期にわたる困難な戦いで,問題は最後にカナダ最高裁に持ち込まれました。最高裁は次のような意見を述べて,彼女の正しさを立証しました。「この逮捕と起訴は,全く弁明の事由なくして行なわれ,週末における原告の拘留も恥ずべき方法により恥ずべき状態のもとで行なわれた」。

法廷での長い戦いで彼女が得たこの勝利を,フランク・スコット教授は,1959年に著わした「市民の自由とカナダ連邦制度」という本の中で,自由を守る戦いの勝利,民主的自由を全カナダ人のためにより確実なものにすることに貢献した勝利として認めています。彼は次のように述べています。

「ラム事件は,警官の不法行為のいま一つの例にすぎないが,これは近年ケベック州においてしばしば露見している憂うつな事態の一端を示すものである。…こういう記事を読むと,警察官から同様の扱いを受けながらも,最後の勝利 ― この事件では逮捕から12年半後に勝利を収めている ― に至るまで,問題を追求する勇気と支援がないために,泣き寝入りしている犠牲者がどのくらいいるだろうかと考えさせられる。国家の圧力の犠牲になっている者の中にも,自分の権利を守るために立ち上がる者がわが国にいることをわれわれは感謝すべきである。彼らの勝利はとりもなおさずわれわれ全体の勝利である」。

スコット教授が述べているとおり,基本的自由を拒まれた者すべてが,法廷における戦いを最高裁に至るまで押し進める決意と資力と法的支持とを持っているわけではないので,最高裁にまで持ち込まれて勝利を得たこの事件は,カナダにおいて歴史的意義をもつものとなっています。

民権条例

一般に,民権条例は少数者にも公正を保証すると考えられています。これは,ジョン・ディーフェンベーカーが,1960年に,カナダの首相として,カナダにおいて民権条例が制定されたときに示した見解でした。彼は次のように述べました。「この条例は前進の大きな一歩である。これは,自由の真髄である。少数者が多数派によって不公正な扱いを受けないということを保証する,自由の祭壇を築き上げるであろう」。

民権条例を有するカナダ国民がより恵まれた生活をしていることは確かです。それはカナダ国民の愛する自由に法的基礎をえるからです。しかし,民権条例があるからとって,ただそれだけで果たして自由が自動的に尊重され,すべての人に自由が与えられるでしょうか。それはある町で,当局者から不公正な扱いを受ける少数者が全くいないことを意味するでしょうか。必ずしもそうではありません。一般に好まれない考えをもつ人々に,民権条例の保証する自由を進んで与えようとはしない,利己的な官吏や感情的なグループは常に存在するものです。ということは,少数者は自分の自由を法的に守らなければならず,もしそれをしなければ自由を失わざるをえないことを意味します。

アメリカにおける自由のための戦い

アメリカは民権条例を180年間保持してきましたが,アメリカのエホバの証人は,同条例の保証する自由を得るために,再三裁判に訴えなければなりませんでした。同条例は,裁判史上画期的な判例となった多くの事件を最高裁判所にまで持ち込む法的基礎を与えるものとなりました。このことについて,レオン・フリードマンは自著「賢明な少数者」の中で次のように書いています。

「これら20余件の勝訴を通して,人気のないこの弱小な少数者が,アメリカの法律に根本的な変化をもたらしたのである。彼らは,自分たちの音信を伝えるために街路や公園を使用する少数者すべての権利を確立したのである。また彼らは,政府はいかなる従順もしくは忠節の明白な表現をも市民に強いることはできない,ということを明らかにした。これらの先例は,わが国における政治上の自由を数段前進させた」。

この意見に同意して,ミルトン・R・コンビッツ教授は,自著「自由国民の基本的自由」の中で次のように述べています。

「エホバの証人はまさに,憲法修正第1条の種々の自由の限界をためすためのモルモットになった。彼らは『極端で,権利を乱用する』という非難を受けた。1938年から初めて,彼らは長い一連の事件を最高裁に供給し,それらの審理を通して,これらの自由の種々の面が入念に検討された。それは全体的にみて,信教の自由の,そして少なからず言論,出版,および集会の自由の基盤を強化し,適用範囲を広げる先例を確立する結果となった」。

エホバの証人によるこうした法的戦いは,アメリカにおける憲法上の自由を守る点で多くのことを成し遂げたとはいえ,それらの自由をおびやかす状況は依然として存在しているのです。最近の例は,1971年にペンシルベニア州下院が通過させたある法案です。この法案は公立学校の児童の国旗敬礼を義務とし,いかなる旗への敬礼も宗教上の良心に反すると考える生徒を免除する規定をもうけてはいません。この法案は,信教の自由を亨受する学童の権利をおびやかすものです。

国旗敬礼は愛国主義と結びついていますから,だれかがそれを拒否したということを耳にすると,感情を高ぶらせる人が少なくありません。しかし,たとえ大多数の人が別の見解をもっているとしても,宗教上の良心に反することを避ける自由を少数者に与えるべきではないでしょうか。少数者の宗教上の良心を尊重することは,国旗が象徴する自由に対する認識を示すことではないでしょうか。

ペンシルベニア州の同法案にかんして,1971年6月16日のフィラデルフィア・インクワイアラー紙は,その社説の中で次のように述べています。

「同法案は文面からすれば違憲である。同様の強制的国旗敬礼は,米国最高裁によって再三再四たたかれてきた。そのきわめて顕著な例は,1943年のウェスト・バージニア州教育委員会対バーネット事件である。この事件の裁判において,故ロバート・ジャクソン判事は,次のような感動的なことばで意見を表明した。

「『もしわが国の憲法という星座の中に恒星なるものがあるとすれば,それは,地位の高い低いを問わず,いかなる官吏も,政治,国家主義,宗教,または他の見解上の問題において,何が正統かを規定しえないということ,つまり,市民にそうした事柄における信念を,ことばもしくは行ないによって強制的に告白させることはできないということである』」。a

ペンシルベニア州下院の議員が学童に愛国主義を植えつけたいという誠実な願いをもっていることは疑問の余地がありません。しかしそうかといって,彼らが憲法の保障する信教の自由を無視している事実は変わりません。インクワイアラー紙の社説は続けてこう述べています。

「立法部自体が憲法に違反するようでは,たしかに愛国主義の促進などできるものではない。レイ・ホビス議員は,問題は簡単だとしてこう断言した。『それはこの州議会が,国旗敬礼にかんする現行憲法に基づく法律がきらいだという理由から,事実上市民的反抗である行為をしたいと望んでいるかどうかということである』」。

民権条例の自由は,自己の信念を表明する権利を市民に与えますが,それと同時に,自分がいだいていない信念を表明しない権利をも与えます。このことにかんして,コンビッツ教授は前述の著書「自由国民の基本的自由」の中で次のように述べています。

「話さない自由,信念を表明しない自由は,話す自由以上に重要であるかもしれぬ。なぜなら。自分のいだいていない信念を表明することは,自分がいだいている信念を表明できない場合よりも良心に大きな害をおよぼすおそれがあるからである」。

国家主義的な精神の強いところでは往々にして,宗教上の良心などしゃく量せずにすべての人に,多数派と同じように語り,同じように行動することを期待する傾向があります。これはある形態の政府のもとで極端なまでに行なわれる一種の思想統制です。しかし,政府が国民に自由を与えていることを誇りとしている国で,権力の座にある人々が,少数者に,彼らの宗教上の良心に反することを強制的にさせようとするのはなぜでしょうか。これは,すべての国民に自由を与えるという愛国的表現と矛盾しないでしょうか。

民主主義の国においてさえ,すべての人が公平に自由を亨受するのは,非常にむずかしいことです。ある事柄にかんして多数派と歩調を合わせない人間は,たいていの場合,自分の憲法上の権利を守らなければなりません。法廷で平和裏にそうすることができるといっても,必ずしも勝利に終わるとはかぎりません。裁判官といえどもほかの人間と同様に不完全であり,個人的な関心事や感情に左右されることもあれば,まちがった判断を下すこともあります。米国最高裁判所でさえ,以前の決判が誤りであったことを認めて,それを破棄しなければならなかったこともあります。古い例では,1940年6月3日に,マイナースビル学区対ゴバイティス事件(310U・S・586)のペンシルベニア州国旗敬礼問題に対して下された判決の破棄です。かつては,この判決がきっかけとなって,アメリカ全土でエホバの証人に対する暴力行為が怒とうのように盛り上がったのです。

エホバの証人はこれまでの長い年月にわたり,自由を守るための法的戦いによって多くの判例を確立してきましたが,それでもなお少数者の自由は絶対に保証されているとはいえません。不完全な人間が他の人間に対して権力を行使しているかぎり,不公正な扱いを受けることは予期しなければならないでしょう。ですから,カナダやアメリカの人々は,エホバの証人が法的戦いで勝ち得た判決の益にあずかっている一方で,自由を守る戦いは続いているのです。

すべての人のための自由

状態は良いほうに変わるでしょう。しかしそれには,考え方や道徳的価値の総体的変化が必要です。全世界の人々の間に同胞に対する基本的な愛や同情がなければなりません。聖書はこのことを簡潔に,「おのれの如く,なんぢの隣を愛すべし」と述べています。(マタイ 22:39)しかしそのような変化はどのようにして生ずるのでしょうか。

この必要な変化に対する唯一の希望は,神のお立てになった政府が,まもなくこの地を公正と正義とをもって治める,という聖書の約束にあります。この神の政府が支配するときにはじめて,自由は,偏見や,気ままな感情や,憎しみ,誤解,不公平,裁判における人間的な誤りなどによっておびやかされることがなくなるのです。この神によって立てられた政府は,人間のつくる政府につきまとう多くの欠陥を伴わず,個人的なまちがいをしたり,利己的な関心をいだいたりすることもありません。全人類が,神の王国の義の支配のもとに置かれるとき,だれも自分の正当な自由を守るために戦うことは,二度と必要ではなくなるのです。

[脚注]

a アメリカの官報319巻,624,642ページに掲載されている。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする