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  • オランダの自由のための戦いを特色づけた宗教的残虐行為
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目ざめよ! 1972
目72 12/22 21–25ページ

オランダの自由のための戦いを特色づけた宗教的残虐行為

今日,オランダのローマ・カトリック教階制は,教皇パウロの政策に対する批判の先頭に立っている観がある。特に,僧職者たちに課せられている強制的童貞制に対するオランダ・カトリック教会の反対は,バチカンによって「許すべからざる罪」と考えられている。しかし,400年前にも,オランダ人が,バチカンの政策に対する反抗の急先ぽうであったことをあなたはご存じだろうか。

オランダ人には,反抗する十分の理由があった。当時のことにかんしてある歴史家は,「オランダにおける異端者の迫害ほど残虐なものはほかに例がなかった」と述べている。これが誇張でないことは,迫害者の首謀者フェリペ2世の次のことばからもわかる。「どうしてスペインの異端審問を紹介する必要があろう。…オランダの異端審問はスペインよりずっと無慈悲である」。

オランダ人が反抗して立ち上がり,ついにスペインのカトリックのくびきを振り捨てたそもそもの原因は,この異端審問にあった。オランダ人は80年間(1609年から1620年までの休戦期間を除く)戦った。そして1648年,ミュンスターおよびウェストファリア条約に調印し,ようやく自由を得るに至った。これらの条約によって,「スペインはオランダ人の主張をことごとく受けいれた」。ついでに言えば当時のオランダには,今日のベルギーも含まれていた。

初期の歴史

オランダの歴史は,ユリウス・カエサルが北海沿岸の低地帯を征服した西暦前58年にさかのぼる。数世紀後,キリスト教世界の宣教師たちがそれらの地方にやってきた。8世紀にはカール・マルテル(「手斧」)が宗教的不寛容を導入し,それは彼の曾孫シャルルマーニュによって継続された。キリスト教世界のそれらの支配者たちは,異教徒にバプテスマを受けるか,それとも死ぬかのどちらかを選ばせた。

それから5世紀ほどたって,同低地帯に宗教的不寛容が再び勢いを得た。このたびは異教徒に対してではなく,ローマ・カトリック教会の教理が聖書と矛盾していることを発見した人びとに対してであった。その過酷な宗教的迫害の対象になったのは,再洗礼派,バルド派,ロラード派などであった。これらの諸派はだいたいにおいて,「神への服従,聖書をクリスチャンの生活の導きとすること,素ぼくな崇拝」などを説いた。

彼らがどんな苦しみをしたかは,バルド派の犠牲者にしばしば生じた事柄を伝えている歴史的記録から,ある程度想像することができる。焼けた鉄,または煮えたぎるやかんによって有罪が「証明」されると,犠牲者は衣服を脱がされ,くいに縛りつけられ,それからくびから腰まで生きたまま皮をはがれる。そのあとおびただしいミツバチが放され,それが血の流れる肉にたかって,犠牲者を死ぬまでさいなむのであった。

カール5世の支配

やがて,フランスのブルガンディの支配者たちは,低地帯を支配していたシャルルマーニュの後継者たちを交替させることに成功した。ハプスブルグ家は,これらの新しい支配者たちとの結婚によって,同地域を形成する17州を支配するに至った。こうして,土着の人間であったカール5世は15歳でオランダの支配者となり,1519年には,ゲルマン民族の神聖ローマ帝国の皇帝にもなった。

カール大帝は,17州の政治的存在の確立のみならず,それを宗教的に統一することにも大いに意を用いた。伝えられるところによると,「彼はドイツ語,スペイン語,フランス語,フランダース語を話した。…そしてスペイン人には堂々と接し,フランダース人には打ち解けた態度を取り,イタリア人には機知のあるところを示した」。そのような性格であったために,彼は,神と人とに大罪を犯したにもかかわらず,一部の人びとから尊敬された。

カールは,いくつかの政治上の理由から,ドイツのルーテル派とはパッソー条約を結んだが,オランダにおいては,スペインにおけると同様に,自分が実際に望んでいることをなしうると考えたため,異端審問を開始した。1521年に発布したオランダ人への勅令の中で彼は次のように述べた。「前述のマルチン[ルター]は,人間にあらずして,人間の形をし,僧侶の衣服を身にまとった悪魔,人類を地獄と破滅に陥れるに巧みなる者であるゆえに,彼の弟子と改宗者はすべて死刑に処され,彼らの財産はすべて没収されるべきである」。

勅令は出されるたびにきびしさを増し,1550年の勅令に至ってその頂点に達した。今や,家庭における宗教的崇拝のための集まり,聖書朗読,宗教上の論争点を討論することなどすべて禁止された。a それに加えて,有罪とされて改しゅんした男は打ち首にし,改しゅんした女は生き埋めにせよ,という命令が出されていた。信仰を曲げぬ者は生きたまま焼き殺されることになっていた。『異端者』に残されていた死をのがれうる唯一の方法は,他を裏切ることだけであった。

加えて1550年の勅令は,寛大さやあわれみを示す役人はその地位をはく奪され,処罰されるということを警告していた。この勅令は永久的なもので,「オランダの各都市や村で,6か月ごとに,永久に公表される」ことになっていた。推測によると,カールの40年にわたる支配の間に,5万から10万のオランダ人が異端審問で命を失っている。

カール5世の後継者フェリペ2世

カール5世は非常に病弱であったために,神聖ローマ帝国の帝位は彼の弟のフェルジナントに譲ったが,オランダと他の領地の支配権はむすこのフェリペ2世に譲った。そして隠退所にしていた修道院から,むすこのフェリペ2世に,「異端を過酷に懲らしめて根絶する」ことを勧めた。

しかしながら,フェリペにそんな勧告は無用であった。というのは,彼は「最もカトリック的な王」という敬称にいちばん大きな愛着を持っていたからである。彼は宗教的に不寛容であったことと,スペイン語しか話せなかったことから,オランダ人の臣下を退けてスペイン人の臣下を周囲にはべらせていた。また彼は,イギリスの女王でカトリック教徒であったメアリ・チューダーと結婚した。彼女は短い統治の間に新教徒をむざんに殺害したので,「血なまぐさいメアリ」としてのほうがよく知られている。1556年,フェリペは,1550年のかの有名な勅令を再び発し,それとともに,「ヨーロッパの宗教改革史における最も長く,最も暗く,最も血なまぐさい,そして最も重要なエピソード」と呼ばれるものが始まった。

フェリペは宗教裁判所長たちを任命した。その宗教裁判所長たちはオランダ全土に12名の異端審問官を派遣し,『異端者たち』を狩り出して刑に処した。その審問官のうち最も悪名をはせたのはピーター・ティテルマンである。彼は犠牲者たちが炎の中でもだえ苦しんでいる時に冗談を言うほどのサディストであった。『異端者』を狩り出す彼の常とう手段は,ある一軒の家に踏み込んで,10人ほどの人が聖書の朗読や祈りをしているところを発見することであった。こうした罪に対しては彼は人びとを直ちに火刑にした。こういう話がある。ある時ティテルマンはひとりの世俗の保安官に会った。その保安官はティテルマンに向かって,わたしには護衛がいるのに,あなたにはなぜ護衛兵がいらないのか,と尋ねた。それに対してティテルマンは,「わたしは,罪のない善良な人間を捕えるだけである。彼らは抵抗しない」と答えた。それでその保安官は言った。「しかし,もしあなたが善良な人間を全部捕え,わたしが悪人を全部捕えるとなると,いったいだれが懲罰をのがれられるのかわからなくなりますね」。

アルバ公

フェリペは10年余,オランダの権力者たちに自分の異端審問を支持するよう促し,その間に自分はスペインにもどった。しかし彼らは,フェリペの命令に従うことを渋りはじめた。『異端者』の数はふえる一方であった。そこでフェリペは,さらに激しい手段に訴えた。ヨーロッパ一腕のいい,熟練した宗教裁判所長であるアルバ公を,この異端を永久にぼく滅するためにさし向けたのである。それは1567年のことであった。

アルバ公は,2万4,000人の人びとと6,000頭の馬を率いて低地帯に到着した。その中にはヨーロッパきっての精鋭1万と,2,000人の売春婦が含まれていた。彼は直ちに「問題審問所」を設置した。これはオランダ人に「血の審問所」として知られているものである。裏切りとあざむきとをもって彼はオランダの指導者たちを網にかけ,富を持つ者をそれだけの理由で死に定めた。

アルバ公の支配の初めに,教皇庁の検邪聖省は,300万のオランダ人全部を異端者として死刑を宣告することまで行ない,10日後フェリペ2世はその布告を確認した。「新カトリック百科事典」には次のように述べられている。「6年にわたるアルバの統治は忘れることのできない恐怖政治となり,その間にスペイン政府は,今は地歩を固めた北部諸州の新教主義を力で根絶しようとした。…アルバは…モンス,マリーヌ,ズトフェン,ナールデン,ハールレム[の諸都市]を容赦なく攻撃し,征服し,あわれみのかけらも見せずに略奪した」。それにもかかわらず彼は敗北していった。というのは,がん強に抵抗したオランダ人が,アルバの軍隊に大きな打撃を与えたからである。そのため,彼の3万の軍隊は,ハールレム市を攻略するのに7か月かかり,1万2,000人の兵士を失った。戦争に疲れたアルバ公は,債権者たちからのがれるために,ひそかに国を脱出したが,それと同時に,彼の6年の支配期間中に1万8,600人の異端を処刑したことを誇った。それもそのはず,なにしろ彼は,ある『聖週』の間に800人の人間を殺したのであるから。

「沈黙公」ウィリアム

フェリペ2世および彼の配下のアルバ公とその後継者たち(ドン・ファンおよびパルマ公)がみなオランダの征服に失敗したのは,多分に「沈黙公」のオレンジ公ウィリアムおよび彼に従ったむすこたちの果たした役割に原因していたことは疑問の余地がない。ウィリアムは,十代にして皇帝カール5世の信任を得,やがてオランダの北部3州の州太守すなわち総督となった。彼が「沈黙公」という称号を得たゆえんは,フェリペ2世とフランスの王が彼らの領土内の新教徒を根絶することによって新教主義をぬぐい去る計画を立てている,ということを聞いたとき,深い驚がくを隠していたからである。

ウィリアム自身はカトリック教徒で,新教には何の共感も持たなかったが,「〔人が〕像を横目で見たくらいで炎の中に放り込まれるありさまであったから,オランダに対する異端審問は,スペインにおけるそれよりも過酷に行なわれることが決定された」と見てとった。それで,「善良な男女がそのように大量に虐殺されるのに同情を」感じ,彼らを救うためにできるかぎりのことをしようと決意した,と彼は述べている。フェリペ2世は,「われらの聖母教会より見捨てられた」宗派をすべてまっ殺せよと命令したが,ウィリアムは,「人間に従うよりも神に従うほうがもっと必要である」と考えて,それとは全く反対のことをした。彼は異端審問の主要な道具になる代わりに,反抗運動の柱石となり,多数のオランダ人が彼のもとに参集した。彼は「父ウィリアム」として知られ,慕われるようになった。

多年にわたる残虐な宗教的迫害の結果,ウィリアムは,1568年8月31日,アルバ公に対して正式に宣戦を布告し,団結して自由のために戦うよう人びとを励ました。こうしてオランダ「八十年戦争」は始まった。陸上では,オランダ人はしばしば敗北を喫したが,海上では,主として「海のこじき団」として知られていた海賊のような水夫たちの働きにより,勝利を収めることが多かった。そのうちウィリアムは新教主義に改宗し,「宗教改革の兵士」となった。b 敵は,オランダ人の自由のための戦いに彼が重要な存在であることに気づき,彼の首に莫大な賞金をかけた。暗殺はいく度か試みられ,ついに1584年,ウィリアムは凶弾にたおれ,51歳でその生涯を閉じた。しかし,彼のむすこたちは戦争を続行した。最初はモーリスが40年近く,ついで,フレデリック・ヘンリーが22年余,そして彼のむすこのウィリアム2世がそのあとを継ぎ,彼の支配の初めごろ,オランダ人はついに自由を認められた。

この80年にわたる自由のための戦いの間,オランダ人は,イギリス,フランス,そしてドイツから絶えまない援助を受けた。

双方の宗教的残虐行為

この80年間,オランダ人の多くは,自分たちの宗教的(また政治的)自由のために戦っていながら,他の者にはそれを進んで与えようとはしなかった。なかでも悪名高いのは,1575年の北部オランダの一州の太守ソノイであった。彼は,ひそかにカトリックの礼拝を行なっていたというだけの罪でいく人かを拷問にかけたが,そのやり方がいかにもひどく,詳細を読む者は胸がむかつくのをおぼえる。一歴史家はこう述べている。「ソノイは…宗教改革者たちが,この悪魔的技術を異端審問者たちにさえ教授し得ることを証明しようとして,永久に自己の恥をさらした」。オランダ人は概してソノイのこうした残虐行為を否認した(事実,ウィリアムはソノイにカトリック教徒を迫害しないようにはっきり警告した)が,彼らの自由のための戦いにおいて彼が果たした役割のゆえに,彼の責任を追求しようとする後年における努力は実らなかった。

オレンジ公ウィリアムは,死ぬまで,宗教的寛容の精神を堅持し,この問題における頼みの綱であった。彼は狭量な役人たちを再三再四叱責した。ミドルブルグの行政官たちに与えた指示はその典型的なものであった。「われわれは断言する。…個人に対して害を与えたとか,世間を騒がせるようなことをしたという理由がないかぎり,あなたがたはだれの良心に干渉する権利もない。したがってわれわれは,あなたがたが洗礼派〔再洗礼派〕の信徒を苦しめること,また妻子を養うための彼らの手仕事や日々の商売を妨害することをやめるよう,明らかに命ずる。…ゆえに,われわれが今制定するこの法令に対し,不従順や反抗なきよう注意せよ」。

しかし,彼の治下にあった住民が,こうした人道主義的な原則からいかに遠く離れていたかは,彼らの愛慕する「父ウィリアム」の暗殺に成功した人物,バルサザール・ゲラルドを罰したそのやり方に表われている。彼らの怒りは尽きるところを知らず,ゲラルドを「残酷きわまりない拷問にかけた」。

オランダ人のなかには,何百という教会や,僧院,女子修道院などにある像,『聖』画,蔵書,祭壇などを破壊して回った者も少なくなかった。しかし,これらの暴徒は,尼僧や僧侶たちに危害を加えず,また富も略奪しなかったことをつけ加えておかねばならない。

ウィリアムのむすこモーリスは,軍事上の手腕にかけては父親よりもうわてであったが,人道主義的な原則においては父親に劣っていた。このむすこの治世の後半に,諫争派として知られている宗派が現われた。この宗派は,とくに予定説と救いについて,有勢なカルビン派よりも自由な見方をした。この少数派の信徒は,罰金を科され,投獄され,追放され,大量に殺害されたことさえあった。

このように,オランダの80年にわたる自由のための戦いにおいては,宗教に関連して双方が驚くべき残虐行為を行なった。このすべては,彼らのうちひとりも,キリストの真の追随者でなかったことを物語るものである。宗教に関係したそうした残虐行為はすべて,キリストが明らかにされた次の諸原則とは正反対の行為である。「すべて人にせられんと思ふことは,人にもまたその如くせよ」。「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶるなり」。「われ新しき誡命を汝らに与ふ,なんぢら相愛すべし,わが汝らを愛せしごとく,汝らも相愛すべし。互に相愛する事をせば,これによりて人みな汝らの我が弟子たるを知らん」― マタイ 7:12; 26:52。ヨハネ 13:34,35。

オランダにおける今日の状態はどうだろうか。バチカンの権力に対する反抗が再び生じている。このたびの反抗は,過去の場合のような暴力によるものではない。しかし教皇権をはねつける人たちのうち,はたしていく人が,神のことば聖書に示されている高い標準をほんとうに自分の生活に取り入れ,それを実行しているであろうか。

[脚注]

a この種の考え方が教皇制度と無関係でないことは,1972年5月16日付のニューヨーク・タイムズ紙の記事からもうかがわれる。「イタリアの司教たちは聖職者の童貞制について,一般信徒が口を出す必要はどこにもないということを強調した」。

b 彼の主要な問題のひとつは,北部7州だけがプロテスタントで,南部10州のほとんど全部がカトリックであった。今日では,後者の10州はベルギーを形成している。

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