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カナダの公認記録がいまや明らかにした事がら

カナダは,世界でも最も自由な国のひとつと考えられています。市民の自由は法律によって守られており,その政治形態は民主制です。

カナダは長い間,世界の国々のなかでこの自由の国という評判を保持してきました。しかし,その状態を保つために,政府当局者と一般市民の両方が,非常な苦闘をしいられた時期があったことは,それほど知られていません。

カナダでは,過去2回にわたり,信教の自由の問題をめぐる論争がありました。この論争には,クリスチャン奉仕者として平和的なわざを続行する,エホバの証人の権利が関係していました。この事件を解決するにあたって,カナダ最高裁判所は,いくつかのすぐれた,憲法にのっとった判決を下しました。それらの判決は,カナダ人が今日享受している自由を守ることに重要な貢献をしました。

ところで,カナダの持つ自由の一部として今日たいせつにされているその権利に挑戦したのは,いったいだれだったのでしょうか。それらのクリスチャンに自由を与えまいとしたその圧力は,どこから来たのでしょうか。

その2回にわたる事件というのは,戦時中に,つまり1918年と,1940年に生じました。といってもそれは過去の歴史です。ではなぜそれを,1973年の現在ふたたび持ち出すのでしょうか。なぜなら,カナダ政府の公認記録が,最近,首都オタワにある公立公文書図書館で一般に公開され,人びとが調べることができるようになったからです。信教の自由が挑戦に会った真のいきさつを,いまや初めて,政府自身のつづりから知ることができるようになったのです。

僧職者の要求によって加えられた圧力

エホバの証人(当時は万国聖書研究生と呼ばれた)に初めて圧力が加えられたのは,第1次世界大戦が終わりに近づいていた1918年のことでした。

当時,カナダ政府の官報「カナダ・ガゼッテ」に,エホバの証人の発行していた出版物のあるものを禁止する命令が掲載されました。禁止の対象となったのは,「完成された奥義」という本と,「聖書研究生月刊」のある号でした。これらの本を所持しているだけで罰金5,000㌦および禁錮5年の刑に処せられることになりました。

この検閲命令の背後には僧職者がいると思われるがどうか,という質問がなされた時,それは否定されました。ところが,まさにその時に,検閲部長のアーネスト・チェンバーズ陸軍大佐のつづりの中には,ブリティシュ・コロンビア州のバンクーバー市にあった,第一組合教会から来た書簡が収められていたのです。その手紙の差出人は,A・E・クック「師」でした。僧職者のクックは,検閲官にあてて次のように書いていました。

「バンクーバー市聖職者総連合より,現時点において,社会的に大きな重要性を持つと思われる一つの問題に貴下の注意を促すようにとの指示を受けました。お気づきのとおり,故ラッセル『牧師』の追随者たちは…『万国聖書研究生』と自称しています。…

「また,アメリカ合衆国で出版され,その後カナダに送られ,同研究生たちによって配布される,同団体の宣伝文書も禁止するのがよいかと思います」。

検閲部長チェンバーズ大佐は返事を書きました。「親展」と上書きされたその手紙の中で,彼は僧職者のクックに次のように述べています。

「尊師へ。拝啓…バンクーバー市聖職者総連合のような有力団体の具体的な見解をお伝えいただいた貴殿よりのご書面は,この極めて重要な問題に対して的確な措置を取るうえで非常に有益であります。…

「これらの出版物の中でなされている,すべての教派に対する激しい無差別攻撃は,たとえその攻撃内容が,『軍部の側から見て不愉快なもの』とは言えなくても,注目に価するものと私は考えます」。

こうして,ついに一般に公開されたこれらの過去の秘密書類は,1918年に,この強い信仰を持つクリスチャンの少数者に対して取られた措置が,確かに僧職者の工作によるものであったことを明らかにしました。エホバの証人は,イエス・キリストと同じように,恐れなく真理を語り,僧職者の偽善をあえて暴露したために,自由を奪われたのです。

それにしても,教会はなぜエホバの証人が教会について語ることをそれほどまでに恐れたのでしょうか。

教会はキリストを捨てた

教会は,神のことばを宣べ伝えかつ平和の君であるイエス・キリストに従うという義務を捨てていたのです。あらゆる土地の僧職者は,いくさ神に心を向け,総力をあげてそれに奉仕していたのです。彼らは,第1次世界大戦を,政治上の世界支配をめざす残酷な戦いとしてありのままに語る代わりに,「聖」戦であるかのような印象を与えることに腐心しました。

戦争を挑発するような僧職者の態度に,多くの心ある人びとは,胸の悪くなる思いをしました。戦争を促進することは,平和の君の代表をもって任ずる者たちの正しい職務でないことを,その人たちは知っていたのです。1914年の10月,つまり同大戦がぼっ発したあと,ニューヨーク市に住んでいたユダヤ教の教師ワイズは,諸教会がたどった道について次のように述べました。

「この戦争の原因は,教会と会堂が,人びとに対する指導力を維持しえなかったことにある。彼らは,神の代わりに戦争魔をまつり上げた。彼らは社会機構の一部となって,正邪のいかんを問わず自国とその指導者を守ることで満足している」。

教会のしていたことに異議を唱えた著名なカナダ人に,J・S・ウッズワースがいます。彼はメソジスト派の牧師でしたが,のちほど下院議員になりました。後日彼の自叙伝に載せられた,妻のルーシーにあてた手紙の中で,彼は1915年の10月に,モントリオールで日曜日の夜の教会礼拝に出席した時のことを次のように述べています。

「夕方私は聖ヤコブ・メソジスト教会の新兵徴募集会に行った。全くのところルーシー,もし私が,見世物的なやり方に反対の主義でなかったなら,私は立ち上がって,あなたがたのやっていることは一から十まで,キリストの教えの悪用 ― いまわしい悪用とでも言おうか ― であり,神聖な崇拝のために聖別されている日と家の乱用である,と非難していたであろう。…

「牧師が熱した調子で,[戦争に]行けるのに行かない若者は,クリスチャンでもなければ愛国者でもない,というにおよんでそれは最高潮に達した。いやそうではない! 最高潮は,新兵の徴募に来た軍曹たちが教会の各入口に配置されているから,勇気のある者,愛国者,イエスの追随者はすべて,今この場ですぐに決定すべきである,という発表が行なわれたときであった!」。

ウッズワースは,最後に妻に次のように言っています。「私は,もう教会には出席しないと心に誓い,なんとかして教会とのつながりを断ち切りたくて矢もたてもたまらない思いだった」。その後,1918年に,彼はそれを実行しました。つまり,次のように宣言して教会を脱退しました。

「私にとって,イエスの教えと精神は,戦争の擁護とは絶対に相いれないものである。…教会は極めて効果的な新兵徴募機関と化してしまった。牧師の成功は,改宗者の数よりもむしろ募集した新兵の数によってはかられている」。

第一次世界大戦が終わったとき,その同じメソジスト教会(その時まで合同教会として知られていた)は,戦時中の行為が,キリスト教徒にふさわしくないものであったことを公に告白しました。1924年の2月に,同教会の機関誌「ザ・クリスチャン・ガーディアン」は,次のように述べました。

「戦争になんらかの美徳または善もしくは救いの恩ちょうがあると考える聡明な文明人は,世界広しといえどもひとりもいない。そしてわれわれのほとんどは,そのような消極的な見解をはるかに越えた,戦争はわれわれの時代にとって醜悪で,完全に非クリスチャン的で,許しがたい犯罪であるという,極めて明白な,のがれられない信念をいだかせられるに至った。

「しかし,ほんの数年前まで,戦争についてそのように感じていなかったという点に関して,われわれの一部の者は,いやわれわれの多くは,心から謙虚に,自らの非を認め,自分の無知と,われらの師の精神に欠けていたこととに対して,許しを請う」。

エホバの証人が取った立場

しかし,エホバの証人はこの問題にかんしてどんな立場を取ったでしょうか。戦争が終わって平和の宣言が容易になった時ではなく,意見の表明に勇気を要した時に,エホバの証人は,この問題にかんする事実を公に伝えました。

たとえば,エホバの証人の発行していた「聖書研究生月刊」の,1917年9月号に述べられていることに注意してください。

「僧職者たちは王たちを支援して,『破壊活動を押し進めなさい。神はあなたとともにおられます。わたしたちはあなたの軍隊の上に神の祝福があるように祈ります』と言ったも同然である。ドイツでは僧職者は,自国の軍隊に神の祝福を求め,イギリス人を滅ぼすことができるようにしてくださいと祈っており,イギリスでは僧職者たちは,英軍の上に神の祝福を求め,ドイツ人を地球上からまっ殺せしめてくださいと祈っている。神はどちらの僧職階級の祈りを聞かれるだろうか。…

「聖書の指摘するところによると,この戦争に対しては王と僧職者の両方に責任があるが,僧職者の責任のほうがむしろ大きい。なぜなら,神のご計画を知り,それを人びとに伝えるのが彼らの義務だからである。しかし,彼らはそれを学ぼうとせず,またそれを他の人びとに伝えることをしていない」。

僧職者たちにとってがまんならなかったのは,真理を憶せずに公に語るエホバの証人のこの態度でした。そこで彼らは真理を踏み消すことを試みました。彼らは成功したでしょうか。

カナダの僧職者たちは真理が広まるのを阻止できなかった

真理の流れを押しもどそうとする,カナダの僧職者たちの試みは,打ち寄せる大洋の波を押しもどそうとするのと同じほどむなしいことでした。なるほど彼らは,エホバの証人のある文書は,やすやすと非合法化できることを知りました。しかし,真理が広まるのを阻止することは,それとは別の問題でした。

ひとつには,カナダの新聞がこの論争を取り上げたことが音信の流布を妨げるどころか,大きな助けとなりました。西部カナダの出版物検閲官,J・F・B・リブセイは,禁令について次のように書きました。

「このプロパガンダは今日,多額の費用を投じて広告欄にのせるよりも効果的に,カナダの日刊紙上に無料で宣伝されている」。

また,西部の新聞ザ・チヌークは,「完成された奥義」の発行配布禁止について,社説に次のような論評をかかげました。

「カナダ政府がこの本の発行配布を禁止した時,それはこの本の大々的な宣伝となり,その内容に対する人びとの好奇心をかき立てた。政府がこのような措置を取った結果として,さらに何千冊もの書籍が配布されて,何百人もの人びとが万国聖書研究生に改宗することが考えられる。…

「牧師たちはラッセル[ものみの塔協会の初代会長]をさんざんにこきおろした。その結果,好奇心の強い教会員たちは,ラッセルの著書を幾冊か入手し,それに共鳴し,運動に参加した。カナダ政府がラッセル派の弾圧に乗り出したゆえに,この運動は急激に広まることが予想される」。

他の出版物

エホバの証人のある出版物は非合法化されたとはいえ,それで他の本の生産が阻止されたわけではありません。新たに出版が計画されていた「あかつきの使者」と題する本が,ウィニペッグのカナダ政府西部出版物検閲官,J・F・B・リブセイに提出されました。同書は宗教のことしか扱っていなかったため,検閲官はそれを認可しました。

そこでその本は印刷に付され,カナダ全土の各文書センターに送られました。1918年6月10日,各都市のエホバの証人は,時を同じくしていっせいに,そして迅速に,同書を大量に配布しました。

この出版物は,政府にかんする問題は取り上げていませんでしたが,教会については批判的でした。予想どおり,僧職者たちはいきりたちました。

それにしても,なぜリブセイ氏は「あかつきの使者」を認可したのでしょうか。検閲部長にあてた手紙の中で,彼は次のように説明しています。

「私はこの書籍を注意深く読みました。……しかし,戦争の告発とは無関係でありますので,宗教を攻撃しているという理由で同書を禁じ得るとは考えられませんでした。私としましては,それは出版物検閲官の職務ではないと考えます」。

検閲部長チェンバーズ大佐自身も,「この問題自体について言えばそれは事実である。反英,反連合,平和主義者といった性質のものではない」と述べました。

このように,現在オタワ市で一般に公開されている政府のつづりは,問題のこれら宗教的出版物を検閲することが,「出版物検閲官の職務」でなかったことを,十分に明らかにしています。また,僧職者が政治に干渉したために,検閲部長が本務からはずれたことをしていたことも明らかです。

告発は失敗

真理の流れを食い止めようとする僧職者たちの努力は,効果がありませんでした。禁書を所有しているという理由でエホバの証人たちを告発しようとしても,検閲部長は裁判所で相手にされないことがしばしばありました。同部長はこの問題を国務大臣に報告し次のように述べました。

「これらの人びとの多くは,けがれのない生活を送っているおだやかな人びとであり,居住する地域社会の中では一般に,正直である,などの良い評判を得ています。…

「軍当局の話によりますと,マニトバ州内の一部の治安判事は,これらの人びとに対する明らかな事件をごく簡単に却下するため,戦事検閲は笑い草のようになっているとのことであります」。

「けがれのない生活を送っているおだやかな人びと…正直であるという良い評判のある人びと」を投獄しようとするところを想像してください。ひとりの役人に圧力をかけて,品位ある,志操の正しいクリスチャンたちに犯罪者の焼き印を押させ,獄に送り込もうとした僧職者たちは,なんと罪深いのでしょう。偉大な能力を持つ為政者であった古代の王ソロモンは,この僧職者たちに当てはまることばを述べています。彼は次のように言いました。

「悪者を義とし義者を悪しとするこの二つのものはエホバに憎まる」― 箴 17:15。

カナダの公認記録はまた,エホバの証人に対する僧職者の陰謀が,検閲や告発だけにとどまらなかったことを明らかにしています。つまり,エホバの証人の宗教礼拝にひとりのスパイを潜入させたのです。彼女の名前はミセス・ゼッケルと言いました。彼女は何を発見したでしょうか。政府の転覆を計る重大な陰謀でしたか。これらの真の信仰者たちのキリスト教礼拝を探った彼女の報告は,次のようなものでした。

「復活祭に何かを計画しているようです。そのことを彼らは集会で話していますが,象徴的なことばで話すので,それが何であるかは,つかめません」。

キリスト教世界の諸教会で,『復活祭に何かが計画される』ことは,子どもでさえ知っています。エホバの証人は復活祭は祝いませんが,イエス・キリストの死は,キリストのからだと血を表わす「象徴的なことば」,つまりパンとぶどう酒という表象物を用いて確かに祝います。そのように世界的に認められ,また聖書に基づいている儀式を,悪意のある陰謀と呼ぶとは,どのような精神状態でしょうか。

クリスチャンの回答

こうしてあらゆる圧力がエホバの証人に加えられていたとき,ニューヨーク市のブルックリンにあるエホバの証人の本部は陳情を行ない,公開状を国務大臣あてに送りました。その書簡も,公文書保管所に収められています。その内容の一部は次のとおりです。

「国務大臣は,時局柄公事に多忙でいられますため,これらの出版物を精読なさらず,その内容については,第三者の報告に依存しておられます。国務大臣がご存じであると否とにかかわらず,上記の出版物に対する中傷ならびに誹毀運動を指揮しているのは,カナダのある僧職階級であります。…

「イエスがピラトの前で不当な非難をあびた時,その支配者は,イエスに罪があるとは考えませんでしたが,当時の僧職者に動かされて,イエスを有罪とする行為に出ました。歴史はいくぶん繰り返しております。…

「僧職者の大多数には,人びとの間で人気を得たい,認められたいという欲望がしみ込んでおり,彼らが占める高い地位に伴う責務を完全に無視してきたかに思われます。聖書の教えにかんして人びとを正しく啓発する仕事を助ける代わりに,人類にさらに多くの足かせをかけ,人類を無知にとじ込めています」。

数週間後,エホバの証人の本部は,もう一通の書簡を作成しました。この書簡は,検閲部長に送られました。被告人の基本的権利である審理請求権をも顧慮せずに出版物を非とした不公正を同書簡は指摘しました。

「公平に言えば,聖書に関する問題の説明のみにささげられている出版物が発行禁止になる前には,その発行に責任を持つ当事者が通告ならびに審理を受け,同書発行の背後にある真の動機に政府当局の注意を促すことを許されてしかるべきであります」。

この書簡は,偉大な審判者エホバ神に全幅の信頼を寄せる真のクリスチャンの態度を示していました。というのは,その書簡は次のように述べていたからです。

「わたしたちは,主がそのみことばの中に示された音信を謙虚な気持ちで伝え,それに対して人びとの注意を促します。もし権力者たちがそれを人びとに伝えさせないようにするのであれば,彼らはその責任を負わねばなりません。しかもこれは人間に対する責任ではなく,神に対する責任であります。神は,その完全な知恵をもって,神独自のすぐれた仕方で,彼らを扱われるでありましょう」。

クリスチャンの勝利

歴史は,この問題が最後にどのように解決したかを示しています。1918年の11月に戦争は終わり,そのあと,これらのクリスチャンに対する禁令は解除され,僧職者たちはろうばいしました。自由を尊重し,少数者の宗教グループを含め,全カナダ人のためにその自由を守るべく良心的に努力した,カナダ政府の役人たちにより,僧職者の政治への干渉は排除されました。

「神は,その完全な知恵をもって,神独自のすぐれた仕方で,彼らを扱われる」という,エホバの証人の見方が正しかったことは,十分に立証されました。それ以後,再び伝道の自由を得たエホバの証人の活動は,急速な勢いでカナダに広まりました。エホバの証人が聖書の原則を堅く守るということは,カナダでは周知の事実となり,官吏を含め,多くの心ある市民の尊敬を得ました。人間の唯一の希望として神の王国を宣べ伝える彼らの公の奉仕は大きな祝福をもたらし,さらに多くのカナダ人がエホバの証人のわざに加わる結果となりました。

この霊的繁栄と活動は,僧職者や教会の状態と比較され,注目されはじめました。教会はまたもやエホバの証人を圧迫する手段をさがしはじめました。オタワの公文書は,彼らの演じた役割をあらわに示しています。ではどんなことが起きたのでしょうか。

非合法化されたエホバの証人

第2次世界大戦のとき連合国側を支援していた西側諸国にとって,1940年の夏は暗黒の時でした。ヒトラーの軍隊はヨーロッパの大部分をじゅうりんし,フランスは数週間で降服しました。

ヨーロッパにおける連合国の敗北は,カナダ全土に衝撃を与えました。興奮,恐怖,疑惑が人びとをとらえました。

この緊張した空気の中で,ケベック市出身のカトリック教徒であった,司法相アーネスト・ラポイントは,1940年7月4日の下院で立ち上がり,次の発表を行ないました。

「エホバの証人として知られている組織を非合法とする総督令を下院に提出したいと考えます」。

迫害の波がたちはじまる

禁令が出されると直ちに,それら罪のないクリスチャンたちに対して迫害の波が寄せはじめました。そのすぐ翌日から,騎馬警官がクリスチャンたちの私宅や集会所に踏み込みはじめました。エホバの証人は,聖書教義書を所持しているというだけの理由で逮捕され投獄されました。彼らはそうした書籍を何年も前から個人の蔵書として所有していたのです。

ある地域では,その迫害は,まるで国家の転覆を計る者たちを捜索するかのようなやり方で行なわれました。ケベック市では,主の夕食(教会は「聖ざん式」と呼ぶ)を祝うための集まりが解散させられました。子どもたちは放校されたり,神を恐れる両親から引き離されたりしました。多数の証人が告訴され投獄されました。

しかし,それほどの迫害を受けましたが,それらのクリスチャンは,なんらかの悪を行なったという理由で罪に処されたのではありません。エホバの証人であるというだけの理由で罰せられたのです。

サスカチェワン州選出の下院議員,ジョン・ジーフェンベーカーは,次のように述べてこの問題に下院の注意を引きました。

「500人余のエホバの証人が検挙されているが,破壊活動と関係のあった者はひとりもいない。カナダ防衛条例によって禁止された組織に所属するというだけの罪である」。

その禁令は,一般の人びとの激しい批判を呼びました。政府の高官を含め,多くのカナダ市民の目には,それら謙そんなクリスチャンたちに対するその悪らつな運動が全く不条理なものであることは明らかでした。バンクーバー出身のアングス・マックイニス下院議員は,下院で次のように述べました。

「カナダ防衛条例によるエホバの証人の検挙と迫害は,わが国の,また司法省の,そしてカナダ国民の,永久に消えぬ不名誉となることを,私は心底から申し上げたいと思う。

「私のつづりの中には,これらの人びとが聖ざん式を行なう目的で集まったモントリオール市での宗教集会で生じた事件にかんする報告書がある。その場所は10人の騎馬警官に踏み込まれた。…

「つい最近,ローマ・カトリック教会はオタワの街頭で祝祭を行なったが,あのようなときに,こうしたことが起きていたとしたらどうか。われわれは[天をも]ゆるがすほどの抗議を行なうにちがいない。

「国内の一つの宗教組織に与えられている権利は,すべての宗教組織に与えられねばならない。さもなければ,カナダに宗教の自由はない。エホバの証人をなぜこのように迫害し続けねばならないのか,私には理解できない」。

もうひとりの下院議員で,ブリティシュ・コロンビア州選出のA・W・ニール氏も,エホバの証人に関する自分自身の知識にもとづき,次のように述べました。

「私はこれらの人びとを幾人か知っている。彼らは私の家の近くに住んでいる。私は彼らの間に不忠義な行為を見たことは一度もないし,ほかの人がエホバの証人に対してその種の非難をあびせるのを聞いたこともない。彼らは一種独特の宗教的信念をいだいていて,それには私は共鳴できない。しかし,それだから彼らは害悪を流す者であるとか破壊的だとか言うことはできない。…

「私の選挙区にも多数の証人がおり,私はこの人たちをかなりよく知っているが,私の知っている限りでは,彼らは品位ある尊敬すべき人びとと言える。彼らがどんな宗教的信念をいだいていようと,それは問題外である」。

エホバの証人をまっ消しようとの努力にもかかわらず,彼らは神から与えられた奉仕を続行しました。聖書教義書を押えられたので,彼らは聖書を用いて戸別に伝道し,人びとに聖句を読み聞かせながら,神の新秩序のすばらしい希望を示して人びとを慰めました。集会も,一般の集会場ではなく,個人の家で引き続き行なわれました。

また,カナダ全土の多くの心ある人びとは,エホバの証人が圧迫,逮捕,虐待されていたにもかかわらず,証人に対するその反対がごまかしであることを見抜いていました。そして,忠実なクリスチャンたちが,神の律法を守るための強力な戦いをしているのを見ました。その結果,カナダにおけるエホバの証人の数は,以前よりも急速に増加しました。

政府委員会の発言

この禁令は,ローマ・カトリック教徒であったラポイント司法相により,きわめて独断的な方法で課されました。エホバの証人たちには何の通告もなく,発言の機会,つまり自己を弁明する機会も与えられませんでした。

ラポイントは,検察官,裁判官,陪審員の役を演じました。カナダ防衛条例の変更を勧告するための下院議員の委員会が任命されましたが,ラポイントはその委員会を無視して,1940年7月4日に,禁令を発しました。

しかし,1942年になって,下院特別委員会は,カナダ防衛条例の下で何が行なわれているかを再検討するために,公聴会を開きました。同委員会は,公平な審理を行なったのち,1942年7月23日,満場一致で,禁令の解除を勧告しました。次に掲げるのは,同委員会が述べた意見の一部で,下院の公式討論がそのまま記録されたものです。

「司法省は,エホバの証人を非合法組織としなければならないことを示す証拠を委員会に提出したことは一度もない」。

「人びとが自己の宗教的確信のゆえに,これらの気の毒な人びとが検挙されたと同じ仕方で検挙されねばならないということは,カナダ自治領にとって不名誉なことである」。

延期に高まる怒り

政府に対するこの満場一致の勧告は,1942年7月に行なわれました。しかし司法相はそれを無視したのです!

その時までには司法相が,ルイス・St.ローレントに変わっていたことは事実です。彼はそれ以前に,つまり1941年12月に司法省にはいっていました。しかし,St.ローレントもまたケベック市出身のローマ・カトリック教徒でした。彼はがんとして禁令を解こうとはしませんでした。

勧告を無視された特別委員会のメンバーは非常に怒りました。この問題が下院で再び討議されたとき,彼らは声を大にして抗議しました。公認記録には,アングス・マックイニス下院議員の次のような発言がのっています。

「このことは依然として事実である。つまり,エホバの証人の組織の非合法化を正当化する証拠は,当委員会に提出されていないということである。私の意見では,この禁令を存続させているのは,明らかに,純然たる宗教的偏見である」。

これに加えて,アケージア出身の下院議員ビクター・クェルチ氏は,次のような意見を述べました。

「確かに,エホバの証人に対するこの措置は,彼らの態度が国家をくつがえす性質のものであるというのではなく,ローマ・カトリックに対する彼らの態度が大きな原因ではないかという疑問が湧く。…

「カナダ中のどこに行ってもこの質問がされる。私はカナダ中からこの質問を受けている」。

これらの意見はしだいに事実に迫っていました。それはやがてごうごうたる非難に変わりました。それらの非難の骨子は,エホバの証人はローマ・カトリックの要求によって迫害されているというものでした。

仮面はしだいにはがされていきました。しかし教会は,政治に手を出していることを表ざたにされるわけにはいきません。司法相St.ローレントは,問題をおおい隠す必要を感じました。かくして1943年10月14日,第2次世界大戦のたけなわの時に,禁令は解かれました。

歴史的に重大な時期であったあの当時,そのように態度を変えるということは,実に驚くべきことでした。それは実際に,エホバの証人に対する措置が,全く根拠のないものであったことを認めたも同然でした。

しかし,禁令を解くことによって,背後工作の事実は隠しおおせたでしょうか。それは不可能でした。

カナダの公文書が公開されるにおよんで,実際にどんなことが起きたのかが明らかになりました。迫害の真の理由はどこにあったのでしょうか。

明らかにされた真の理由

第2次世界大戦中,カナダのエホバの証人が迫害された真の理由はどこにあったでしょうか。迫害の背後で実際にどんなことが行なわれていたでしょうか。なぜふたりの司法相はともに,政府をそのような困難な立場に引き込んだのでしょうか。

思い出されるのは,司法相アーネスト・ラポイントおよびルイス・St.ローレントが,ふたりともケベック市出身のローマ・カトリック教徒であったということです。カナダの著名な作家,ヒュー・マクレナンは,ケベック州における支配権力について,次のように述べています。

「真の権力は立法議会にあらずしてローマ・カトリック教会にある」。

政策を実際に指示することができた人物は,ローマ・カトリック枢機卿,ロドリゲ・ビレヌーブでした。アーネスト・ラポイントがカナダの司法相になった時,そう明な人びとは,彼がなによりもまず,カトリック教会の代表であることを知っていました。

政府公文書は事実を明らかにしている

今や一般に公開された公文書は事実を明らかにしています。それらの公文書が示すところによると,ラポイントは戦前においてさえ,カトリック団体から,エホバの証人の活動を阻止せよと,しきりに要求されていました。戦争はかっこうの隠れみのとなりました。司法相は,ローマ・カトリック教会の陰謀がこれでおおい隠せると考えました。

枢機卿官舎から,ラポイント個人の秘書あてに送られた,フランス語で書かれた下記の手紙は,問題の核心に触れるものでした。それは,1940年6月27日に,ケベック大司教官区宗教法顧問,ポール・ベルニールがしたためたものでした。

「拝啓

「枢機卿猊下は,同封の,ものみの塔すなわちエホバの証人の刊行物にかんするケベック州の指導的新聞の社説に,司法相アーネスト・ラポイント閣下のご注意を貴下より促されんことを希望していられます。

「ある書籍やパンフレットが最近再び人びとのもとに郵送され始めています。なかでも定期刊行物である『慰め』は,最もよく国民の精神力をくじきかつ破壊するものです。

「当書簡に対する貴下のよきお取り計らいを期待し,前もって感謝の意を表します。

敬具

宗教法顧問

ポール・ベルニール」。

枢機卿の事務所がその書簡に同封した「指導的新聞の社説」というのは,ラクション・カトリック紙の社説でした。同紙はケベックのカトリック教階制度の公式の代弁者でした。その社説の内容は次のとおりでした。

「サボタージュのことが盛んに話題にのぼっている」。

「建造中の船を爆破しそうな人物や破壊活動その他に対する,厳重な監視が続けられているのには十分の理由がある。しかし,それよりもさらに危険なサボタージュの扇動者がいる。それは,革命思想を植えつけ,反感を燃え立たせて,人びとの思いと心を破壊活動に向けさせるやからである。

「これらの公共の敵のうち,エホバの証人とその手先ほど偽善的で大きな害悪を流す者はいない。

「この危険な宗派は,教区内で,いなかで,あるいは町で,夜となく昼となく,その有害な小冊子を配布している。…

「事情がどうあろうと,当局は,この地域の民衆を保護すべく,対策をさらに強化すべきことを,われわれはためらわずに言明する」。

ラポイント個人の秘書に送られたこの社説および書簡は,現実には,エホバの証人を非合法化せよ,というラポイントに対する枢機卿の命令でした。ラポイントは,自己の権力が枢機卿に依存していることを知っていたので,すぐにそれに応じました。

敏速な応答

この秘密と陰謀のドラマのなかで次に出てくるのは,1週間後の1940年7月4日に,枢機卿の官舎に送られた次の書簡です。それはラポイント司法相個人の秘書によって書かれたもので,あて先は,教会法顧問,ポール・ベルニールでした。それには次のように書かれていました。

「教会法顧問殿へ

「6月27日付のお手紙を拝見し,直ちに枢機卿猊下のご希望どおり,顧問のご説明ならびに,ラクション・カトリック紙に掲載された,ものみの塔,エホバの証人,慰め等に関する社説につき司法相にお話しいたしました。

「上記のエホバの証人の組織を,今日をもって非合法化するという秘密情報を電話で顧問にお伝えし,枢機卿猊下にご通知申し上げるようにとのラポイント氏よりの許しを得ました。

「この手紙は,ただいま電話でお伝えいたしました事項を確認するものであります。

「エホバの証人にかんする省令につきましては,枢機卿貌下に正式にご通知申し上げるものと存じます。

「つつしんで御礼申し上げます。

敬具」。

この手紙には,ラポイント個人の秘書の署名があります。ですから,枢機卿の要求があってからエホバの証人が非合法化されるまで,1週間しかかかっていないことになります。

こうして,いまや真実は,政府の公認記録から明らかになりました。エホバの証人の非合法化は,ケベック市のローマ・カトリック枢機卿官舎から直接に指揮されたのです。

この問題において,僧職者たちは,なんと恥ずべき記録を作り上げたのでしょう。宗教上の敵による偽りの非難,秘密書類,ひそかに加えられる圧力,回答する機会のはく奪,専断的に発せられた,神を崇拝する自由を破壊するための法令。これらは,現代において,カナダのローマ・カトリック教階制度が,神のことばの真理を恐れずに宣べ伝える罪なき人びとを害するために用いた,悪名高い異端審問の忌むべき悪らつな策略の数々です。

この事から何を学ぶか

カナダ政府自身の公文書から明らかになった以上の事がらは,全く罪のない人びとも,このようにして迫害されることがあるということを示しています。公義を行なうという基本的責務を自覚している政府なら,法の陰に隠れてそのような悪事を働くことを望まないでしょう。少数者に対する不公正は,法律と政府の両方に悪評をもたらします。

公権の乱用に気づき,それを阻止したことは,公共心に富んだカナダ国会議員たちの名誉です。公義のために発言したそれらの人びとのき然とした態度は称賛に価します。しかし残念なことに,時期がおそすぎて,非合法化の結果による多くの恥ずべき不公正を防ぐことができませんでした。

これらの事件は,宗教の選択が,人間の政府の果たすべき役割でないことを示すものです。信仰は法によって律したり命令したりできるものではありません。したがって公職にある人びとは,崇拝の自由を妨げるよう圧力を加えられる場合,それを制止すべきです。彼らは,ホームズ判事の理性的な精神を取り入れるべきです。彼は次のように言いました。「真理の最善のテストは,競争場裡で自らを受け入れさせる思想の力である」。

このことばは,イエス・キリストの使徒たちに浴びせられた非難を裁くために座した,ずっと昔の裁判官ガマリエルの忠告に含まれていた知恵とよく似ています。ガマリエルは,法廷に同席していた人びとに次のように言いました。

「この人たちに手出しせず,彼らをほっておきなさい。(このはかりごと,またこの業が人間から出たものであれば,それは覆されるからです。しかし,それが神からのものであるとすれば,あなたがたは彼らを覆すことはできません。)さもないと,あなたがたは,実際には神に対して戦う者となってしまうかもしれません」― 使行 5:38,39,新。

カナダで生じたのはまさにこのことでした。教会の指導者たちは確かに,神により命じられたわざに反対しました。したがって神に反対して戦いました。神に対して戦う者が負けるのは必定です。その証拠は,今日カナダにおける教会,とりわけカトリック教会が急速に衰退しつつある事実に見られます。多数の司祭,修道女,牧師,神学生,一般信徒が教会を離れていっています。

多くのカナダ人が現在直面しているのは次の問題です。つまりこのような教会組織を引き続き支持することによりそれらの宗教が自由に対して犯した,そうです,神のご意志を行なうべく努力していた人びとに対して犯した罪を是認するかどうかということです。多くの人びとは,そのような罪の汚名からのがれることを望んでいます。

今日,カナダにおけるエホバの証人の活動は,かつてないほどに発展しています。これほど多くの人びとが集会に出席したことはありません。なぜでしょうか。なぜなら,エホバの証人は,ほんとうに聖書の内容を勉強し,教え,またその原則に誠実に従って生活することがよく知られるようになったからです。

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