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目ざめよ! 1974
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ヒンズー教徒がクリスチャンになる場合

インドの「目ざめよ!」通信員

道端にはかわいそうなこじきたちが列をなしています。パーショッタム・ペーテルは,自分がこれからはいろうとする建物の壮麗さとこの光景とをくらべて見ないわけにはいきません。彼はドアのところにある容器に指をひたし,それをひたいにつけます。内にはいると,薄やみの中に多くの灯火がゆらめいていて,奥まったところに安置された,崇拝の対象である聖人たちの像を照らし出しています。あたりには香のかおりがたちこめ,どこからともなく聖なる音楽が聞こえてきます。

ペーテルは自分が拝みたいと思っていた像の前に進みます。像には女の像もあれば男の像もあります。彼は他の参けい者たちといっしょになって礼拝を行ない,心のうちにある問題 ― たいてい個人的な問題 ― について一心に祈願します。三度像に触れ,触れるたびにその手を自分のひたいと胸にもどします。彼が信心深い人であることに疑問はありません。

ペーテルの宗教はどの宗教なのだろう,とお考えですか。明らかにカトリック教徒だ,とあなたはおっしゃるかもしれません。しかしもしあなたがヒンズー教徒であれば,彼は明らかにヒンズー教徒だ,と言われるでしょう。上記の描写は,どちらの礼拝所にも当てはまると聞けば,あなたは驚かれますか。

インドではカトリックの礼拝とヒンズー教の礼拝とが非常によく似ているので,ヒンズー教徒はよく,両方の宗教は一つで同じである,ただ神々の名前がちがうだけだと言います。事実ペーテルは,多くのヒンズー教徒が習慣にしているように,ヒンズー教寺院にも参けいすれば,カトリック教会の礼拝にも出ていました。

礼拝における類似点

4億以上の信徒を擁するインドのヒンズー教は,同国内の1,000万にのぼる自称クリスチャンたちに強い影響を及ぼしました。教会は礼拝を「インド化」したと主張します。しかし教会員は,礼拝は「ヒンズー教化」されてきた,と言うのが常です。

あるカトリック教会にヒンズー教の儀式が導入されたことについて,南部インドの新聞マラヤラ・マノラマは次のように述べました。「ミサはヒンズー教のプージャ(礼拝)と全く同じ形式で行なわれた。賛美歌と歌は歌詞も曲も,ヒンズー教徒の唱える経文のそれによく似ていた。使われる象徴もヒンズー教寺院のものと同じであった」。ケララ州のカトリック教会機関紙ディーピカも同様に,ある指導的な司祭が述べたものとして,「われわれは,時宜を得た変化を行ないながらも依然として婆羅門の習慣に従っている」ということばを引用しました。

ここのヒンズー教徒は,彼らの神をかつぎ,騒々しい音楽と激しい踊りを伴って街路を練り歩きます。カトリック教徒も同じように彼らの聖人の像をかつぎ,行列を作って町を行進します。いくつかの教会では司祭たちが鮮黄色の衣をまとい頭髪を長く伸ばしています。ディワリと呼ばれるヒンズー教徒の主要な祭りの時には,ちょうちんや「星」がふんだんに使われます。それからしばらくしてクリスマスになると,クリスチャンと称する人たちはそれと同じ装飾用照明を使います。

「クリスチャン」の婦人たちは「クム・クム」という赤い粉でひたいに丸いしるしをつけます。これはヒンズー教の階級を示すしるしです。南部インドにあるバイランカンニの聖母の寺院では,願をかけたカトリック教徒は,お寺で願をかけたヒンズー教徒と同じように,頭髪とあごひげをそります。ここでも,成人した女の子たちのために,耳に穴をあける式や特別の儀式が行なわれます。結婚式その他の重要なできごとのあるときには,インドの習慣である星占いによって縁起のよい日取りが決められます。

礼拝にこうした類似点や他の多くの類似点があるので,ヒンズー教徒は,エホバの証人が伝道で訪問すると,「わたしたちの宗教は全部同じです。あなたたちクリスチャンは神のことをイエスと呼び,わたしたちは同じ神を別の名前で呼ぶのです」と言います。

パーショッタム・ペーテルもそのように考えていました。ヒンズー教の家庭に生まれながらカトリック教徒になった理由を彼はこう説明しました。「わたしの望みは天に行くことでした。ヒンズー教では,それまでにはかりしれない長い時間がかかります。しかしカトリック教では,死ぬと同時に天に行けることもあると司祭は言いました。ですからカトリック教徒になることは,わたしの目的である天に行く近道にすぎないのです」。しかし宗教を変えても,それに応じて生き方を変えたわけではありません。それどころか,「カトリックになったら,この世的な生活が以前よりも自由になった」と彼は言いました。

聖書の真理は人の生活を変える

しかし,人が真のクリスチャンになる場合は違います。その人の生活はほんとうに変化します。そのよい例は,ケララ州エルナクラムの近くに住んでいた30歳の信仰の厚いインド婦人ラサです。

彼女の女神カーリーへの信仰は非常なものでしたから,彼女は時々神がかりになりました。その女神が彼女にのりうつるときには九日前に予告がありました。その間彼女は果物だけを食べ,その期間の終わりごろになってビンロウジの実を少し食べました。するとカーリーはすぐに彼女にのりうつりました。

カーリーは血の女神でしたから,ラサの姉妹たちは血が流れ出るまでラサの両の足を切りました。神がのりうつっている時間は1時間でした。その間に,精神病の人をも含め多くの病人が連れてこられていやしを受けました。また盗まれた品物のことについても情報を与え,それがまた当たりました。彼女のその超能力は18年間彼女と彼女の家族の生活のおもな支えでした。もっとも彼女はよく知られた踊りの師匠でもありました。

ところがラサの姉妹のひとりがエホバの証人と聖書の勉強を始めました。そのうちにラサも勉強に加わり,聖書の知識を取り入れる面でよく進歩しました。そして彼女にのりうつったのは粘土でできた神ではなく,実際には,目に見えない悪霊たちであることを悟るようになりました。―エフェソス 6:11,12。

彼女は庭の中のインドセンダンの木の周りにあった,カーリー崇拝に用いた多くの石を捨てました。センダンはすぐに枯れてしまい,近所の人たちはカーリーが彼女から離れたことを知りました。家族全部が圧迫から解放されました。

ラサは,神がお立てになる,近づきつつある正義の新秩序についての聖書の約束を学ぶことにもっと多くの時間を用いたいと考え,踊りを教えることもやめました。(ペテロ第二 3:13)今彼女は,ココヤシでひしゃくやスプーンを作る仕事から収入を得ています。そして真の神を知ったこと,またそのことが彼女にもたらした幸福を心から喜び感謝しています。

家族の問題も正される

不幸な家庭の状態が正された人たちの中に,南部インドに住むV・T・デバシアとインド人の友人サビトリがいます。ある期間聖書の勉強をしたあと,二人はエホバへの献身を希望する段階にまできました。しかしデバシアは以前カトリック教徒のマリアという婦人と結婚していました。彼女との間に二人の子どもがいましたがデバシアは彼女を捨て,サビトリと同棲し,彼女によってやはり二人の子どもをもうけました。

その土地のエホバの証人の会衆の長老たちから,夫はただ一人の妻を持つのが正しいという聖書の原則を説明されたとき,デバシアは妻のマリアともう一度いっしょになることを決心しました。それは,神のことばの真理を理解する点で彼とともに進歩していたサビトリと別れねばならないことを意味しました。デバシアとサビトリは心からエホバに導きを祈り求めました。

一方,長老たちはマリアと連絡を取り,事情を説明しました。愛する夫のもとに帰れることを知ったときの彼女の喜びはとどまるところをしりませんでした。夫が彼女を捨てたとき,カトリックの司祭も警察官も何の助けにもならなかったので,こういうことになるとは夢にも思っていなかったのです。

デバシアとサビトリが別れる決意をしたとき,サビトリはマリアに手紙を書き,エホバの証人になりたいので進んでデバシアと別れること,そしてデバシアが正妻のもとに帰るのを望んでいるということを説明しました。別離の時は来ました。それは,マリアとサビトリが暖かい愛をもって互いを抱擁した深い感激のときでした。

マリアとの聖書の勉強が取り決められました。マリアは夫や子どもたちといっしょにエホバの証人の集会に出席しています。自分の夫と思われていた男性が,同じ集会所の中で正妻といっしょにすわっているのを見るときのサビトリの気持ちは十分想像できるでしょう。聖書の真理はたしかに高潔な性格を築き,破壊した家庭を愛のきずなで再び結びつけます。

改宗は困難なわざ

家族の圧力はヒンズー教徒が改宗することをしばしば困難なものにします。バンガロール州に住むY・N・ブシャンの場合がそうでした。彼はヒンズー教徒でしたから,悪人とみなされる者は「地獄」へ行き,そこで責苦に遭うと理解していました。その責苦には,火の上を強制的に歩かされること,湯の煮えたぎるかまの中に入れられること,からだをたてにまっぷたつに断ち割られることなどが含まれていました。しかしブシャンは,遺体は火葬にされて灰になってしまうのに,どうして肉体がそのような責苦に遭うのかわかりませんでした。

ヒンズー教の教理がそのように混乱していたので,ブシャンは聖書の勉強を通して真理を探し求めました。簡単でめいりょうな聖書のことばは彼によく理解できました。その結果彼は,親せきからつまはじきされることは分かっていましたが,崇拝の形式を変えました。―伝道 9:5,10。ヨハネ 5:28,29。

ビーラマニ・イヤールも,家族の宗教的伝統から離れるのに非常な困難を経験しました。彼は婆羅門(僧職)の家の出で,彼の妻の父親も婆羅門教の僧侶でした。彼の話によると,彼が真のキリスト教に改宗したので,両親は失望しました。「しかし私には,親族に喜ばれることよりも聖書の原則のほうが大切でした」と彼は言いました。

宗教上の習慣を捨てる

一般に行なわれている宗教上の習慣を捨てるのはしばしばとくにむずかしいことです。たとえば,ヒンズー教徒の既婚婦人は「サリー」と呼ばれる首飾りをかけています。この首飾りにはかなり深い意味があります。

「サリー」ということばには「縛る」という意味がありますから,結婚式の時に与えられるこの首飾りは,それをかけている人が既婚者であることを示す見えるしるしとなります。これをはずすということは,その女性がよくないタイプの女性であるか,または結婚が破たんしたことを意味します。しかしサリーには,それをかけている人がどの神を崇拝しているかを示すものを彫り込んだ連もあります。ですからサリーをはずすことは自分の神を捨てることを示します。教会員のなかにもこのサリーをかける人たちがいますが,それにはヒンズー教の神の象徴の代わりに十字架が刻まれています。

このようにサリーには宗教的な意味があるために,クリスチャンになる人は,引き続きサリーをかけているかどうかを決定することが必要になってきます。これは,エホバの証人がヒンズー教徒の家庭で聖書の勉強をするときに,夫にも勉強に加わるようにいっしょうけんめいに勧める理由のひとつです。そうすれば,妻がサリーに宗教的意義があることを知ってそれをはずしたとしても,夫は妻が結婚を解消しようとしているのでないことがわかるからです。それは彼女が今エホバを崇拝していて偶像崇拝を認めないことを示すにすぎません。

クリスチャンになった婦人たちが捨てるもう一つの習慣は,「クム・クム」と呼ばれる粉,たいてい赤色ですが,これでひたいに丸いしるしをつけることです。もともとこれは階級を示すためのものでしたが,今日のモダンなインド婦人の多くは飾りとしてつけます。しかしヒンズー教と関係のあるものなので,クリスチャンの婦人は使うことを好みません。

土地の習慣を維持する

しかし同時に,エホバの証人になれば聖書と矛盾しない土地の習慣まで捨てなければならない,というのではありません。インドのクリスチャン婦人のほとんどは,土地の習慣に従って,夫といっしょに食事をしません。妻は夫が食事を終えたあとでなければ食べないのです。また,女性たちのいるところへ男性たちがはいってくると,女性たちはサリーで頭をおおいます。

ほかにもクリスチャンの家庭で守られている土地の習慣がたくさんあります。たとえば,家にはいるときには,家人も客人もくつを脱いで入口のところへ置いておくのが習慣です。食事の時には家族はたいてい床の上にすわり,指で物を食べます。しかし食べることには右手の指しか使いません。タミル・ナドゥのように,地方によっては牛肉を食べることを非常に嫌います。この地方の人びとはクリスチャンになっても,やはり牛肉を食べることはたいていの人が嫌うようです。合掌して祈るような姿勢で,「ナマステー」と言うインド特有のあいさつの仕方も普通に行なわれます。こうして,クリスチャンもこれらの習慣や他の多くの土地の習慣を行なっていて,彼らが確かにインド人であることを示しています。

新しい生き方

一般的な外見は,ヒンズー教徒であるか,あるいは真のクリスチャンであるか見分けがつかないかもしれませんが,生き方においてはそれがわかるでしょう。パーショッタム・ペーテルは友だちと定期的に聖書の勉強を始めたときにそのことを発見しました。

ヒンズー教徒やカトリック教徒であることの邪魔には少しもならなかったとばくや酔酒などのこの世的な習慣が,エホバ神の崇拝においては占めるべき場所が全くないことをペーテルはすぐに知りました。彼にとってはそれは新しい生き方をすること,新しい友人たちを得ることを意味しましたが,また真の神エホバとの関係をいっそう良いものにするよう進歩することでもありました。現在の彼は,無を意味する涅槃ではなく,エホバ神の愛ある目的に一致してまもなく地球が楽園になるときに,そこで永遠に生きるということに希望を置いています。―詩 37:29。啓示 21:3,4。

ヒンズー教徒は「改宗」に対して敏感です。教会が過去においてヒンズー教徒を彼らの宗教に改宗させるのに実力を行使したことを彼らは知っているのです。近年になってからは,チーズ,粉ミルクその他これに類する品物など,食物のわいろが,貧しい人たちや飢えた人たちを教会にこさせるためにしばしば用いられますが,当然のことながらヒンズー教徒たちはこれを嫌います。しかしエホバの証人になる人たちは,自分自身が真の神を崇拝することを望むがゆえにエホバの証人になるのであって,強制されたり,利己的な理由からなるのではありません。

今日,インドの多くの地方で,また世界のいろいろな場所で,ヒンズー教徒が真の神エホバのクリスチャン証人となりつつあります。家族や地域社会の反対のために,これはしばしば容易なことではありませんが,崇拝者たちに永遠の命を約束する偉大な創造者を知りかつ仕えることの大きな喜びが彼らを動かすのです。―ヨハネ 17:3。

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