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目ざめよ! 1975
目75 4/22 21–24ページ

ソロモン諸島の富

パプア・ニューギニアの「目ざめよ!」通信員

『ソロモン王の宝庫』つまり聖書のソロモン王の富の想像上の源についてお聞きになったことがありますか。ある伝説によると,そのような“宝庫”はアフリカもしくはアジアのどこかにあるとされています。しかし,16世紀当時のスペインでは,この膨大な宝庫は南方の秘密の大陸にあると広く信じられていました。

1568年,スペインの船乗りアルバーロ・デ・メンダニャ・デ・ネーラの率いる小艦隊は,宝を豊富に秘めたその“大陸”を南太平洋上に探し求めました。その結果,メンダニャは一連の島々を発見し,それが“ソロモンの島々”と呼ばれるようになりました。しかしメンダニャは,自ら命名したその島々の名にふさわしい秘宝は何も発見しませんでした。その島々が産出したものといえば,せいぜい少量の金その他の貴金属だけでした。

第二次世界大戦中,激しい戦闘で静けさを破られたソロモン諸島は。不本意な別の意味で有名になりました。方々に見られるざん壕の輪郭や島々に散乱している,さびついた薬きょうなどが,ジャングルの中で行なわれた近代戦の傷痕を今なお留めています。戦後,ソロモン諸島は熱帯ののんびりした生活の場に戻るかに見えましたが,最近起きた予想外の一連の出来事によって,メンダニャの宝探しに関する記憶がよみがえらされました。それはどうしてですか。

1963年のある日,ソロモン諸島最大の島ブーガンビルの主要な居留地である小さな町キエタの沖にクレースター号という船がいかりを降ろした時にすべてが始まりました。同船の甲板からはヘリコプターが一機舞い上がり,奥地に向かって25㌔ほど飛んでパングナ峡谷に着きました。その地区からはかつて幾らかの金が発見されましたが,それは大規模な採鉱を可能にするほどのものではありませんでした。ところが,このたびは“銅”ということばが人々の興奮を引き起こすものとなりました。

1963年のその日になされた決定の結果,大規模な採鉱が進められることになり,またそのためパプア・ニューギニア地区にはかなりの産業が興されることになりました。それというのも,ソロモン諸島の最北端にあるブーガンビルとブカの両島はパプアと共に,オーストラリア政府管轄下のニューギニア信託統治領の一部をなしているからです。

銅や金を含む,推定埋蔵量8億8,000万㌧に上る原鉱は,一時国際的な企業の関心を引き起こしました。今やソロモン諸島の地下の宝庫に眠る銅の採鉱が始まりました。これは単に天然の金塊やきらめく宝石をどっさり手に入れたいと考えたメンダニャの夢とは何と異なっているのでしょう!

必要となった大規模な準備

ブーガンビルには産業はほとんどなく,7万8,000人の住民の大半が従事しているのは自給農業だけですから,銅の採鉱を行なうには必然的に大規模な準備を要しました。まず,海岸からパングナまで自由に行き来できる道路を切り開かねばなりませんでした。ブーガンビルの気候とけわしい山地の地形を考えると,それは容易な仕事ではありませんでした。

その工事に伴う困難を想像してみてください。一つの点として,この地方では一年のうちで最も乾燥している月でさえ170㍉の雨が降ります。それに加えて,標高1,000㍍の峠を越え,けわしい斜面を迂回する道路を建設しなければなりませんでした。それには,2台のブルドーザーを鎖でつないで作業を進めなければならず,時には谷底に突っ込まないよう後方のブルドーザーに抑えさせ,そのけん引力を頼みの綱にして前方のブルドーザーにけわしい斜面の端を横断させなければなりませんでした。

水力を利用する施設を操作するには大量の水が必要でしたが,口径70㌢のパイプラインを持つポンプ場をジャバ川沿いに建設することによってその必要が満たされました。また,四六時中必要とされる電力の需要に答え応じるため,25㌔離れたアネワ湾に135メガワットの発電所が建設されました。また,アネワ湾は,全長75㍍の新しい岩壁に4万㌧までの船舶が接岸できるようにするため,浚渫が行なわれました。

ブーガンビルの地下から採取された貴重な金属の最初の積荷が,日本やスペインそして西ドイツなどの取引先に送り出せるようになるまでには,調査や準備工事に合計9年を費やしたうえに4億オーストラリア・ドル(約1,788億円)もの費用が投じられました。

ジャングルを背景にして行なわれる銅の採鉱

緑のおい茂るジャングルのただ中で銅の採鉱が行なわれている様子を思い浮かべることができますか。ブーガンビルには世界最大の銅の露天掘り採掘場の一つがあります。近くの丘の見晴しの良い所に立てば,オーストラリアのシドニー全市街ほどの大規模な採掘現場が眺められます。地面を粉砕して採掘しやすくするため爆薬を入れる深さ18㍍ほどの穴を穿孔機で掘さくしています。

ここでの採掘作業には相当の費用がかかります。採掘を行なうために6台の巨大なパワー・ショベルと各々100トンの原鉱を輸送できる52台のトラックが使われていますが,この装備を整えるだけでも1,300万オーストラリア・ドル(約58億1,100万円)もの費用がかかりました。ひとたび地面が採掘されやすい状態になると,パワー・ショベルが動き始め,膨大な量の原鉱をすくい上げて,待ち受けているトラックの上に吐き出します。それらのトラックの積載量は相当なものですが,それにもかかわらずわずか4回原鉱をすくい上げるだけで1台のトラックに鉱石が満載されてしまいます。

次いで,原鉱は3台ある破砕機のうちの最初の機械の所に運ばれます。最初の破砕機に毎日投入される16万㌧の原鉱のうち,銅の精鉱となるのはわずか9万㌧だけです。原鉱は第二の破砕機を通って15センチほどの小さな鉱石にされ,それからもう1台の破砕機にかけられてさらに小さな固まりになります。そのような固まりとなった鉱石は作業の次の段階,つまり粉砕処理を経るために大きな建物に運ばれてゆきます。

12台の粉砕機には,直径がだいたい7センチ(テニス・ボール大)の鋼鉄製の球が用いられています。それらの球は原鉱を細かく粉砕しますが,かなりの耐久力があるように見えても,そうした厳しい作業にはあまり長持ちすることはできません。最近,ここの採掘場の粉砕機で用いるために1万1,000㌧分のそのような球が入荷しましたが,わずか6か月でそのすべては消耗されてしまいます。

原鉱は粉砕機から濃縮機へと移され,そこで“収集剤”として知られるある種の化学薬品を含む溶液の中に浸されます。その溶液の中に空気のあわが送り込まれると収集剤は銅と共に表面に上がってきて,そこですくい取られます。この濃縮された銅溶液は,その後口径14㌢のパイプラインを通って,25㌔離れたアネワ湾にある貯蔵タンクに送られます。そして,海外の取引先にその濃縮銅を輸送する船が着くまでタンクの中に貯蔵されます。

地元の住民の受ける恩恵

ソロモン諸島における銅の採鉱は,非常な利益をもたらしてきました。1972年に初めて濃縮銅が出荷されて以来その生産は急速に増大し,1973年には1億5,800万オーストラリア・ドル(約706億2,600万円)もの収益を上げました。その全収益の恩恵にあずかるのはだれでしょうか。

現在のところ,オーストラリアのコンジンク・リオ・ティント社という大鉱業会社が全株式の52%を所有し,パプア・ニューギニア政府が他の20%の株式を持っています。そして,この豊かな宝庫の恩恵に浴する機会を与えられた9,000人余のパプア・ニューギニアの住民を含む一般の人たちが残りの株を保有しています。

できるだけ地元の人々を従業員として起用しようとする努力が払われた結果,別の形で人々に恩恵がもたらされました。トラックの運転手や事務員を初め,会社専従の医師に至るまで同鉱山のあらゆる部門でパプア・ニューギニア人が働いているのが見られます。また,現場訓練の取決めや見習いの機会そして各種の研修課程などの備えもあります。

持ち上がった幾つかの問題

しかし,採鉱事業は幾つかの問題をも引き起こしました。水がどす黒い色に濁っているのを一目見れば,世界の先進工業国ほど広範にわたるものではないにしても,ブーガンビルが今や汚染問題をかかえていることがわかります。廃棄物を使ってどんな作物を栽培できるかを知ろうとする実験により,この問題に真っ向から取り組む努力が払われています。そのために,小区画の土地が試験用地として使われ,同地方の野菜や熱帯の果物を栽培して,廃棄物の利用法や廃棄物を作物のよくできる土にするための処理方法の研究が進められています。

もう一つの問題は,一部の住民は世襲財産としての土地を強制的に放棄させられたことです。とはいえ,そのような人たちは自分の土地に対する補償金を得たので,それまでの農村風の住居の代わりに恒久的な家屋を購入することができました。なかには,日本製の新しいトラックを買えるほどの余分のお金をさえ持っていた人もいます。

それにもかかわらず,ブーガンビルの多数の人々,特に世襲財産をお金以上に価値あるものとみなす年配の世代のある人々は失望しています。その結果,開発当初土地の人々の感情が爆発しました。それで騒ぎを鎮めて作業を続行させるために機動隊が飛行機で送り込まれました。この問題に関する悪感情はまだ完全には収まっていません。

別の問題点は,ブーガンビルのある人々の持つ強力な分離主義的感情です。ある人々は,ニューギニア本土人よりも英国の保護領である南部ソロモン諸島の人々のほうが自分たちとの人種的なつながりが強いと感じています。色の黒いブーガンビルの人々が,比較的色の薄い本土の人々を軽蔑して呼ぶのは珍しいことではありません。予想どおり一部の人々は,ブーガンビルの富はパプアその他ニューギニアの他の地域の人々と分け合うよりも,むしろブーガンビル島の発展のために使われるべきであると主張しました。

こうした問題はどのようにして解決されるでしょうか。それはあとになってみないとわかりません。増し加えられた収益の源となったこの鉱山が,地元の住民に物質面で多くの益をもたらすことは疑いありません。賃金が上がることは多くの人々にとって生活水準の“変化”を意味します。しかし,“変化”するとはいっても必ずしも“より良い”変化を意味するわけではありません。物質面の繁栄はしばしば道徳的退廃を招いてきました。(テモテ第一 6:9,10)ソロモン諸島やニューギニアの人々はそのような退廃的な影響に抵抗できるでしょうか。それは時がたてば明らかになるでしょう。

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