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目ざめよ! 1975
目75 11/22 6–8ページ

わたしは命を目指す競争に参加することを選んだ

わたしは,1947年,アフリカのエリトリアにある小さな町で生まれました。二年後に母が死ぬと,わたしは,東方正教会の僧職者である祖父の下に預けられました。

成長するにつれて,宗教がわたしの主要な関心事となりました。わたしも僧職者になりたいと願ったので,祖父は,その準備としてわたしをある学校に入れました。

わたしは,僧職者になるという自分の目標を遂げるのを助けてくださるよう,しばしば神に祈りました。そして,自分の祈りが聞かれたことを示すしるしを求めました。しかし,何のしるしも見られなかった時,わたしは失望してしまい,時たつうちに,神は存在しないと考えるようにさえなりました。

それで,わたしは1960年に学校をやめる決意をしました。徒歩で四日間旅行し,やっと家にたどり着きましたが,祖父がどんな反応をしたかは想像していただけると思います。しかし,僧職者になるための勉強を続けないという自分の気持ちは変わりませんでした。わたしの注意は別の方向に向けられました。

自転車競走選手としての生活

わたしは,自転車修理工としての仕事を見付け,その結果,自転車競技に興味を持つようになりました。自転車競技のチャンピオンになれるだろうか。それが自分の新たな願いになりましたが,わたしは競走に参加することさえできませんでした。自転車を持っておらず,自分で自転車を買うだけのお金もなかったからです。そこで,自分で自転車を一台組立てることに決めました。

わたしは,自分で組立てた自転車に乗って,初めて競走に参加しました。そのとき優勝はしませんでしたが,かなり良い成績を残したので,それを見た選手団のトレーナーたちは,予定されている次のレースに出られるようわたしに自転車をプレゼントしてくれました。その後間もなく,わたしは,エリトリアの首都アスマラで開催された競技会に出場して,ついに優勝しました。

わたしは,イタリア人のトレーナーの助けを得て,四年間エリトリアで競技会に出場しました。そして,次から次に勝利を収め,合計40個のカップと10個のメダルを獲得しました。人々がわたしを“巨人”と呼ぶようになったのはそのころからです。そう呼ばれたのは,一つにはわたしの身長のせいであり,もう一つにはわたしの収めた勝利のせいでもありました。わたしは,自分の本名よりも,むしろその愛称で知られていました。

わたしの名声は海外にまで広まり,イタリア,スペイン,フランス,ユーゴスラビア,ドイツ,メキシコなどで開催された自転車競技会に出場するよう招待され,幾度も優勝しました。イタリアにおける競技会だけでも,30個のカップと20個のメダルを獲得しました。

世界でも指折りの自転車競走選手になったにもかかわらず,何かが狂っていました。わたしは,満足感も幸福感も覚えませんでした。わたしの内面で変化が起き,スポーツに対する関心が失われてゆきました。そして,自転車競走よりもはるかに重要なものがあることに気付くようになりました。

そのような時に,自分が幾年もの間待ちに待っていたはずの機会が到来しました。それは全アフリカ競技会と呼ばれる,アフリカのオリンピックのようなものです。それは,ナイジェリアのラゴスで,1973年1月に開催されることになっていました。そのようなレベルの高い国際試合に参加することは,わたしにとって何年もの間の夢でした。ところが,不思議なことに,いざその時になると,それほど行きたいとは思わなくなっていました。

しかし,エチオピア政府は,同競技会でエチオピアの代表選手になるようわたしに求める電報を十本も打ってきました。最終的に,わたしは行くことにしましたが,その競技会が終わったら,スポーツ界から引退する決意を堅めていました。わたしはその試合で大きな成果を収め,二つの金メダルを獲得しました。そのうちの一つは個々の競技者の間で争われる普通の自転車競走で,もう一つは時間競争で得たものです。しかし,その時わたしは,自転車競走から全く引退するという自分の決意を明らかにしました。

わたしが引退するというニュースはすぐに,当時のエチオピア皇帝ハイレ・セラシエの耳に達しました。それを聞いた皇帝は,わたしが一月末にラゴスから帰り次第,自分の下に出頭するようわたしを呼び出しました。わたしたちは約30分間話し合いました。皇帝は,エチオピアの国名を高めるために競走を続けるよう説得に努め,土地や金銭を与える約束をしたり,自転車競走選手のトレーナーになる機会を提供したりしましたが,わたしはそれを断わりました。

何がわたしにそうした決定をさせたのか,なぜわたしが自転車競走に対するあの熱烈な関心を失ったのか,不思議に思われるかもしれません。

より重要な競走

それは,自転車競技よりも満足をもたらし,報いの多い,別の種類の競走があることを認識するようになったからです。1960年に僧職者になるための勉強をやめた時,神の立てる義の新体制に関する聖書の約束について初めて話してくれたのはアスマラに住む親族でした。(ペテロ第二 3:13)当時,その情報は特別に深い感銘を与えるものとはなりませんでした。わたしは,学校で宗教に失望していたうえ,その時には自転車競走に熱中していたからです。

しかし,十年ほどたってから,エチオピアのエホバの証人の一人と聖書を研究するようにとの勧めを受け入れ,さらにそのクリスチャンの集会にも幾度か出席するようになりました。後日,自転車競走に参加するためイタリアへ旅行した時もエホバの証人の会衆と交わりました。こうして今回はいよいよ関心を深めながら,集会の出席と聖書研究を続けてゆきました。

わたしは,全能の神が本当に新しい体制を立てることを意図しておられ,この古い世が終わる際それを生き残って,新しい体制の下での祝福を享受するようになる人々を神が現在整えておられるという事実に感動しました。(ヨハネ第一 2:17)わたしは,現在その新しい体制のために生き,それを自分の生活の目標とし,また他の人々に伝えることの重要性を悟るようになりました。わたしは自転車競走に大変熱を入れていたので,コリント第一 9章24節から27節までのクリスチャン使徒パウロの次の言葉は,特に深い印象を与えるものとなりました。

「競走の走者はみな走りはしますが,ただひとりだけが賞を受けることを,あなたがたは知らないのですか。あなたがたも,それを獲得するようなしかたで走りなさい。また,競走に参加する人はみな,すべてのことに自制を働かせます。もちろん彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが,わたしたちの場合は不朽の冠のためです。ですから,わたしの走り方は目標の不確かなものではありません……それは,他の人たちに宣べ伝えておきながら,自分自身が非とされるようなことにならないためです」。

ある意味でパウロのこの言葉は,わたし自身のことを描写しているように思えました。ところがわたしは,間違った競走に参加していたのです。これまで,世の名声や富といった,ほとんど価値のない賞を目指して競走をしてきました。今や,永遠の命の賞を目指して,クリスチャンの競走に参加できることに気付いたのです。

このようなわけで,全アフリカ競技会が終わった後,わたしは,義の新体制をもたらす神の目的を他の人々に宣べ伝える公の業に携わるようになりました。わたしは自分が宣べ伝える業に携わるようになった最初の日をはっきり覚えています。それは全アフリカ競技会で二つの勝利を得た日から15日ほどたった,1973年2月1日のことです。

消えゆく朽ちる賞を目指す競走ではなく,エホバ神がご自分を愛し続ける人々すべてに与えてくださる永遠の命の賞を目指す競走に参加するために自分の体力を使うことから,現在どんなにか喜びを得ていることでしょう。(ヤコブ 1:12)― 寄稿。

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