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  • 自己防衛をすべきですか
  • 目ざめよ! 1975
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目ざめよ! 1975
目75 12/22 28–29ページ

聖書はそれをどう見ていますか

自己防衛をすべきですか

地上の多くの所で,犯罪や暴力行為が増加しています。特に大都市では,自分の家にいる時でさえ安心できない状態です。仮に,あなたが暴力を加えられそうになったらどうしますか。あなたは『他のほほを向け』なければなりませんか。

確かにイエス・キリストは,『他のほほを向ける』ことについて話されました。しかしイエスは,人の命が重大な危険にさらされた場合のことを語っておられたのかどうかを考えてみなければなりません。イエスはこう言われました。「邪悪な者に手向かってはなりません。あなたの右のほほを平手打ちする者がだれでも,あなたはその者に他のほほをも向けなさい」。(マタイ 5:39)さて,平手打ちというのは一種の侮辱行為であり,争いを引き起こすためにわざわざなされる場合も少なくありません。クリスチャンは,侮辱的な言動に直面しても,仕返しをしないようにすることによって,問題を起こさないですみます。聖書は『柔らかなる答えは憤りをとどめ はげしき言葉は怒りをおこす』と述べています。―箴 15:1。

しかしながら,身体に重大な危害を加えられそうな場合,事情は大いに異なります。エホバ神はイスラエル人に与えた律法の中で,人には自己防衛の権利のあることを明らかにされました。例えば,夜間家に押し入る盗人に関して律法は次のように述べていました。『もし盗人のやぶり入るを見てこれを撃ちて死なしむる時はこれがために血をながすに及ばず』。(出エジプト 22:2)夜間は侵入者の意図を判断するのが非常に困難で,予想し得る危害から自分を守るため,家の人には強打を加える権利がありました。そして,そうした打撃が致命的であったとしても流血の罪はないとみなされました。

実際,人には生まれつき,自分の体に及ぶ危害を防ごうとする性向があります。何かが自分に投げられると,本能的に身をかわそうとし,それができない場合には,傷を負わないよう顔を覆ったりします。同様に,妻や子供など愛する家族の者が襲われると,夫や父親は,たとえそのために自分の命を失うことになっても,本能的にできる限りのことをして助けようとします。そうした行ないは,イエス・キリストご自身が会衆のために命を犠牲にされたこととも一致しています。―エフェソス 5:25。

では,凶器を携えた者があなたやあなたの愛する者に向かって来たら,どうすればよいでしょうか。時間と自分の能力の許す範囲でそうした事態を見極め,その人が単に金銭や貴重品を欲しがっているだけなのか,あるいは身体に危害を加えようとしているのかを判断しなければなりません。朽ち果てる物質上の持ち物を守ろうとして,自分の命を犠牲にするのは確かに愚かなことです。抵抗せずに金銭や貴重品を引き渡すなら,多くの場合,命に対する危険は除かれます。その上,モーセの律法では,日中に盗人の命を取る人は流血の罪があるとみなされました。(出エジプト 22:3)なぜですか。その理由は明らかに,日中であれば,律法に照らしてそれが盗人であることを見分けることができたからです。モーセの律法には神の見方が示されていますから,実際には侵入者が盗人であることが分かれば,クリスチャンは資産を守るというだけの目的で,自己防衛を主張できないという点を認識できます。

他方,凶器を持つ者に明らかに殺意が見られる場合はどうでしょうか。

逃げられるなら,そうするのが望ましいことです。聖書はイエスがそのようにしたことに関して幾つかの例を挙げています。あるユダヤ人は,「イエスに投げつけようとして石を捨」いましたが,「イエスは隠れ,神殿の外へ出て行かれ」ました。(ヨハネ 8:59)また別の場合について,こう記されています。「彼らは再び彼をとらえようとした。しかしイエスは彼らの手の届かない所へのがれられた」― ヨハネ 10:39。

もし逃げられないなら,相手と筋を通して話し合うことができるかもしれません。しかしそうでない場合は,危害を加えようと思い定めた人と筋を通して話し合おうとするなら,貴重な時間を失うだけかもしれません。自分と他の人たちを守るために,何であれ手近にあるものを用いるほかに道がないという場合もあります。その結果,相手は致命傷を受けることになるかもしれません。聖書的に見る場合,このようにして自己防衛のため行動した人が,そのために流血の罪に問われることはないでしょう。

犯罪や暴力行為が増加しているので,クリスチャンの中には,起こり得る攻撃に備えて武器を持ってはいけないだろうかと考える人もいます。a イエスの使徒たちが少なくとも二本の剣を携えていたことが知られています。(ルカ 22:38)当時のユダヤ人は,武器を用いる戦いが許されていたモーセの律法下にいましたから,それは異例のことではありませんでした。また剣は野獣から身を守るために大切なものでしたし,おのやナイフ代わりに実用的な面でも役立ちました。

しかしながら,西暦33年ニサンの14日に進展した出来事から見ると,イエス・キリストは,ご自分の追随者であったユダヤ人たちが土地の権威者たちに対する武力抵抗を誘発するような状況下で剣を使用するのを望まれなかったことが分かります。例えばペテロが,主を逮捕するためにやって来た群衆に対して一方の剣を用いた時,イエスはこう命じました。「あなたの剣を元の所に納めなさい。すべて剣を取る者は剣によって滅びるのです」。(マタイ 26:52)この場合のペテロの行為は自己防衛などの問題ではなく,むしろ権威に対する反抗であり,それは神のご意志にさえ反していました。群衆の意図はイエスを逮捕して裁判にかけることだったからです。

わたしたちが,起こり得るすべての出来事に備えることはできないという点を銘記しておくと良いでしょう。それゆえ,クリスチャンが自分の物質上の必要物と安全について,過度に思い煩ったりしないのは賢明なことです。イエス・キリストは次のように警告されました。「何を食べまた何を飲むのだろうかと自分の魂のことで,また何を着るのだろうかと自分の体のことで思い煩うのをやめなさい」。(マタイ 6:25)ここでイエスは,生活上の必要物のために働いてはいけない,と言われたのではなく,ただ,そうした事柄に必要以上の関心を払うべきではないという点を指摘されたにすぎません。同様に,自分の身の安全について予防策を講ずるのは正しいことですが,もしそれが大きな心配の種になるままにしておくなら,それは全く別問題となります。

それゆえ,クリスチャンは,自己防衛のために銃のような致命傷を負わせ得る武器を入手することに伴う潜在的な危険について真剣に考えねばなりません。銃が手近にあると,ろうばいしたり,過度に敏感になったりして,不必要な死を招くことも少なくありません。米国アーカンソー州に住む40歳のある男の人は,猟銃を手に入れてから四年たって初めて装弾しました。近隣で盗難事件が起きていたので,この男の人は自分の資産を守る決意でいました。翌朝早く,彼はあき巣ねらいが自分の家の外でつまずいたと思えるような物音を聞き,銃を取って玄関の戸をめがけて発砲しました。それから明かりをつけて見ると,戸のところに横たわっていたのは自分の13歳になる娘で,すでに息絶えていました。

従って,致命傷を負わせる武器を買う前には,確かに二つの面をはかりにかけてみるべきです。つまり,ある将来の危険に対して備えることが,別の危険をはらんでいないかどうかという点です。どちらがより大きな危険なのか,自分で決めなければなりません。

以上の事柄から明らかなように,聖書は,自分や他の者たちを身体上の危害から守るため,人には自己防衛をする権利のあることを認めています。しかし,武器を用いる戦いや,ただ物質上の持ち物を守ろうとして,日中に人の命を取るようなことは許していません。

[脚注]

a 以下は武器の所持が認められている国を例として記されています。

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