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目ざめよ! 1976
目76 1/8 22–27ページ

今あるものをはるかに超えたもの

『今どんな益がありますか』。新しい概念が提出されると,大抵人はこうした反応を示します。もちろん,当面の益を望むのはごく自然なことです。しかし,それと同時に,将来のことを無視するわけにはゆきません。生活の導きが,将来に対する希望や目標を差し伸べていないなら,それには確かに大きな欠陥があると言わねばなりません。今何を持っているかにかかわりなく,自分の持つ将来に対する見通しは人の現在の歩みに大きな影響を及ぼすからです。

聖書は,将来に対する健全な希望,それに向かって努力すべき目標を差し伸べています。使徒パウロは,クリスチャンの原則に従って30年近く生活した後にこう述べました。『敬神の専念はすべての事に益があります。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです』― テモテ第一 4:8。

これまでにお読みになった記事の中には,自分の生活の仕方を変化させ,現在その益にあずかっている人々の経験が載せられていました。そうした人々は,単に変化しようと決意して,それに従っただけで,そうした変化を遂げたのでしょうか。そうではありません。彼らは,自分の行なってきたことが良いものではなく,自分の望むような満足のゆく生活をもたらさなかったことを認め,何らかの変化を望みました。ところが,どんな調整を加えるべきなのか,また,どのようにそうしたらよいのかを知りませんでした。それらの人が,エホバの証人を観察して,証人たちが幸福であり,生活に有益な変化を加えたことを認めた場合もありました。しかし,ただ自分たちの意志や力でそのような調整を成し遂げることはできませんでした。そのためには,聖書を研究し,人類に対する神の目的を理解しなければなりませんでした。自分がなぜ変化を遂げなければならないかを心の中で理解し,変化する時に神の助けがあることを悟るためには,神および他のクリスチャンからの援助が必要でした。さらに,その変化が自分と自分の家族に真の益をもたらすことをも理解しました。そうした人々は,生きてゆく上での目的を必要としていましたが,その目的は神の目的に従って形造られねばならないことを学びました。

そうです,現在より良い生活をするために必要なのは,創造者が人間を造った際に意図されたところに従って生活するよう学ぶことである,という点にこれら誠実な人々は気付きました。それは,家族や隣人と平和に暮らし,人を正しい方向に導くことのできる唯一のかたである神を畏れ,またその神に仕える生活です。聖書はこう述べています。『人よ 彼さきに善き事の何なるを汝に告げたり エホバの汝に求めたまう事は ただ正義を行ない 憐れみを愛し へりくだりて汝の神とともに歩む事ならずや』。(ミカ 6:8)そうした人々は,敬神の専念が「きたるべき命」の約束を保つものであることをも認めています。

完全な幸福には健康が必要

将来の命が幸福なものとなるため,それには何が必要ですか。まず最初に,健康のことが頭に浮かぶでしょう。それがなければ,喜びもありません。では,「きたるべき命」において健康はどのように備わるのでしょうか。

聖書は,神の王国だけが地を支配する時に,人々が健康に恵まれて幸福になることを保証しています。今でさえ,神の原則や命令に服することは,人の健康を損なう緊張や病気の多くを避けるのに役立ちます。聖書の有益な言葉は,「これを得る者の命であり,またその全身を健やかにする」のです。(箴 4:22,口)聖書の教えは,霊的な意味だけでなく,身体的な意味でも「健全なことば」であると言えます。霊的な福祉は,身体の健康を保つ上でも不可欠なものだからです。―テモテ第二 1:13; 4:3。

しかし,人間が健康や活力の面で完全になるには,実際の身体的いやしも必要です。正しい生き方そのものは,身体面のそうした治癒をもたらしません。それ以上のものが必要です。そうしたいやしは,どのように行なわれるのでしょうか。

人間は不完全さを受け継いでいるゆえに,自らをいやすことはできません。(詩 51:5)特に圧力を受けた時など,人間は正しくないことをしがちです。これは,間違ったことをしたくないと思っている人も含め,すべての人が罪人であるからです。聖書で使われている罪という語は,実際には「的を外す」という意味があります。人間は自力で向上することはできません。また,他の人を救うことのできる人間もいません。すべての人は,やがては死に至る,不完全さという“泥沼”にはまり込んでいるからです。詩篇作者は,富んでいる人,賢い人,権力がある人を含め,あらゆる人についてこう書きました。「そのひとりとして,決して兄弟をさえ請け出すことができない。彼のための贖いを神に支払うこともできない。人がとこしえに生き長らえて,穴を見ないために……」― 詩 49:6-9,新。

ゆえに神からの助けが必要となります。聖書の中で,病気は罪と結び付けられ,いやしはゆるしと関連付けられています。ダビデ王は人間の置かれている境遇を悟り,イスラエルに対してこう書きました。『わがたましいよ エホバを讃めまつれ そのすべての恵みをわするるなかれ エホバはなんぢがすべての不義をゆるし 汝のすべての疾いをいやしたもう』。(詩 103:2,3。ルカ 5:18-25と比較)完全な健康のうちに生きることを望むなら,この助けを待ち望まねばなりません。このいやしは,いつ行なわれるでしょうか。神のみ子イエス・キリストの千年統治の期間中です。あらゆる証拠は,その統治の始まりが間近に迫っていることを示しています。―マタイ 24:32-34。

これは期待すべきもの,わたしたちの生活の目標となり,神のご意志について学び,それに付き従うことを促すものです。しかし,神がわたしたちのためにそうした事柄をするというどんな保証があるのか,とお尋ねになるかもしれません。では,わたしたちの信仰の強固な土台として,聖書がそれをどれほど十分に説明しているか,また,人類をいやして元の状態に戻すために,神がどれほど注意深く取り決めを設けてこられたかに注目してください。

人類をいやすために神が整えられた方法

エホバ神は,ちょうど父親がその息子を愛するのと同じように,ご自分が創造したものを愛しておられます。イエスは,地上にいた時,こう言いました。『神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされた』。(ヨハネ 3:16)このみ子は,元来,地が創造される前から,天でみ父と共におられました。(ヨハネ 1:1。啓示 3:14)み子は,地上にいた時,祈りの中で,人間になる前の自分の存在に言及して,次のように神に願い求めました。「父よ,世がある前にわたしがみそばで持っていた栄光で,わたしを今ご自身のかたわらにあって栄光ある者としてください」― ヨハネ 17:5。

み子が人間として生まれ,不完全で罪深い人間と共に生活するよう,その命をユダヤ人のひとりの娘の子宮に移してみ子を地上に遣わすことが,神にとってどれほど大きな犠牲であったかを考えてください。また,地上で奴隷よりもひどい扱いを受け,最後には不名誉な死を遂げるために天における富を捨てたみ子の従順さと神に対するその愛について考えてみてください。(ペテロ第一 2:21-25)イエスの行なったことについて,使徒パウロはこう書いています。「彼は神の形で存在していましたが,強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。いえむしろ,自分を無にして奴隷の形を取り,人のようなさまになりました。それだけでなく,人のすがたでいた時,彼は自分を低くし,死,それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になられました」― フィリピ 2:6-8。

人類を死から救い出す手段として,なぜみ子の死が必要だったのでしょうか。人類の父ではないみ子は,人間家族の頭でも,人類の所有者でもありません。人類は,エホバ神に属しています。神は,全宇宙に対するご自分の正当な主権を持続する上で,罪を大目に見たり,それを見過ごしたりはできません。また,政府や裁判官の多くが今日行なっているように,犯罪者がその罪を“うまく逃れる”のを許し,国民の道徳心を弱めるようなこともされません。それで犠牲,つまり代価としての贖いの支払いが必要でした。その代価は完全な人間の命でなければなりません。人類の先祖アダムは,完全な命を持っていたにもかかわらず,自ら罪を犯してそれを失ったからです。アダムの子孫は,選択の余地なく,罪と死への隷属状態に売られました。(ローマ 7:14; 8:20)人間となったイエス・キリストは,必要とされたその代価を持ち,それを自ら与えました。ですから,本当の意味で,また法的に人類に対する命の与え主となるために,イエスは第二の,つまり「最後のアダム」にならなければなりませんでした。(コリント第一 15:45)こうして,公正のはかりの釣合が取られました。神は,よるべのない人類に憐れみを示して機会を与える一方,ご自分の統治においては完全な公正と義を保たれました。―ローマ 3:23-26。

イエス・キリストは,今や人類を買い取りました。全人類は,神のご意志に従って扱われるべくキリストに属しています。ご自分の命の血をもってすべての人を買い取ったキリストにとって,貴重でない人は一人もいません。自分は無価値であると考える人がいたとしても,その人の命はキリストの目には大変貴重なものです。イエスは,ふさわしい人が一人といえども命を失うがままにしたりはしません。ですから,キリストの王国の支配の下では,非常に親切で,本当に慈父からのような扱いを受けることを期待できます。(ペテロ第一 1:18,19。ルカ 15:4-10と比較)神に対する愛と従順,そして隣人への愛という神の普遍的な原則を受け入れ,それに従うなら,あらゆる病気のいやしを含む,義と公正と憐れみに満ちた助けの得られることを全く確信できます。―マタイ 22:37-40。ローマ 13:8-10。

キリストがこうしたことを行なえることがどうして分かりますか。まず最初に,み父であるエホバ神によって復活を受けたキリストが再び生きているという点が挙げられます。(使徒 2:32)またイエスは,買い取って得た権利によって人類を所有しているだけでなく,人類が必要とする物事すべて,自分が地上にいた時にはなし得なかった事柄をも行なう力を持っています。使徒パウロはこう書いています。『まさにこのゆえにも[イエスの死に至るまでの従順]……神は彼をさらに上の地位に高め,他のあらゆる名にまさる名をすすんでお与えになったのです。それは,天にあるもの,地にあるもの,地の下にあるもののすべてのひざがイエスの名においてかがむためでした』― フィリピ 2:9,10。

ですから,キリストの復活は,わたしたちが助けを受けることの保証であり,信仰の基です。それだけでなく,キリストの復活は,「地の下にあるもの」,つまり墓の中で死の眠りについている者たちが復活を受けることの保証でもあります。(使徒 17:31)過去の生き方の良し悪しを問わず,そうした人々は贖いの備えについて学び,それを受け入れ,王国による義の支配期間中従順に従う機会を与えられます。(使徒 24:15)そして,やがて完全さに達し,他の従順な人類と同様,神の家族の成員となります。―ローマ 8:21。

義の「新しい地」

わたしたちは,神の子になるということが何を意味するかを十分には理解できないかもしれません。それでもわたしたちは,神の子になることがどんなにすばらしいかをかいま見るだけの情報を聖書の中に見いだせます。公害,病気,犯罪,憎悪,人種間の緊張,そして戦争などの全くない,美化された地球に住むことを考えてください。雄大な山々,涼気とさわやかさを感じさせる森林,花で飾られた庭園,きらめく小川や河川,そして汚染されていない海洋など,地上の美しさから得られる純粋の喜びについて思い巡らしてください。わたしたちの恒久的な住まいにはこうしたものが存在することを,聖書は保証しています。

しかし,一層大きな喜びをもたらすのは,思いと心と身体の完全性を取り戻した,健康で喜びに輝く人々です。幸福であるためには,知能と体の双方にとって仕事が必要です。これは,すべての不安や抑圧された状態が過去のものとなるとはいえ,パラダイスの地に挑戦となる事柄がなくなるわけではないことを意味しています。

人間男女は,最初人間に与えられながら,果たし得なかった命令を遂行します。それは何ですか。地を『従わせて』,地や海や空のすべての動物を服従させることです。そうする際に,自分たちの能力を活用し,工夫を凝らさねばならない問題に直面するでしょう。

動植物の世話をすることは,多くの人にとって楽しみとなるでしょう。自分の持つ才能や能力を生かして,他の人々のために働くことは喜びとなります。地球は,人間が永遠にわたって研究や探究を続けるに事欠かないほどの不思議を秘めた,巨大な“科学実験室”です。発見された事実は,それぞれ人類に益をもたらす新たな門戸,新たな展望を開きます。ですから人間男女には,尽きることのないエネルギーと知恵の源であるエホバ神から,永遠に続く喜びある仕事が与えられます。(イザヤ 40:28,29)命は,本当に目的のあるものとなります。また,その世界の安全を脅かしたり,生活の輝きを曇らせたりするものもなくなります。過去の不快な事柄について,神の言葉はこう述べています。「以前の物事は思い出されることがなく,それが心に上ることもない」― イザヤ 65:17,新。

以上の描写は,単なる希望的な幻想ではありません。こうした事柄に関する約束は,「偽ることのできない」神の言葉聖書に記されているのです。(テトス 1:2。ヘブライ 6:18)イエスは地上にいた時,自分が人類をいやし,また祝福する力を持っており,その力を必ず行使するという十分の保証を与えました。(マルコ 1:40,41)そして,あらゆる種類の病気を,数え切れないほどいやしました。しかもイエスは,人々の信仰の度合に応じていやしたのではなく,自分の力で,人間に対する愛に動かされてそうしました。イエスのいやしは即座に行なわれたものであり,普通の医学的な手段を用いた漸進的な治療法ではなく,また特別な規定食,手術,入院などを必要とするものでもありませんでした。いやされた人は,「健康」になり,仕事をすることができました。―ヨハネ 5:9。

中にはイエスによってよみがえらされた人たちもいます。しかも,少なくともそのうちの一人の場合は,体が腐り始めていたのです。(ヨハネ 11:38-44。ルカ 7:11-17。マタイ 9:18-26)しかし,これらいやされたり,よみがえらされたりした人々すべてはやがて死にました。そのいやしは,身体を完全にするものではなかったのです。なぜでしょうか。それは,キリストの王国が支配を始め,現在のこの事物の体制を除き去る時がまだ到来していなかったからです。まずそれがなされなければ,健康,安全,幸福な家庭生活,そして平和などを保つ上で古い体制が妨げとなるでしょう。鉄の杖をもってなされるキリストの支配によって,この体制は,世界に臨む「大患難」の際に除き去られます。(マタイ 24:21)この事物の体制は,その不正や圧制と共に,地上から全く消え去らねばなりません。こうして,途切れることのない義の支配のために道が開かれます。聖書の導きに本当に従って生活している人々は生き残ります。(啓示 7:9,14,15)従って,わたしたちはこの出来事を恐れるべきではなく,むしろ自分たちの救出を意味するものとして待ち望むべきです。―ヨハネ第一 2:17。

それから,聖書の結びの章が述べるとおり,「命の水の川」が人類に向かって流れるようになります。キリストを通してもたらされる,命のための神の備えを象徴するこの「水」を飲み,川の両岸に並ぶ「木」の「実」を食べ,『諸国民をいやすための木の葉』を用いることによって,地上のパラダイスの住民は完全性へと引き上げられます。(啓示 22:1,2; 7:15-17)こうした取り決めを通して次の言葉が成就します。神は「彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」― 啓示 21:3,4。

現在わたしたちが経験しうる最良の,そして非常に幸福で生産的な生き方でさえ,神の新秩序での命とは比べものになりません。その命は,単に70年ほどではなく,百年,いや千年をさえしのぐ,永遠のものです。確かに,今日敬神の専念を示すなら,「今の命ときたるべき命との約束」を保ち,将来に対する魅力的な希望が与えられます。(テモテ第一 4:8)全知全能の愛ある創造者のみが,こうした命を与えることができます。エホバ神とそのみ子は,そうした命を与える時を大きな期待を抱いて待っておられます。人類に対する神の良い目的に関するこの知識は,神が備えてくださった導きである聖書に従って,自分の生活を調整するようあなたを動かすのではありませんか。そうであれば,あなたも,地に対する神の王国の千年支配を,熱心に待ち望めるでしょう。

[25ページの図版]

神は全地がパラダイスになると保証しておられます。このことは,神の意志と目的について学ぶようあなたを励ますのではありませんか

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