ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目77 2/22 5–9ページ
  • ティートンダムが決壊したとき

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • ティートンダムが決壊したとき
  • 目ざめよ! 1977
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 『水はすべての物を飲み込んだ』
  • 直ちに避難せよ!
  • 幾つかの都市は洪水を撃退
  • 小さな始まり
  • 反応と感想
  • ニジェール川の治水
    目ざめよ! 1970
  • 水害に襲われたラピッドシチー
    目ざめよ! 1972
  • 「エホバは,わたしたちがインディオでも,愛してくださるのでしょうか」
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2011
  • ロッキーで最も若い山脈
    目ざめよ! 2001
もっと見る
目ざめよ! 1977
目77 2/22 5–9ページ

ティートンダムが決壊したとき

静かな小川でつりをしていて,次の瞬間には,高さ91メートルの水の壁から逃れるために,深い峡谷の側面を必死でよじ登っている自分を想像できますか。去る6月5日,アメリカのアイダホ州にあるティートン川では実際にそういうことが起きました。ティートンダムが決壊したときの様子を語る目撃者の話を聞くと,まさに「事実は小説よりも奇なり」です。例えば,つりをしていた一行の身に,どんなことが降りかかったか,考えてみましょう。

その土曜日は,空が明るく晴れ渡り,絶好のつり日和でした。ティートン川は「アイダホ州の中でマスが一番よくつれる川」と,多くの人は考えています。そこでつりの一行五人は午前11時ごろ,ティートンダムのすぐ下にゴムボートを浮かべ,そこから少し下流にくだってボートを係留しました。

突然,一人の男が,深い峡谷の頂上から彼らに向かって叫びましたが,その時には彼らはすでに,「水がミルクのような色に変わっているのに」気付いていました。「ダムに小さな漏水箇所」があるから,増水するかもしれない,とその人は警告しました。つりの一行はそれからさらに下にくだって行きましたが,谷のがけの縁の上で親類の者が一人,ピストルを空に向けて撃ち鳴らしながら必死になって手を振っているのを目にとめ,どきっとしました。

それと,水位が急激に上昇していることを考え合わせて,何か大変なことが起きたのだ,ということに彼らは気付きました。グループの一員だったある婦人は,次のように話しました。『私たちは大急ぎでボートを岸にこぎ寄せ,死に物狂いで谷のがけを登り始めました。私はうしろを振り向いて,ボートなんかにかまわないように,と外の人たちに言いました。ある高さの所までよじ登って一息入れたとき,15メートルほどもある大きな金属の容器が,がらがら音を立てながら川下へ流れていきましたが,それはまるで波にもてあそばれるコルクといったところでした。私はまた一生懸命にがけをよじ登りました』。

全員が頂上に着くや否や,巨大な水の壁がその峡谷を,深さ91メートルもあるその谷を,完全に満たしてしまいました。

ティートン洪水とでも呼べるこの大水は,速い勢いで流れ続けました。つりをしていた一人の若者はでき死し,もう一人はひどく打ちつけられながらも,なんとか水に浮かんで8キロほど流れ,ついに一本の樹木にしがみつきました。そして数時間後にその木から救出されました。

停電になると,多くの時計がいっせいに午前11時57分でストップしました。ですから,アイダホ州のこの地域に住む10万の住民の大多数にとっては,時の流れがストップしたかのように思えました。洪水が引くまでには11人が死亡し,幾千もの人が家を失いました。財産の被害額は4億ドルから10億ドルと推測されました。なぜそのように大きな被害があったのでしょうか。それは洪水の水が五またに分かれて“襲った”からです。

川が急角度で曲がっている箇所に来たとき,水の壁の一部はそこを曲がらずに川岸を“飛び越え”,西のほうに流れ続けました。水はまた,小山の多いこの地域の小さな谷間にも流れ込んで,五つの支流に分かれたのです。もちろん,一つの大きな支流は,(ティートン川が流れ込む)スネーク川の川床に沿って南に流れました。

しかし,大水が峡谷からもっと広い谷に出たときの有様はどのようなものだったのでしょうか。エホバの証人の会衆の一長老であるダレル・シングルトンは,ダムから6キロほど下流に農場を所有しています。彼はそこにいました。そして次のように語りました。

『水はすべての物を飲み込んだ』

「レックスブルクにいる娘から電話がかかってきた時,私たちは,無蓋のトラックに乗せた小型運搬室に道具を運び込んでいるところでした。ティートンダムから水が出だしたから全員避難するように言われた,と娘は言いました。それで私は娘に,ダムの水があふれ出て少しばかり水かさが増したのを,だれかが大げさに騒ぎ立てているんだろう,と言いました。しかし娘は,事はもっと重大だ,と言いました。そこで私は,では電話を切って避難するからと言い,娘にもそうさせました。

「私はあまり心配してはいなかったのですが,それでも車でダムまで行って自分で見てくることにしました。私たちが着いたときには,人々は狂気のようになって我先にとダムのところから逃げ出していました。何が起きつつあるか,一目で分かりました。峡谷から流れ下る茶褐色の大水が谷間にはんらんしていました。水辺には土ぼこりが立ちこめ,水の行く手にある物体は,水がそこまで来るとまるで爆発するかのようにして消え去ります。

「私たちは自分の家のほうに取って返しました。途中にある家の人たちに警告しながら。ある家の人たちは避難したがりませんでしたが,電線が落ち始めると納得しました。家まであと3キロほどのところまで来たとき,私たちは,高さ九メートルほどの水の壁が私たちの家のある所を襲うのを見ました。水はすべての物を飲み込みました。もうどうにもならないという気持ちになりました。どこもかしこも荒れ果ててしまいました。

「それから午後五時ごろ,私たちは歩いて農場に帰りました。家は洪水で137メートルほど移動し,その場所で倒壊していました。私たちの外の建物も,また農機具も皆破壊されていました。ポートと無蓋トラックは連結したままの状態で樹木の上に乗っていました」。

真っ先に洪水に見舞われたこのウィルフォード地区の人々のほとんどは,警告を受けてから10分後には逃げなければなりませんでした。目を上げてみたら水が自分のほうに向かって来ていた,という人たちもいました。木の折れる不気味な音で気付いた人もいました。ある婦人は,「れんが造りの家がプラスチックの人形の家のように,宙に持ち上げられるのを見ました」。

直ちに避難せよ!

洪水の直接の流路に当たる所には,一連の小都市がありました。その最初のものはシュガー・シチーでした。幸いに人々は皆,今や10キロの広さに広がった洪水が同市を破壊しないうちに避難しました。根こぎにされた木,材木,たる,はては自動車や農機具までが,建物を突き破って中に入ってきました。

悲しいことに,死んだ動物も数多く浮いていました。洪水の通る道には牛が幾千頭もいました。多くの場合,飼い主には,おりの戸を開いて「走って逃げるチャンス」を与える時間しかありませんでした。なかには逃げ延びた牛もいましたが,ほとんどは失敗しました。

市と州の警察官は,『直ちに避難せよ!』という警告を,洪水が襲うよりも前に広く伝えることができました。次の都市レックスブルクは,やっとのことで避難しました。というのは,その後直ぐに,多くの建物が屋根まで水につかったからです。

激流が南下するにつれて,各小村や町は,できるだけのことをして避難しました。戸惑った人も少なくありませんでした。洪水の速度を推測することが当局者に不可能だったので,予想される最高水位についての発表はしばしば不明りょうでした。電力は断たれ,橋も幾本か押し流されたので,交通も通信も妨げられました。

幾つかの都市は洪水を撃退

アイダホ・フォールズは,激流の流路にあった最大の都市でした。幾百人もの人々が呼び掛けに自発的に応じて,緊急作業に当たりました。明るい太陽の日差しの中で,スネーク川の川岸に砂袋を懸命に積み上げている光景は奇妙なものでした。日曜日に洪水は最高水位に達し,六メートルに及びました。しかし橋は全部持ちこたえ,はんらんは食い止められました。前日から一昼夜,自発的に働き続けた人々は勝利を収めたわけです。

しかし,下流のほうでは,同じようにうまくはいきませんでした。人々の自発的な勇気ある努力にもかかわらず,しつような水は幾つかの町に流れ込みました。ダムから120キロほどの川下でも,水は依然として逆巻く激流の観を呈していました。

月曜日の夜になって,水はようやく引きはじめました。ティートン洪水は流れるだけ流れたわけです。ショックを受けていた人々もやや気を取り直していました。これがもし夜のことだったら,油断しているところを襲われた人が多かったに違いないけれども,真昼だったのでまだよかった,と多くの人は喜びました。しかし,どこの人も皆,どうしてこんなことが起きたのだろう,という同じ疑問を抱いていました。

小さな始まり

堤防に水の漏れている箇所を見付け,助けが来るまで何時間も自分の指でその穴をふさいでいた,というオランダの少年の物語を読んだことはありませんか。その少年は「英雄」と呼ばれ,近くの町を救ったと考えられています。同じく,ティートンダムの悲劇も漏水から始まりました。助けは来ましたが,その時はもう手遅れでした。

ダムは完成に近づいていたので,その建設費は5,500万ドル(約165億円)と言われていました。1976年6月5日の午前8時ごろ,作業員は現場に召集されました。彼らはそれまでの数日間,いつまでも漏水が止まらない一箇所に注意を向けていました。今ではその箇所から泥水がどんどん流れ出ており,別の箇所にも水漏れが見付かりました。ダムの内側の貯水池に水が満たされたのはこれが初めだったので,そういう漏水箇所があるということは気になることでした。

そこで,二台のブルドーザーを使ってダムの表面の大きな漏れ口に丸石を押し込むことに決まりました。しかし,その時までには,ダムの貯水池側に(流れの強さを暗示する)不気味なうず巻きが起きていました。そのうえに,大きいほうのブルドーザーが土のダムにめり込んでしまいました。それで二人の運転者は二台のブルドーザーを鎖でつないで,両方を斜面から引き上げようとしました。しかしすぐに監督は作業の中止を二人に命じ機械をそのままにして安全なところへ逃げるよう動作で合図しました。漏水の量はますます多くなり,その浸食によって穴は内側に向けしだいに大きくなって行っていました。

次にまた大きなブルドーザーがダムの上を進んで,貯水池側のうず巻きの中に丸石を押し落としました。それにもかかわらず漏水は増え,前に放棄された二台のブルドーザーは,鎖でつなぎ合わされたまま,轟々たる激流の中に落下しました。それから間もなく,人も機械も全部ダムから撤退しました。漏水を止める闘いは敗れたのです。

次に起こったことを目撃者はこのように語りました。「洪水になることは分かっていましたが,あんなことになるのだとは知りませんでした。まるで大海の水がどっと流れ込んだみたいでした。水はすべてのものに,あっと言う間に満ちわたりました。[ダムの土の部分が]大きく崩れるたびに,爆弾でも爆発したかのように見えました。泥の爆発です」。

それにしても,建設技術がここまで進歩しているのに,どうして漏水などが生じたのでしょうか。1976年7月15日付の「エンジニアリング・ニュース・レコード」の伝えるところによると,五週間後,専門家の一団は,「高さ93メートルのアースフィルの決壊の原因と考えられる点を五つ挙げ」ました。その一つは,「グラウト・カーテン」と呼ばれるものの働きに欠陥があったかもしれない,という点でした。それはどういうことでしょうか。

ダムの基礎となる岩盤や,ダムの両端の岩(峡谷の岩壁など)が多孔質のものと思われる場合には,ボーリングによって岩に穴を幾列かあけ,そこにセメントを注入します。このコンクリートの壁,つまり「カーテン」は,ダムの下や周囲からの透水を防ぎます。ティートンダムではこのカーテンに欠陥があったらしく,ダムと谷の岩壁とが接続する箇所で,一方の端だけですが,透水が始まりました。そちらの端のダムの表面がいったん浸食されてしまうと,その弱くなった部分は,ダムの内側の「湖」の重力でほんの短時間のうちに決壊してしまいました。

反応と感想

この災害の間,非常に多くの人々が洪水被害者たちに援助を差し伸べました。西部アメリカ全体のエホバの証人の反応は「圧倒的」という言葉で表現されました。ある被災者は,「日曜日の朝,夜の明けるころに起きてみると,トラック一台分の食料品や衣料,寝具などが家の前に積み重ねられ,二人の兄弟[仲間の証人]が運転台に座ったまま眠っていました。ほとんど徹夜で運転してきたのです」という,心温まる話をしてくれました。

事実,ユタ州からは,長さ約14メートルの箱型貨物自動車一台分の物資が送られ,カリフォルニア州からも大きなトレーラー一台分が送り込まれました。援助物資を受け取った人の一人は,「あまりにも多くの助けが来たので,どうしてよいか分からないほどでした。だれでも困っている人にあげるつもりで兄弟たちは送ってくださったのだということを知っていましたから,私たちは同じ境遇にあった隣人や他の人々にそれらの物資を分けました」と語りました。エホバの証人の救援活動を指揮していた人々はすぐに,「もう十分!」と言わねばなりませんでした。

その苦難の三日間を振り返ってみるとき,人は驚くべき対照に気付きます。大多数の人は一緒に働き,互いに親切を示し合いました。自分の命を危険にさらして他の人を助けた人さえいました。しかしその一方で,略奪ということがすぐに警察官の深刻な問題となりました。州の警察官は被災地域への立ち入りを制止する仕事のほうに回っていたので,そのために被災者の“隣人”は,そういう非情な盗みを働いたようです。

また,財産を失ったことに対する態度にも対照的なものがみられました。当然のことながら多くの人は,将来への恐れと心配を口にしました。しかし一人の婦人は,「これは確かに大変な経験でしたが,私が心から愛する人々が無事だったことは何よりでした。この経験から人々は,大切なのは物質の財産ではなくて人々だ,ということに気付くのではないでしょうか」と言いました。

しかしどんな教訓を与えたにせよ,ティートン洪水はつめ跡を残しました。土地にも,そして生き残った人々にも。―寄稿。

[7ページの写真]

決壊後のダムの巨大な破れ口

[クレジット]

米国内務省開拓局提供

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする