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目ざめよ! 1978
目78 6/8 4–7ページ

安楽死 ― 弁護士の見解

フィリピンの「目ざめよ!」通信員

自分が不治の病にかかっていることを医師から知らされた80歳の老人を想像してください。これからは体の調子が悪くなりますよ,とその老人は言われています。痛みはしだいにひどくなり,体の機能も徐々に失われていきます。薬剤は激しい苦痛を一時的に和らげるかもしれませんが,末期になると,死ぬまでひどい痛みがつづくでしょう。そしてその激痛がはじまっても,死ぬのはまだ数か月先のことかもしれません。

それを聞いて患者は,痛みが耐えがたいものになったときに死期を早める注射をすることを医師に正式に要請する,書類を作成します。人々はその行為を「安楽死」,すなわちエウサナシア(ギリシャ語で「良い死に方」)と呼びます。「能動的」もしくは「積極的」安死術とは,毒薬または他のなんらかの方法で死期を早めることを意味します。「受動的」もしくは「消極的」安死術とは,死をわずかに遅らせるにすぎない「特別の」医療措置を新たに始めるとか継続することなどをせずに,末期の状態にある病人を死なせることを言います。

近年まで,ほとんどの医師は,安死術を頼まれても恐らく断わってきたでしょう。しかしこのところ,一部の人々に見方の変化が生じているようです。スウェーデンのある地区の医務官は最近,老齢の重病人や他の不幸な人々が,「死ぬのを助けてもらうように頼める」「自殺クリニック」の開設を提案しました。安楽死に賛成の発言をする人は少なくありません。

興味深い「模擬裁判」

もしある医師が安死術を施すことに同意したならどうでしょうか。その医師を法廷に呼び出して,故殺または謀殺の罪の詮議をすべきですか。その医師は,いずれ死ぬことが明らかな人を,激烈な苦しみから救ってやっただけのことだ,と考えています。しかし,ほとんどの国の法律はその行為を謀殺としています。それらの法律は改正されるべきですか。

この問題は,最近フィリピンのマニラ市で開かれた,そして世界中の法律家が出席した世界法律会議の議題の一つになっていました。会議のテーマは,「法律による国際人権保護」というもので,特に強調された人権の一つは,「人の死ぬ権利」でした。それは,痛みと苦しみを避けるために死を要求する権利を意味しました。同会議は,人の感情と極めて深いかかわりを持つこの問題について,法律専門家たちがどう考えているかを知る良い機会になりました。

安楽死の問題は模擬裁判の形で取り上げられました。議論の焦点となったのは,この記事の冒頭で述べた仮想の病人でした。三人の弁護士,つまりイスラエルから来た弁護士と,バングラデシュから来た弁護士,フィリピンから来た弁護士とがその事件の弁論を行ないました。判事は合計五人で,カナダ,フィリピン,セネガル,タンザニア,タイから出席した人々でした。弁護士たちは,その仮想の80歳の老人を対象に,安楽死に賛成または反対の弁論を行なわねばなりません。その後で判事たちが裁定を下します。

幾つかの条件つきで「賛成」

三人の弁護士のうち二人は,特定の条件をつけましたが,能動的な安死術に賛成でした。回教の国バングラデシュから来たベテラン弁護士のシェド・イシュティアグ・アーメド氏は,そのような状況の場合は,その人の願いをかなえてやるべきだ,と述べました。もし病気のたどる経過についての医師の見通しが間違っていないことを保証できるなら,もし患者にその要求を行なうだけの能力のあることを確かめることができるなら,そしてまた患者の苦しみの度合いを見定めるなんらかの方法があるなら,安楽死は許されてしかるべきだ,というのが氏の意見です。

しかしそうは言っても,実際にはそれらの条件を満たすことは困難だとアーメド氏は言います。また,安楽死を支持する法律がいったん記録されるなら,その乱用を阻止することは恐らく不可能であろう,という意見です。

バングラデシュのその弁護士はまた,自分の国では,食物,教育,医療など,もっと基本的な権利を享受していない人々が多数いるので,「死ぬ権利」について論ずるのはまだ少し早い,と述べました。例えば,治療法はあっても貧しいためにその治療を受けることができず,苦しい病気で死にかけている人はどうでしょうか。貧しすぎて治療費が払えないために,安楽死をさせるべきでしょうか。気が狂っているために,あるいは意識がないために,早く死なせてほしいという要求を自分でできない人たちはどうでしょうか,と氏は問いかけました。

一部の裁判所は寛大な態度を取る

イスラエルから来た法学の教授アモス・シャピラ氏は,イスラエル共和国の現行法によると,能動的安死術は恐らく謀殺とみなされ,強行刑罰の終身刑が科されるだろう,と述べました。それでもイスラエルの裁判所は,安楽死に対して同情的な態度を示してきました。

イスラエルのある女性が,食物の中にバルビツール酸剤を混入して,三歳になる極度に知恵遅れの子供を殺した事件がありました。裁判所は彼女に懲役一年の刑を宣告しましたが,後ほどそれは同国の大統領により四か月に減刑されました。もう一つは,不治のガンにかかっていた37歳の男の人の場合でした。痛みはしだいに激しくなり,その人は母親に苦しみを終わらせてくれるようにせがむまでになりました。ある夜母親は,息子が眠っている間に息子を射殺しました。裁判では母親は(謀殺ではなくて)故殺の罪に問われ,懲役一年の刑を宣告されました。しかし大統領の寛大な処置があることを希望して,刑は執行猶予になりました。イスラエルの裁判所は,法律をそのまま適用することをちゅうちょするので,シャピラ教授は,安楽死に関する法律を改正することに賛成です。

ユダヤ人の宗教上の法律

しかしシャピラ教授は次のことを指摘しました。つまり安楽死を寛大に見る傾向は,ユダヤ人の宗教上の法律とは一致しないということです。教授はユダヤ教の教師J・デイビッド・ブレイヒの次の言葉を引用しました。「ユダヤ教の律法と道徳的教えにおいては,人命の価値は最高であって,事実上他の考慮すべき事柄すべてに優先する。……これに比例して,生命を保護する責務にはあらゆる手を尽くすことが含まれる」。別のユダヤ教教師M・D・テンドラーはこう書いています。「臨終の床にある人にも,法律の保護は十分にある。その人の命を一秒でも縮めることは謀殺行為である」。医師たちは,重病人の命をながらえさせるためなら安息日さえ犯すことを許されています。

しかし,もしある人が死にかかっているなら,つまりまちがいなく死にかかっていて回復の希望が全くないなら,どうでしょうか。そういう場合,ユダヤ教の律法は,死の過程を医師が不必要に引き延ばすことを要求していません。死の苦しみの中にある人のことを,ヘブライ語ではゴーセスという特別の言葉で呼びます。高齢のユダヤ教教師たちは,病人をいやしまた慰めるためにはあらゆる努力を払うべきであるけれども,ゴーセスの死の苦しみは人工的に延ばすべきではない,という考えです。

反対の声

三人目の弁護士で,フィリピンの元上院議員アンブロシオ・パディリア氏は,どんな場合においてもその能動的,もしくは積極的安死術はまちがいであると主張しました。患者が死を求めることは,身体的状態のいかんを問わず,自殺に等しい。もし患者の賛成なしに死の原因を作ったなら,それは殺人行為である,とパディリア氏は言います。命は神からいただいたもので,人間にそれを滅ぼす権利はない,と氏は論じました。自分で命を縮めることは,自分を神の立場に置くに等しい,というのがパディリア氏の意見です。

このフィリピン人弁護士はさらに,検討中の前提,すなわちその80歳の老人は必ず死に,回復の希望は全くないということを,だれが本当に保証できるだろうか,という質問を提起しました。時々,「不治の」病と言われていた人が不思議に回復することがあるのは,よく知られている事実です。それに,医学は急速に進歩しているために,きょうは不治の病でも,あすは治せるかもしれません。しかしパディリア氏は,息を引き取ろうとしている患者に特殊の,あるいは変わった治療を施して,人工的に生かしつづけるべきであるとは考えていません。

判事たちの決定

五人の判事は弁論を聞き終えると退場し,問題を審理しました。そして二日後,決定を発表しました。この問題を完全に解決する国際法の規則があるかどうかは知りませんでしたが,彼らが検討を重ねた結果まとまった意見は,人は「威厳ある死に方」を許されるべきであり,「その願いも聞き届けられてしかるべきだ」というものでした。

これは,今日の弁護士と判事が安楽死についてどう論ずるかを示す一つの例です。ではクリスチャンはそれをどう見るべきでしょうか。聖書の原則に一致して生きることを願う人びとは,命を神聖視される神の見方を尊重するので,自分自身の良心を考慮し,また政治上の法律に従って,能動的もしくは積極的安死術に訴えるようなことはしないでしょう。―出エジプト 20:13。民数 35:20,21。ローマ 13:1,5。ペテロ第一 3:16。

しかし,死が差し迫っていて避けられない明白な証拠があるなら,死の過程を引き延ばすために特別の(恐らく費用のたくさんかかる)手段を講ずることを,聖書は要求していません。そういう場合に,死が臨むままにまかせても,神のどのおきてを犯すことにもなりません。しかし,病人に回復の希望が全くないと決める前には,非常な注意を払う必要があります。a

[脚注]

a 安楽死に関する聖書の見方のさらに詳しい説明は,「目ざめよ!」誌の1974年7月22日号,26,27ページに掲載されています。

[7ページの拡大文]

「時々,『不治の』病と言われていた人が不思議に回復することがあるのは,よく知られている事実です。それに,医学は急速に進歩しているために,きょうは不治の病でも,あすは治せるかもしれません」。

[6ページの囲み記事]

正しいか,間違いか

『もし患者の苦しみの度合いを見定めるなんらかの方法があるなら,そのときは安楽死は許されてしかるべきだ』― アーメド。

『自分で命を縮めることは,自分を神の立場に置くに等しい。ゆえにそれは,どんな場合でも間違いである』― パディリア。

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