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目ざめよ! 1978
目78 9/8 15–16ページ

あなたはどんな影響を受けていますか

あなたはテレビでサッカーあるいは他のスポーツを見ますか。ワールドカップ・サッカーを見るつもりですか。それを見るため,どれほどの事をしますか。試合の結果をどれほど重要視していますか。

多くの人にとって,自分のチームが勝つかどうかは,実際に他の何をおいても重大な問題になっています。国家間の競争は信じられないほど激しいものとなり,国家主義の強い感情が結果として生まれます。「多くの人にとってサッカーは象徴的な戦争である」とニューヨーク・タイムズ紙は述べ,その例として,1970年のワールドカップ決勝戦にペルーを残すことになった試合の後の模様を次のように伝えました。

「試合が終わると,リマ市民の大半が街頭に繰り出した。サンフランシスコ教会の近くで戸口から飛び出した,みすぼらしい身なりの少年は黒い大きな犬を両腕に抱き,『とっても幸せだ! ペルーにとってすばらしい日だ! ぼくたちは勝った。ペピート,ぼくたちは勝ったんだ』と叫んだ。

「リマは奇抜な飾り付けをした自動車の列と,夜を徹して歌い,かつ踊る群衆で埋めつくされた。数千人の群衆がベラスコ大統領の私邸に行進した。大統領は屋根に上って,大きな旗を振った。大統領は感激のあまり上ずった声で群衆の歌声に和した。群衆に対する即席のスピーチの中で,大統領は,以前のサッカーチームが敗北を喫したのは前政権の不手際が原因だと語った」。

ここに述べたのは,多くのスポーツファンの抱く強烈な感情の典型的なものです。彼らは勝利に有頂天になり,敗北に絶望します。前の記事の中で述べたように,これは大変な結果になることがあります。あなたは競争心にかられることがありますか。あなたのひいきにするチームが試合をする時,感情面でも引き込まれてしまいますか。「目に物見せてくれよう」と挑戦的にさえなりますか。

これに関して聖書から賢明な導きが得られます。それを受け入れるならば,益を得ることは間違いありません。聖書の述べるところに注目してください。「自己本位になって,互いに競争をあおり,互いにそねみ合うことのないようにしましょう」。(ガラテア 5:26)これはどういう意味ですか。

「競争をあお」る

希英辞典によると,「競争をあおり」とここで訳されたギリシャ語は,「呼び起こす」,「決闘あるいは試合を人にいどむ」という意味です。したがってアメリカ訳聖書では「虚栄心を抱いて互いにいどむことをすまい」と訳されています。また「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」1950年版の脚注は,「互いに対決を迫る」という言い換えを示しています。

軍隊は敵に“対決”を迫り,戦士も同様のことをします。昔,ごう慢なゴリアテがどのように叫んだかを思い起こしてください。「我はペリシテ人にして汝らはサウルの臣下にあらずや汝ら一人をえらみて我ところにくだせ……一人をいだして我と戦はしめよ」。(サムエル前 17:8-10)しかしクリスチャンは試合に臨むのに,このような精神を避けることを望むでしょう。このような試合の勝敗に命がかかっている訳ではありません。サッカーそして他のスポーツに対して正しい見方,つまりそれは単なる娯楽,一時的な気晴らしであって,生死にかかわるような重大事ではないという見方を保つべきです。

あなたはスポーツをどのように見ますか。例えば,スポーツをしたり,見に行くために集会を休む習慣がありますか。他方,ワールドカップの試合とかち合わないように,クリスチャンの集会の定まった時間を変えるのは,霊的な事柄の価値を正しく認めていることの表われでしょうか。これは霊的に進歩し始めたばかりの人々にとって良い手本となりますか。「それでは,王国と神の義をいつも第一に求めなさい」と強く勧めたイエスの言葉を忘れないでください。―マタイ 6:33。

参加することについてはどうか

サッカーのようなスポーツをすることには益があります。「身体の訓練は少しの事には益がありますが,敬神の専念はすべての事に益がある」と聖書に書かれています。(テモテ第一 4:8)サッカーは非常に多く走るので,良い運動になります。また競技に熱中することから,精神的にも他のわずらいから解放されるという益があります。しかし,どんな事があっても勝つという間違った動機を抱いて試合に臨む時,問題が生じます。そしてこれはプロのサッカーの場合に起こりがちです。またもっと大切な「敬神の専念」がおろそかになることも考えられます。ゆえに,あるプロの選手が下した決定に注目してください。

「1965年のこと,わたしは夢がかない,工場の同僚に喜んでこう告げました。『諸君,わたしはバイエルン-ミュンヘン(プロのサッカークラブ)と契約を結んだところです』。仕事を終えてからしていた事が,今度は,試合の準備も練習もキャンプもすべて一日の仕事の一部となりました。

「わたしにとっては,18歳の時にプロサッカーの大きな世界が開かれたのです。わたしが一緒に成長したフランツ・ベッケンバウエルやジョルグ・シュワルツェンベックと並んでわたしはゲルト・ミューラーおよびゼップ・マイエール(4人とも1974年のワールドカップ選手権チームのメンバー)と共に競技をしました。

「プロとしてのわたしの経歴中,圧巻だったのは1966年,フランクフルト・ヴァルト・スタジアムの6万6,000人のファンの前でドイツ・サッカー・カップを獲得したこと,そしてそれに続く欧州選手権大会および1967年に南北アメリカへ遠征したことです。1968年から69年にかけて,わたしはファースト・エフシー・ニュルンベルク・クラブに,そして1969年から70年にかけてはシュツットガルト・キッカーズにトレードされました。

「シュツットガルトにおいて,わたしはエホバの証人と真剣に聖書を研究し始めました。そして間もなく,クリスチャンは集会をおろそかにすべきでない事を悟りました。家に居る時にはこれは問題ではありませんでしたが,遠征中は週末全部を旅行に費やすのが普通のことでした。

「プロサッカーを断念するというわたしの決意は容易なものではありませんでした。しかし1973年8月3日にミュンヘンでわたしは水のバプテスマによりエホバ神への献身を表わしました。サッカーはわたしの人生に大きな喜びを与えるものでした。しかしエホバとの良い関係にあることを知って得る喜びは,それとは全く比べものになりません」。

競技をする人間の能力は幸福な創造者の賜物です。しかし平衡を保つこと,また物事に対して正しい見方をする必要があります。敬神の専念の優れた価値を常に思いに留めなければなりません。「それは,今の命ときたるべき命との約束を保つ」からです。―テモテ第一 4:8。

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