私は視力のありがたさを学んだ
数か月前,私の“感謝”パーティーに来てくれた友人たちを座ってながめることができたのは,私にとって胸の躍るような経験でした。余りにも楽しかったため,私はパーティーが終わらなければいいと思ったほどです。それを“感謝”パーティーと呼んだのは,私の目が再び見えるようになったことを記念するものだったからです。みんなが楽しそうに話したり笑ったりしているのを満足げに見ていたとき,私は一人一人をはっきり見られることをエホバに感謝しました。
しかし友人たちを見ているときにも,私は一年余り前に,医師から私の妹が尿毒症で死ぬと言われたときのことを思い出していました。その後まもなくして,父は心臓発作で亡くなりました。娘の重い病気のために父はひどく心を痛めていたと思います。それから一月後に妹が亡くなりました。二人に死なれていたので,私は自分に健康上の問題が生じたとき,マニラの病院へ行って徹底的な検査を受けるのが賢明だと思いました。
ある日の午後,私は四時に病院に着きました。二日後家に帰ろうとしていたときに,突然胃と頭にひどい痛みを覚えました。私は医者を呼んで,鎮静剤をもらいましたが,痛みはやみませんでした。
首の後ろ側がほてっているように感じ,私は目をつぶりました。もう一度目を開けたときには,どこも真っ暗に見えました。明かりをつけてほしいと頼むと,明かりはついていると言われました。私は自分の目が見えなくなったことを知ったとき,身震いし始めました。もう一度目を閉じ,開いてみました。今度は先ほどとは少し違い灰色のもやが見えました。物を見分けることはできませんでしたが,何かが動くと,そのもやの中で何かがかすかに動くのが見えました。
しばらくの間私はこうした症状はなくなるものだと思っていました。ところがそれはなくならなかったのです。そうした症状がなくなりそうにないことを知ったとき,私はショックの余りヒステリーを起こしました。助けを求めて激しく泣き叫び,とうとう酸素吸入を受けるまでになりました。そのあと私はエホバに助けを祈り求め,かなり冷静になることができました。
友人に励まされる
私は病院で幾度も目の検査を受けましたが,その都度,器質的な疾患はないというのが結論でした。私は途方に暮れ,現実に立ち向かう気力を失いかけていました。主人が何人かのクリスチャンの友人に連絡を取ると,すぐに訪ねて来てくれました。その友人たちとの交わりは私にとって大きな励みとなりました。気分的に落ち着いてきた私は,目のほうは相変わらずでしたが,主人のマニーにそれ以上心配をかけないために普段と同じように振る舞うよう努めました。
病院にいても容体に変化が見られなかったので,家に帰ったほうが良いように思われました。家では,数人の友人と私の二人の子供キングとルツが待っていました。それからしばらくの間,色々な会衆の友人たちが入れ替わり立ち替わり訪ねて来ては料理や掃除を手伝ってくれたり,話し相手になってくれたりしました。このすべては私を元気付けるものでしたが,兄弟たちも忙しいことを私は知っていたので,ついに彼らに感謝の言葉を述べ,二人の大きな子供(キングは15歳,ルツは13歳でした)がいるので子供たちに手伝わせることを話しました。
目の見えない生活
独りでいるときなど,視力が回復しそうにないことを考えて涙ぐんだこともありました。でもそういうときには,すぐエホバに祈ると,気分が楽になりました。聖書中の人物ヨブに比べれば私の状態など,はるかに楽なものでした。その上私には素直な子供たちと思いやりのある主人がいました。このことだけでも,エホバに感謝しなければなりません。
私は家の中で日常の雑用をすることにすぐに慣れました。一か月ほどたったころには,それほど速くはなくても,以前していたことは大抵なんでもできるようになっていました。仲間のエホバの証人と市場へ買い物へ行き,洗たくと掃除は自分でしました。食事の支度や調理もしましたが,フライのときは少しばかり苦労しました。時には熱い油でやけどをしたこともありました。食べ物に火が通ったかどうかは,味見をして判断しました。
主人と子供たちは私を病人扱いせず,以前と同じようにすることに決めていたようです。それで,以前と同じように,「ママ,水をちょうだい」とか,「お前,ソックスを出しておくれ」などと言いました。そして私はそうするよう期待されていたのです。これは私が自信を取りもどす上で驚くほど効果がありました。
それでも私には確かに助けが必要でした。主人と子供たちはとてもよくしてくれました。子供たち,特にルツは大変得るところがありました。子供たちは家事の分担が多くなったために,仕事のやり方を覚えたのです。私は特に最初のころ,よく失敗をしました。子供たちが学校へ行っているとき,つまずいて切り傷を作ったり,犬がいるのが見えなくてよけなかったためにかまれたこともありました。でも注意するように心掛けていたので,大きな事故には遭わずに済みました。
私はエホバが備えてくださった他の感覚のありがたさがよく分かるようになりました。視力を失ってから聴覚,触覚,味覚が敏感になり,記憶力もとても良くなりました。硬貨は手で触って区別できましたし,紙幣はその額によって折り方を変えておいたので,やはり触って区別することができました。視力の回復した今でも記憶力は良く,聴覚もとても敏感です。
クリスチャン活動
マニーと会衆の友人たちは,私が定期的なクリスチャン活動を続けてゆく上で大きな助けとなりました。私がいつも新しい出版物の内容に通じていたのは,夜寝る前にそれらをマニーが読んでくれたからです。前もって一緒に勉強していたので私は集会で注解することができました。また,皆と一緒に歌も歌いました。主人がその歌詞を急いで読んでくれたからです。私がそれを大きな声で歌っているときに,主人は次の行を小声で読んでくれました。
私は家から家の伝道の業にもあずかることができましたし,聖書研究の司会も続けました。もちろん,聖句や出版物の中の質問は他の人に読んでもらわねばなりませんでしたが,重要な点を強調するために私はよく補足的な質問を尋ねました。このようなとき,以前機会を捕らえて聖書を学び,知識を蓄えておいて本当によかったと思いました。私が聖書研究を司会していた女性は,以前は少し無関心なところが見られましたが,私の目が見えなくなってからは,とてもすばらしい進歩を遂げました。
こうして私の祈りはかなえられました。私は引き続きエホバに仕え,その奉仕から喜びや良い結果を見ることができました。
視力が回復する
約八か月の間,私にはあの灰色のもやしか見えませんでした。色々な方面の医師を根気良く訪ね,その処方薬を飲み続けましたが,回復のきざしは見えませんでした。ところが処方薬を飲むのをやめてから二か月ほどたったころ,少し良くなったように思えました。しだいに物がぼんやりと見えるようになり,灰色のもやが見えなくなったのです。依然としてすべてのものは白く見えましたが,お陰で洗たくや料理をするのが少し楽になりました。
それから一年たち,色が幾らか見えるようになりましたが,それでも水の中に潜っているときのように,目まいでふらふらすることがよくありました。すべてのものが揺れているように見え,それから消えてしまうのです。視力は相変わらず非常に弱かったものの,私は近付いて来る人を見分けることができました。この病気にかかって13か月目に,ついに私はクッキーのかんを見て,ラベルの文字が読めるようになりました。私の視力が回復したのです。
それで私は“感謝”パーティーを開き,非常に多くのものに対してエホバに大変感謝しながらそこに座っていたのです。もちろん私は視力が回復したことを感謝していましたが,しばらく目が見えなかったために学んだ事柄すべてに対しても感謝していました。私が一番必要としているときに大きな愛を示してくださったクリスチャンの兄弟たちには一層親しみを感ずるようになりました。また,私たち家族の内にある暖かい愛がとても貴重なものであることを感じました。こうしたことが起きたために,家族関係ははるかに密接なものとなりました。エホバに全く頼らねばならなかったために,エホバをより身近に感じるようにもなりました。エホバとの関係は確かに深まったと思います。そして私は,私たちに与えられている最も貴重な特権はエホバに対する奉仕であることを学びました。―寄稿。