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目ざめよ! 1978
目78 9/22 6–10ページ

激しさを増す宗教的偏狭

とき: 1976年7月9日。ところ: アルゼンチン北東部にある小さな,田舎の学校。催し: アルゼンチンの国の祭日。

ヘンテという週刊誌の記者たちがその学校に来ていました。どうしてですか。特にその学校がブラジルとの国境に近かったため,記者たちは学校の不穏な状態に関心を抱いていました。以前に記者たちは,相当数の人々が不法入国していると書いたことがありました。そこで,事態がどんなものであるかを調べるために,その学校を訪れたのです。

ところが記者たちは,その記事をもっと世間を沸かせるものにしなければならないと考えました。そこで記者たちはどうしましたか。他の生徒たちが国旗敬礼の儀式に参加している間に,幾人かの子供を国旗に背を向けて立たせました。生徒たちをその位置に立たせて,写真を撮ったのです。

その記事は7月15日付で発行されました。ところがその記事は,国旗に背を向けて立っている子供たちはエホバの証人であると伝えたのです。本当にそうだったのでしょうか。決してそのようなことはありません。その日,エホバの証人の子弟四人は,登校さえしていなかったのです。そして,たとえその子たちがその場にいたとしても,国旗に対してそのような不敬の念を少しでも示すことは,クリスチャンとしてその子たちに与えられた訓練と相入れない行為となっていたことでしょう。

このようにして,国旗に対するエホバの証人の敬意の欠如と見えるような,このゆがめられた記事が雑誌に掲載されました。そして,そのニュースは素早く全国に広がったのです。

連鎖反応

翌月,同じミシオネス州で,別の事件が起きました。その地で,高校生二人,教師一人,そしてその生徒の親たちが逮捕され,16日間投獄されました。彼らは,国の象徴に対する“[侮辱的な]軽視”の罪に問われたのです。

どうしてそのような罪に問われたのですか。その生徒たちが国歌,および「サン・マルティンの行進」を歌えないと言って断わったからです。即座に,エホバの証人を法的に弁護するための措置が取られました。

一方,ミシオネス,エントレ・リオス,そしてフォルモサの各州の,エホバの証人の公の集会場は強制的に閉鎖されてゆきました。こうした措置は,連邦および州の当局者の手で取られました。

エホバの証人は,信教の自由に対する,こうした公の妨害に抗議し,8月23日に,ブエノスアイレスの連邦裁判所へ“アンパロ”(差止命令)の令状を求めました。

正義が勝つ ― しかし長続きはしない

数日後,8月27日に,連邦判事フランシスコ・カリクスは決定を下しました。同判事は,国家の象徴に対する“軽視”の罪に問われていた,ミシオネス州のエホバの証人を釈放するよう命じました。また,彼らに対するあらゆる非難を取り除くよう命じたのです。

同判事は,「侮辱的な軽視というものには,実質的な行為が伴う」と述べました。そうした行為として,判事は,「破壊,焼却,破損,切断,汚損,つばを吐きかけること,破ること,踏みにじること」などを挙げています。またそうした侮辱的な軽視は,「口頭(口笛を吹く,やじを飛ばす),文書,さらには攻撃的な動作によっても」表わされることにも注目しました。

問題のエホバの証人はこうした行為のいずれかについて罪ありとされたでしょうか。同判事は,「被疑者のいずれかに,そのような意図があったことを示す重要性の高い要素は,審理の中から出て来ていない」点に注意を向けています。そして,こう付け加えています。「反対に,彼らは異口同音に,国家の象徴すべて,および法律に対して自分たちは敬意を表明していると主張している」。

確かにその日,正義は地歩を占めました。しかし,その勝利は短いもの,実に短いものでした。それはわずか四日間続いたにすぎなかったのです。

激しい攻撃が加えられる

1976年8月31日,政府はそのとどめの一撃を加えました。政府は大統領令1867号を発令したのです。

この政令は一部次のように述べています。「国の憲法第14条と第20条で聖なるものとされている信教の自由は,当然のことながら,その宗教思想が暗に法律を犯すよう人をそそのかしたり,公序良俗,国家の安全,道徳などに反する行為をほのめかしたりすべきではないという意味で,制限されたものである」。

しかし,フランシスコ・カリクス判事がその判決の中で示しているとおり,エホバの証人に対するそのような疑いが確証されたことはありませんでした。

にもかかわらず,その政令はさらにこう述べています。「この理由で……アルゼンチン国大統領は以下のとおり布告する。

「第一条: 『エホバの証人』または『ものみの塔聖書冊子協会』として知られる宗教団体,および当該団体と直接,または間接に関係のあるグループ,存在,および団体すべては,当国の全域において禁止された」。

「第二条: 次のものも同様に禁止されている。(イ)公であろうとなかろうと,考慮の対象となっているこの教理を支持する,文書,雑誌,およびすべての出版物。(ロ)改宗者を作ったり,教えを吹き込んだりする行為。

「第三条: 前述の団体が集会を開いている場所すべて,および第二条に挙げられているような資料が印刷,頒布,および販売されている場所は閉鎖される。

「第四条: 内務省を通して,この政令を実施するための規定が採用され,指示が与えられる」。政府の措置と関連して,内務省の法務監督総局の提出した訴訟事件覚書は次のように主張していました。「この宗派は,専ら宗教上の崇拝行為を行ない,そのような崇拝行為が我々の道徳や良俗に従ったものである……という点は証明されていない」。

もちろん,事実はそれとはまさに正反対です。今世紀を通じて,エホバの証人は熱心にその宗教上の崇拝行為に専念することがはっきりと示されてきました。そのような崇拝は,最高度の道徳性を備えています。それはまた,他の人々の選ぶ崇拝の方式を妨げることも,その人々が実践したいと思う習慣を妨害することもありません。米国の最高裁判所を含む,世界中の当局者たちは,以上の事柄が真実であることをずっと昔に確証しています。

この訴訟事件覚書には,次のような驚くべき陳述が含まれていました。「人肉嗜食,儀礼的殺害,あるいは一夫多妻を認めるような宗教の場合に,それに自由を与えることなど考えられない。その上,この場合に問題になっているような宗教は,いかなる形を取ろうと,認めることはできない」。

この陳述の言葉遣いからすれば,事情を知らない人々はエホバの証人が何らかの仕方で人肉嗜食や儀礼的殺害や一夫多妻と関係していると思うかもしれません。しかし,それは全く根も葉もない虚偽の言葉です。それでも,このような当てこすりは,確かに害をもたらします。エホバの証人のことをよく知らない,大勢の人々は,こうした当てつけにはある程度の根拠があると考えるかもしれないからです。

法廷闘争は続く

エホバの証人の起こした訴訟は幾つかの法廷を経て,審理されてゆきました。1977年3月10日,連邦判事,ホルヘ・E・セルメソニ博士が判決を下しました。同博士は,禁令の第一条を違法と宣し,この政令を発行するに当たって,行政権がその権限を越えたことを示しました。しかしながら,判事は,「宗教団体登録部に登録されていないことの結果として……同派はすでにその活動を禁じられている」とも宣告しました。

内務省はその判決を不服として控訴し,エホバの証人も同様の立場を取りました。内務省は,行政権には憲法で保障されている権利を制限する権限があると主張しました。エホバの証人がその決定を不服として控訴したのは,それがエホバの証人に対する禁令を除くものとならなかったからです。

この問題は控訴裁判所へ持ち込まれました。6月23日,アルベルト・アズコナ,フアン・カルロス・ベカール・バレラ,そしてバレリオ・R・ピコの三人の連邦判事は,下級裁判所の判決を部分修正し,大統領令を無効と宣したのです。

その理由として判事たちの挙げた事柄は,6月24日付のラ・ナシオン紙に報じられました。それは次のようなものです。「信教の自由は最も重要な人権の一つであり……結果として,エホバの証人の場合,……その実践が道徳や公共の秩序に悪影響を及ぼさないかぎり,その宗派の活動を正当な根拠のもとに制限することはできない」。判事たちは,「[エホバの証人]の規則によると,その団体の目的が『至高の神とキリスト・イエスに対する,クリスチャンとしての公の崇拝』である」という点に注意を引いています。

こうして,アルゼンチン憲法に表明されている,高潔な理想は尊重され,適用されたのです。しかし,法律はさらに上級の裁判所へ控訴するために,10日の猶予期間を置いています。問題は,国は控訴するか,ということでした。

最高裁判所へ

猶予期間の終わる間際になって,政府は最高裁判所へ控訴の申し立てを提出しました。この訴訟は,アルゼンチン内外の,自由と人権を気遣う人々の間に多大の関心を引き起こしました。そのような人々は,同国の最高法廷は憲法で保障されている自由を擁護するものと確信していました。

1978年2月8日,最高裁判所の五人の判事はその判決を下しました。彼らは禁令を無効にすることを拒んだのです。

その判決は,一般の人々にとっては矛盾そのものと映るような法律用語でぼかされていました。判事たちは,『政令1867号は,専横なところも,明らかに不法なところも示していない』と主張しました。それでもその政令は,憲法と全く相反するので,専横で不法なものだったのです。

判事たちは,『エホバの証人には自分たちの権利を守るための行政上,および司法上の手段が別にあった。それはすなわち,宗教登録部に登録することである』と述べました。しかし,エホバの証人はそれまでに九回もこの宗教登録部に含めてもらえるよう政府に請願し,その度に却下されてきたのです。

それに加えて,判事たちは,『エホバの証人の具体的に示した要求の正当性についても,その業を禁ずる政令の中で採用された措置の正当性についても判断を下したのではない。裁判所は,エホバの証人の用いた法的な経路を認容できないと宣言しているにすぎない』と言明したのです。しかしながら,法廷はエホバの証人が適切なやり方で用いた法的な経路だったのです。

最高裁判所はどうしてそのような論法を採用するという挙に出たのでしょうか。司法長官を含む同国の法律専門家,および事件の審理に当たった連邦判事たちは,15か月間にわたってこの問題を注意深く研究していました。ところが,エホバの証人の求めた法的な援助は,ただの一度も問題にされることも,議論の対象になることもなかったのです。

最高裁判所は,ポンテオ・ピラトがイエスの場合に行なったように『手を洗って』いたにすぎないのですか。最高裁判所は,憲法上の問題をはっきりと定めるという責任を回避しようとしていたのでしょうか。

アルゼンチンの有名な教育者で,政治家でもあった,ドミンゴ・F・サルミエントが一世紀前に言い表わした態度は何と異なっていたのでしょう。サルミエントはこう語りました。「少数派がいて,たとえそれが一人だけであっても,その人が正直に,また誠実な気持ちで多数派の感情に同意しないのであれば,その人が法を犯そうとしない限り,法はその人を保護するのである」。サルミエントはさらに,「そのような人の考えを守るために……憲法が作成されているのである」と言明しています。

このようにして,自らの責務を回避した最高裁判所は,自由に対して,またエホバの証人に対して容易ならぬ一撃を加えました。最高裁判所のしたことと言えば,1976年9月に最初に禁令が課されたときすでに見られ,またの判決の後に起ころうとしていた偏狭に満ちた行為の数々に,その是認の印を与えることだけでした。では,そのような偏狭に満ちた行為にはどんなものがありますか。

[9ページの図版]

アルゼンチン政府,国内の諸宗教団体に登録を命令,応じぬものは活動停止

ニューヨーク・タイムズ 1978年2月15日 水曜日

これは上記英文刊行物の記事を訳したものです

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