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目ざめよ! 1979
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聖書の見方

クリスチャンの自由が強調されるのはなぜか

「キリストはわたしたちを自由にしてくださったのです。ですから,しっかり立ち,再び奴隷のくびきにつながれないようにしなさい」。(ガラテア 5:1)「自由の民らしくありなさい。ですが,あなたがたの自由を,悪の覆いとしてではなく,神の奴隷として保ちなさい」。(ペテロ第一 2:16)クリスチャン・ギリシャ語聖書の中のこうした類の表現は,クリスチャンの自由の貴重な価値とそれを擁護する重要性を強調しています。西暦一世紀に存在していた状況を調べることは,なぜ,クリスチャンの自由がこれほど強調されているのかを認識する上で役だちます。

イエス・キリストがご自分の命を犠牲として与えるため地上に来られる前,全能の神は,もっぱらイスラエル国民とだけ交渉を持っておられました。西暦一世紀までの1,500年以上の間,イスラエル人はモーセの律法下にいました。ユダヤ教の宗教指導者,特にパリサイ人は,その伝統的な解釈に従って律法を厳守することにより,神のみ前に功を立てることができると信じていました。そのあわれみと好意を求めてエホバ神に謙遜に頼る代わりに,これらの人々は自分たちが他のイスラエル人よりりっぱで,神との優れた関係にあるということを誇っていました。彼らの態度はイエスが一つの例え話の中で示されたパリサイ人のようでした。その人は次のように祈っています。「神よ,わたしは,自分がほかの人びと,ゆすり取る者,不義な者,姦淫をする者などのようではなく,またこの収税人のようですらないことを感謝します。わたしは週に二回断食をし,自分が得るすべての物の十分の一を納めています」― ルカ 18:11,12。

しかしながら実際には,モーセの律法はパリサイ人をさえ罪人に定めるものでした。例えばパウロは,パリサイ人であったとはいえ,律法を完全に守ることはできないことを悟っていました。最善の努力を払うにもかかわらず,彼は貪欲を戒めるおきてが自分をとがめることに気付きました。ローマ人への手紙の中で,彼は次のように書きました。「律法が『あなたは貪ってはならない』と言っていなかったなら,わたしは貪欲ということを知らなかったでしょう。しかし,罪はおきてを通して誘いを与えられ,わたしのうちにあらゆる貪欲を生み出しました。律法がなければ,罪は死んでいたのです。事実,わたしはかつて律法がなくて生きたものでした。しかしおきてが到来した時,罪は生き返り,わたしは死にました」― ローマ 7:7-9。

律法の主要な目的の一つは,メシアの贖罪の働きの必要性をイスラエル人に意識させることによって,彼らをメシアに導くことでした。それゆえ,イエス・キリストがその犠牲の生涯を終えられ,み父にご自分の犠牲の価値を差し出された後,律法はその目的を果たしました。(ガラテア 3:24,25)罪を許してもらうため,キリストに関する神の取り決めに信仰を働かせた人々は皆,罪の宣告とその宣告を明らかにした律法から自由にされました。―ローマ 7:6; 8:1,2。

西暦一世紀のクリスチャンとなったユダヤ人のある者たちは,このきわめて重大な真理を正しく認識せず,救いは律法を離れては得ることはできないと主張しました。道徳的な行為が神に受け入れられるか否かは,律法を厳格に固守するかどうかにかかっていると信じていた彼らは,信仰を持つ非ユダヤ人にも律法を課すことを望みました。(使徒 15:2,5)このようにキリスト教徒となったユダヤ人たちは,律法それ自体がりっぱな行為を保証するものではないことや,キリストに信仰を働かせる人々に働く神の霊が,義に対するはるかに強い力となるという事実を見失っていました。(ガラテア 5:16-18)神の霊は人々のうちに愛を生み出し,そして「愛は自分の隣人に対して悪を行ないません」― ローマ 13:10。

律法を守ることを主張する人々は本質的な信仰の価値を否定し,自らを義とする手段としての業に注意を払い続けていました。崇拝に関する彼らの律法主義的な考え方は,人々が罪人で死に値するものであることを明らかにするに過ぎない取り決めに,クリスチャンを引き戻すものだったといえます。―ローマ 3:20; 6:23。

それで,救いを得る手段として律法の遵守を主張することは,実際には奴隷の身分に再び帰ることでした。しかしクリスチャンは,イエスの犠牲に基づいて奴隷の身分からは解放されていました。使徒ペテロは,律法の要求が無割礼の非ユダヤ人の信者にも課されるべきだと感じていた人々にこの点を指摘しました。イタリア人コルネリオやその他の人たちが,無割礼の状態のままで神の霊を受けた,という事実に言及して,使徒は次のような結論を下しました。

「人の心を知っておられる神は,わたしたちに行なわれたと同じように,彼らにも聖霊を与えて証しをされました。また,わたしたちと彼らとの間になんの差別も設けず,彼らの心を信仰によって浄められたのです。それですから,どうして今,父祖もわたしたち[ユダヤ人]も負うことのできなかったくびき[モーセの律法]を弟子たちのくびに課して,神を試したりするのですか。それどころか,わたしたちも,その人たちと同じように,主イエスの過分のご親切によって救われることを頼みとしているのです」― 使徒 15:8-11。

エホバ神は,信仰を持つ非ユダヤ人にみ子を通してご自分の霊を注ぎ出されたのですから,無割礼の信者が律法の下に来ることを望んだ人々は,事実上神を非難していたことになります。そこに見られるのは,律法を守ることを第一に要求せずに非ユダヤ人を受け入れるとは,至高者はご自分が行なおうとしていることをご存じないのだという考えでした。これは『神を試すこと』であり,本当に間違った考えです。信者がエホバの不興を買うことがないようにするため,クリスチャンの自由は擁護されなければなりませんでした。

今日も,わたしたちはクリスチャンの自由を擁護しなければなりません。それは,わたしたちが不法な者であってよいという意味ではありません。それどころか,わたしたちは神とキリストの奴隷です。わたしたちが罪を行なうものとなるなら,神のみ子がわたしたちのために死なれた目的,すなわちわたしたちを罪から自由にするという目的そのものを否定することになるでしょう。わたしたちに示された過分のあわれみにつけ込むのは,本当に道に背いたことなのです。(ローマ 8:2-11。ペテロ第一 1:17-19)さらに,ある業を行なうことによって永遠の生命の賜物を得ると考えるわなに陥らないよう,わたしたちは十分に注意しなければなりません。そのわなに陥ると,パリサイ人のように,自分自身を高く考えすぎたり,神がキリストと聖霊を通して成し遂げておられる業の誉れを自分自身に帰したりすることになりかねません。(ローマ 7:21-25。コリント第一 3:6,7と比較してください)わたしたちのりっぱな業や振る舞いは,単にわたしたちの活動的な生きた信仰の表明にすぎません。(ヤコブ 2:26)それらは,わたしたちが天の父やそのみ子の器として用いられることを許されたという証しです。このようにして,すべての栄光がエホバ神とわたしたちの主イエス・キリストに帰されます。

正しい動機で神に奉仕するというクリスチャンの自由の価値を,わたしたちは決して見失いたくないと思います。完全な法典は,だれをも義とすることはできません。神から是認されるためには,わたしたちの生活の中,罪深い肉的傾向を克服するための,法律よりも強力な力がなければなりません。その強力な力は神の霊です。それは,キリストによる神の救いの取り決めに心からの信仰を持つ人々に惜しみなく働きかけます。ですから,クリスチャンの自由をユダヤ人の律法主義に置き換えることは,クリスチャンの信仰を否定することなのです。

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