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  • 神に仕えたいという私の夢 ― どのように現実となったか
  • 目ざめよ! 1980
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目ざめよ! 1980
目80 4/22 25–27ページ

神に仕えたいという私の夢 ― どのように現実となったか

待ちに待った夢が実現したのは,1962年11月14日のことでした。その日,修道女になるためにポルトガル,サント・ティルソのカライシ・フランシスコ第三会の女子修道院に入ったのです。それまでの私の人生はすべてこの日に備えるために送ってきたようなものです。修道院の入口の上り段に立った私は父に別れを告げました。父も私も幸せでいっぱいでした。

私の家族は敬虔なカトリック教徒でした。父はロザリオをポケットに入れて野良に出て,祈りを唱えながら仕事をしていました。毎晩,家族全員が一緒にロザリオの祈りを繰り返しました。

すべての善良なカトリック教徒の家族は子供を一人カトリック教会に差し出すことが期待されていました。私たちの家族では私が選ばれました。これはとても大きな特権とみなされました。私は懸命に公教要理を勉強し,ビラレアルの司教の面接を受けました。親しい友人や親族の中には,すでに修道女や司祭になっている人がかなりいました。

女子修道院での生活

驚いたことに,修道院の生活に順応するのはなかなか容易ではありませんでした。宿泊施設には何の問題もありませんでした。宿舎は幾つかに仕切られており,各部屋にベッドと小さなテーブルといすが一つずつ備えられていました。私にとって大きな努力が求められたのは長い期間黙っていなければならないことでした。それまで三人の兄弟と三人の姉妹の中で育ってきましたから,おしゃべりや快活な家族生活の雰囲気に慣れていたのです。

朝6時半に起床すると,まず30分間,礼拝堂で祈りを唱えます。カトリック教会の出版物を用いて宗教の研究を行なえるのは,実際には週にわずか一時間にすぎませんでした。一言もしゃべらずに朝食を取ります。もっともこれはどの食事のときでも同じでした。朝食が終わるとそれぞれの部門に仕事をしに行きます。

毎日,昼食後の一時間はレクリエーションの時間でした。この時はお互いに話すことができました。でも,故郷の町の名を直接口にすることはできませんでした。「ある場所で……」というように,いつもばく然とした表現を使わなければなりません。郵便物は送られてくるものもこちらから出すものもすべて検閲されました。

一か月後には,そのような日課にも慣れ,修道院の生活を楽しめるようになりました。話したい時は神と話しました。黒いベールをかぶり,長い黒の服に身を包み,十字架像を下げていることは特権である,と私は毎日考えていました。カトリック教会の典礼にのっとった敬虔な生活を送るよう良心的に努力していました。

思いもよらぬ失望を味わう

六か月の修道志願期間も終わりに近づいたので,私は指輪を受けることを望むようになりました。それはいわば,イエス・キリストと“婚約”したことを意味します。数年すれば,訓練を終え,修道女として終生誓願を立てることになるのです。

ある日,洗濯室で仕事をしていると,女子修道院長の所へ行くよう身ぶりで指示されました。院長は,親切な仕方ではありましたが率直に,私の健康上の問題のために修道院での生活をこれ以上続けていくことはできない,と語りました。私は気管支炎にかかっていました。健康な人しか修道院にはとどまれないと言うのです。そのときの心の激しい動揺は言葉では言い表わせません。生涯の夢が打ち砕かれてしまったように思えました。なんとかとどまる方法があるはずです,と私は必死に言い張りました。しかし,出ていかなければならないでしょう,という院長の言葉は決定的なものでした。

ひとしきり涙に暮れたあと,父が外に迎えに来ていることを知りました。女子修道院長は私を力付けようとして,博愛精神に根ざす奉仕をいくらでもすることができると語り,ポルトの聖マリア病院で働けるよう取り計らいましょうと言いました。気の動転していた父は,「修道女になれないのなら娘を病院などにやりません。家に戻って,もう一度わたしたちと一緒に暮らさせます」と答えました。

家に帰っても,教会の伝統に対する私の熱意は薄れませんでした。自分はキリストの“花嫁”であると依然考えていましたし,聖日を守ることや断食すること,祈りを唱えることなど,典礼をことごとく守っていました。毎晩,床に就く前には,十字架像に口づけをしました。自分が家から離れていて,自分の泊った部屋の壁に十字架が掛かっている場合,その場所に口づけをするため,いすの上に立ったり,時には化粧台の上に乗ったりしたものです。私の人生の最大の願いは神に仕えることでした。

いとこの影響

私はやがて,ポルトガル最大の都市リスボンに仕事に出ました。1973年のクリスマスの時季に,リスボンの近郊に住むいとこのもとを訪ねました。いとこには子供が三人おり,私はその子供たちが大好きでした。そこで,子供たちに贈り物を持って行きました。エホバの証人と聖書を勉強していることを,いとこが穏やかに打ち明けたのはこの時でした。五月の休暇をこのいとこと共に過ごすことにしていたのですが,その話を聞いた私は,この家には二度と足を向けまい,と考えました。それまでに聞いた話では,エホバの証人の宗教というのは「最低の宗教」でした。

しかし,後になって考え直し,計画通りいとこの家に行くことにしました。といっても,いとこをもう一度,教えを守る善良なカトリック教徒にしようという明確な目的を持って出掛けたのです。ところがいとこはいとこで,私と同じほど固い決意を抱いていました。私がエホバの証人の文書をいっさい拒否したので,いとこはカトリック訳の聖書を開いて説明しようとしました。それでもまだ,それは“公認された”聖書だろうかと私は疑っていました。そこでいとこは,自分が“本物”と考える聖書を手に入れるよう私に勧めました。私が個人的に聖書を調べることをいとこがどれほど深く望んでいるかが分かってきました。

休暇も最後の週になったある日,いとこは,集会に行くので一緒に夕食ができない,と言いました。宗教上の事柄についてはことごとく意見が食い違っていましたが,この集会に出席することに私は強い好奇心を抱きました。自分でも驚いたことに,私はいとこと一緒に「ものみの塔」研究に出席し,しかもその内容に興味を覚えました。ふと気づくと,そこにいるエホバの証人の何人かは,休暇で滞在中のいとこの家で幾度も会ったことのある人たちでした。これらの証人たちは親しみのある人々で,その間には“家族的”な精神が感じられました。

私の最初の聖書

休暇の後,リスボンの書店を幾軒も巡ってカトリックの聖書を探しましたが,どこにも見つかりませんでした。ある修道会を通してやっと一冊手に入れました。聖書を手に入れると,私はまっすぐ家に帰り,いとこが引用した聖句を調べ始め,朝の四時まで夢中で調べました。偶像,死者の状態,どなたが神かといった点について聖書の教えている事柄に私は驚きを覚えました。「女子修道院で聖書を研究しなかったのはなぜだろうか。カトリック教会はどうして聖書の教えに従っていないのだろうか。神のみ名エホバをしかるべき仕方で用いないのはなぜだろうか」と自問しました。

私は崇拝の際に像を使用するのを直ちにやめました。ヘブライ 10章10節を考慮した後,聖餐にあずかることもしなくなりました。1974年7月から12月まで,エホバの証人の出版物を喜んで用いはしましたが,自分一人で聖書を研究しました。

有名な僧職者で,リスボンにあるカトリック大学の神学部の部長をしているいとこがいたので,自分が聖書から学んでいる事柄をそのいとこにぶつけてみることにしました。驚いたことに,いとこは,崇拝の際に像を使用するのは聖書的でないことを認めました。しかし,像の使用を正当化して,「人間は弱いので目に見える助けが必要だ。さもないと神を忘れてしまう」と言いました。神の固有のみ名がエホバであることにもすぐに同意しました。そして,“神”という語を使うほうが大抵の人の気分を害さずにすむ,と力なく付け加えました。興味深いことに,そのいとこは私がエホバの証人と勉強することに反対しませんでした。しかし,聖書は様々な箇所で矛盾していると語って,聖書に対する私の信頼を弱めようとしました。このいとこの信仰が強固なものでなかったことは明らかです。

賢明な決定

1974年の12月には,エホバの証人に家庭聖書研究を司会してもらおう,という決意を固めていました。それから数日後の12月22日に,リスボンを訪問中のエホバの証人の統治体の成員N・H・ノアとF・W・フランズの話を聞くために特別の集まりが開かれましたが,私はそこに出席した3万9,000人を超す人々の中にいました。私はその集会から大きな影響を受けました。これほど大勢の人々,しかもそのすべてが聖書の教えに通じた,聖書の研究者である人々のただ中にいるのです。これこそ,神を喜ばせる崇拝,『霊と真理をもって行なう崇拝』に違いない,と思いました。―ヨハネ 4:24。

私は会衆のすべての集会に定期的に出席するようになりました。1975年2月には,マタイ 24章14節の言葉に従って戸別に人々を訪問して神の王国の良いたよりを告げる業に携わるようになりました。今や,聖書の正確な知識に基づいて,自分の命をエホバ神への奉仕に捧げました。その年の夏の「神の主権」地域大会で,私は自分の献身を表明するためにバプテスマを受けました。

11月には,エホバの証人の全時間奉仕者である開拓者として奉仕を始めました。私は長老たちにこう話しました。「私にはエホバに仕える用意があります。ですから,みなさんが良いと思われる所に遣わしてくださってけっこうです。正規開拓者にでも,特別開拓者にでも,宣教者にでもなれます。みなさんの良いと思うことをどうか教えてください」。

1977年11月に,私は結婚しました。現在,夫と共に,ここポルトガルで「良いたより」を宣べ伝える幸せを味わっています。これまで他の人から忍耐強い助けを得てきました。ですから今は,偽りの宗教の伝統に依然捕らわれている多くの人の霊的な目を開く業に熱意を込めて励んでいます。

「瞑想と禁欲の生活」を送る代わりに,イエスの言葉と模範こそ最高のものであることを知りました。そうです,「受けるより与えるほうが幸福」なのです。(使徒 20:35)― 寄稿。

[25ページの図版]

はかなく消えた夢

夢は現実となった!

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