地獄の火を再燃させるバチカン
フランスの「目ざめよ!」通信員
「バチカンから強硬なお達し」,「再び訪問を受けた地獄」,「地獄は着火しそこなったか」,「来世に関する教会の教えを擁護すべし ― 困惑するクリスチャン」。
以上は,バチカンの信仰教義聖省が昨年公表した,地獄に関する書簡を記事に扱った新聞,雑誌の見出しのほんの数例です。その書簡は,法王ヨハネ・パウロ二世が正式に承認したものです。
この公式書簡は,すべてのカトリック高位聖職者,神学者に対し,「信仰の基本的真理に全く忠実であることの必要性」に注意を促すものでした。その中には「魂」の死後の生存,「義人の天上での喜び」,「のろわれた者たち」の「地獄」での永劫にわたる懲罰などが含まれていました。
法王公認のこのバチカン書簡を評し,パリの日刊紙ル・モンドは,こう書いています。「地獄に関しローマ聖省は,こうした罰が実在し,『永遠』に終わりがないことに注意を喚起している。この教理が,現代人の心に最も大きな問題を引き起こすことは,間違いない。……それはあらゆる教理の中で,最も重苦しく,また真実らしくない教義である。検邪聖省に取って代わったローマ聖省は,なんらかの注解はおろか,それについて説明しようとの誠意が全くないまま,残酷にも我々にそれを思い出させたのである」。
最近の「さめた地獄」
「地獄の実在」についてのこの無情な通達は,誠実なカトリック信者にとって,なおさら驚きであり,気のめいるような知らせです。なぜですか。なぜなら,これまで何年というもの,カトリック僧職者たちは,地獄の火という主題を扱うさい,調子をやわらげてきたのが実情だったからです。フランスのニュース週刊誌レクスプレスは,この点を大きく取り上げ,次のように書いています。
「地獄がこのほどニュースとしてカムバックしたが,これまで長年,多少なりとも故意に忘れられてきたのが実情であろう。……それは実質上,触れられたことのない題材である。地獄が教会で説かれないようになってから三十年にもなる。天国も煉獄も,事態の改善には役立たなかった。新しい世代のカトリック教徒は,永遠の命についてほとんど聞かされていないか,まるで教えられていない」。
カトリックの僧職者は,変化という風に吹きあおられてきました。科学技術の進歩,古い植民地主義の終わり,人権の拡大,一般大衆の間の教育 ― これらすべては僧職者たちに,来世,とりわけ地獄について説くより,現世について説くほうが得策,と判断させる材料となってきました。
フランスなどのカトリックの国々においては,僧職者や教養あるカトリック信者たちの間で,地獄の「熱を下げる」のが当世風となっていました。彼らは,神が文字通りの火で人々を永遠に責めさいなむなどといまもって信じている人はどこにもいない,と言って言い抜けてきました。むしろ,地獄に落ちた者たちは,神の存在から永久に遠ざけられることによって,自らの上に永遠の苦しみを招いている,というのがその説明でした。
地獄に関するこの「さめた」概念は,最近出版されたカトリックの参考書にも反映されています。例えば,あるカトリック辞典は,次のように述べています。
「神学者たちは,地獄に落ちた者たちの受ける罰を,喪失のそれと感覚上のそれとに分ける。このうち前者は,われらの主の言葉『のろわれた者よ,離れよ』の中に表われており,神の姿に接する特権を剥奪されるところにある。……喪失という苦痛は専ら,彼らが失った天上の喜びに関する知識に関連して生じるのである」。
しかしながら法王パウロ六世は,1968年にすでにこの「さめた」地獄を,もとのように熱くすることに着手していました。当時,自分の「信仰宣言」の中で彼は,神の愛を退け続ける罪人は,「消すことのできない火の中に入る」と断言しました。そしていままた,法王ヨハネ・パウロ二世承認の今回の書簡は,カトリック信者たちに対し,地獄は依然としてきわめて恐るべき所であることを思い起こさせています。
中世のこけおどし,それとも現代の教理?
「ここに入る者は,いかなる希望も断念せよ」ダンテの地獄編の中の地獄の門の頭上にこのような文字が刻み込まれていました。この14世紀の詩は,地獄を深いたて穴として描写しており,穴はサタンの住む地球の中心部に通じる九つの環に分かれています。環のひとつひとつは,苦しみと罰の度合いが増すことを表わしていました。
この中世のイタリア詩人は,当時最新のカトリック教理で,しかもローマ教会の初期の頃からあったものを想像たくましく描写しました。身の毛もよだつ地獄の苦しみは,芸術家たちが何世紀にもわたって描いた題材でもありました。「最後の審判」の絵画は,世界各地にある多くのカトリック教会や美術館に見られます。最も名高いのは,バチカンのシスティン礼拝堂にある,ミケランジェロの巨大なフレスコ画ではないでしょうか。この絵は,この絵を描くよう依頼した法王の一人パウロ三世にさえ寒けをもよおさせた,と伝えられています。
人をぞっとさせるものといえば,ヨーロッパにある多くのロマネスク様式,あるいはゴシック様式寺院に見られる,彫刻をほどこした正門もそうです。例えば,パリを訪れる数百万の旅行者たちは,ノートルダム寺院の中央出入口の頭上にある石造物に彫刻された,すさまじい「最後の審判」の情景を凝視して,身ぶるいを感じます。こうしたさまざまな芸術作品に描写されているものが,文字通りの身体上の耐え難い責め苦であることは,いなめません。
「その通りですよ」,現代の教育を受けたカトリック教徒は,こう言うでしょう。「でも,こうした芸術作品に見られる描写は,地獄の火の教理が“無知な魂”をこわがらせて神に仕えさせるため,中世に利用されたことを示すに過ぎない。今日,啓発されたカトリック教徒は,このような“最後の審判”の情景が,神のもとから引き離された,地獄に落とされた者の,精神的苦痛を象徴するものであることを知っている」と。
しかしこの言い逃れも,カトリック教会をジレンマに陥れます。もし地獄を描いたこうした芸術作品すべてが,誤り伝えるものであるなら,バチカンのまっただ中にある,それらのうち最も名高いものの依頼主が,二人の法王(クレメンス七世とパウロ三世)だったのはなぜでしょうか。他方,もしこれらが教会の公式教理を本当に表わすものなら,カトリック僧職者たちがこれほどの重大な教義について,かくも長期間,調子をやわらげるのを黙認してきたのは,どうしてでしょうか。誠実なカトリック教徒たちは,いぶかっています。
「精神的責め苦」は事態を改善するか
多くの誠実なカトリック教徒が,ふにおちないとしている別の点は,たとえ地獄を“さめた”所として,苦しみを神から永遠に離された精神的苦痛に限定したところで,それが神の愛と調和するだろうか,という問題です。そこでフランスの宗教記者アンリ・フェスケは,ル・モンド紙にこう書いています。「クリスチャンが崇拝をささげる神は,責めさいなむ方だろうか。……神はサディスト的で,自分に服してくれる喜びを,自分の強情な被造物が苦しむことより上位に置かれるのだろうか」。
レクスプレス誌は,次のような興味深い論評を載せています。「大釜はもはや存在しない。だが地獄は相変わらずだ。それは『人間が神を拒絶する結果,自分自身を置く状態』と言われている。地獄とは隔離を意味する。……この世の刑務所でも感覚的な孤立状態は,最もひどい拷問とされている」。「現代の神学者たちが説明する地獄は,恐怖心を起こさせる点で,中世の芸術家たちの描いた地獄と少しも変わらない」。
カトリック辞典はカトリックの「聖」アウグスティヌスの言葉を引用し,喪失の苦痛は「余りに強烈な懲罰ゆえ,我々の知っているどんな責め苦といえども,それにくらぶべくもない」と述べています。
それでは,悔い改めない罪人は絶え間ない精神的苦痛により,永遠に罰せられる,ということに,古典的な「火と硫黄」の地獄よりなんらかの前進があった,と言えるのでしょうか。誠実なカトリック教徒の多くは,実質的に言って,だれかを精神的責め苦に遭わせるのは,肉体的にそうするのと少しも変わらない極悪非道な行為,ということにすぐ同意されるにちがいありません。どちらの形式の懲罰も,公正と愛の神という聖書的概念とは相いれません。
先ほど引用したレクスプレス誌の記事は,次のような疑問を投げかけました。「『情け深い神が,どうしてご自分の被造物を永遠に苦しめることができるだろうか』。これは根源的問題である。神学者たちは,逆説的に言って,地獄は人間の自由に対する神の愛の究極的帰結,と答える」。道理にかなっているように聞こえますか。
聖書は何と述べているか
興味深いことですが,バチカン当局が地獄の教理を再確認した後,ル・モンド紙に掲載された記事「地獄は着火しそこなったか」の中でH・フェスケは,次のようにも語っています。「地獄が存在し,からっぽでないことを信ずるには,乗り越えねばならない障害物が多い。まっ先にくるのが死後も生き続けるのか,という点にあることは論をまたない」。そうです,もし死んだ後に生き続ける非物質的な魂がないなら,リンボ,煉獄,地獄といった「来世」の教理は,そこに住まう魂の不足によって崩れ去ります。
聖書は何と言っていますか。カトリックの学者に答えてもらいましょう。
「体と魂の区別は聖書のどこにもはっきり述べられていない」― F・ビグロー編聖書辞典。
「『からだ』とは別個の,純粋に霊的で,非物質的な実在を意味する『魂』の概念は……聖書には見当たらない」― フランス・ルーアン神学校の聖書学教授ジョルジュ・オーズー。
聖書は,はっきりこう述べています。「罪を犯す魂,その同じものは死ぬ」。(エゼキエル書 18:4,20,カトリック・ドウェー訳)これは人間の魂が本来不滅でないことを示しているばかりでなく,絶え間ない罪に対する処罰が,責め苦(肉体的にしろ精神的にしろ)ではなく,死であることも示しています。聖書はさらに,次のように述べています。「罪によって払われる返報は死ですが,神によって与えられる贈物は永遠の命です」。(ローマ 6:23,カトリック・エルサレム聖書)永遠の命あるいは永遠の死 ― 神はこのような選択をご自分の被造物の前に置かれました。―ヨハネ 3:16,36。申命 30:19,20。
一部の聖書に「地獄」と誤訳されているヘブライ語およびギリシャ語は,死んだ人間に共通の墓(ヘブライ語シェオル,ギリシャ語ハデス),すなわち将来そこからの復活のある所か,または永遠の滅び(ギリシャ語ゲヘナ)のどちらかを意味しています。a 聖書を注意深く読めば,誠実な人ならだれでも,悪魔とその使いたち,邪悪な人間たちに備えられた「永遠の火」(マタイ 25:41,46)が,滅び,「第二の死」を象徴するものであり,そこからの復活はない,ということに納得されるでしょう。―黙示録あるいは啓示 20:9,10; 21:8。
「神は愛」です。(ヨハネ第一 4:8)地獄に落ちて永劫の責め苦を受けるという教理は,真のクリスチャンが崇拝する公正で愛ある神をはなはだしく誤り伝えるものです。真の崇拝において動機となる要素は愛であり,気味悪い恐れではありません。(ヨハネ第一 4:16-19)非聖書的な地獄の教えを再び燃え上がらせることによって,バチカンは確かに神の名を汚しています。
[脚注]
a さらに詳細な点や聖書的根拠については,ものみの塔聖書冊子協会発行の出版物「今ある命がすべてですか」をご覧ください。
[17ページの図版]
システィン礼拝堂内にあるミケランジェロ作「最後の審判」の一部
[18ページの図版]
フランス・レイムズ寺院にある「最後の審判」の彫刻