考えてみたことがありますか ―
賭け事をするのは悪いことですか
宝くじ,競馬その他の競技を対象にした賭け事,腕を競う勝負事や運まかせの勝負事 ― このすべては毎日のようにおびただしい数の人々の生活に影響を及ぼしています。もちろん,賭け事は人類社会のいつの時代にも行なわれていました。しかし,昔と比べて,今日それが人々の生活で占める位置はますます大きくなってきています。
賭け事が今日これほどはやっているのはなぜか
幾つかの根本的な理由があります。20世紀になって物質の財産を重視する傾向が強まりました。また,現代の科学技術によって,以前には得られなかったようなものが数多く持てるようになりました。飛行機のお陰で遠い土地に簡単に旅行できるようにもなりました。しかし,こうした事柄すべてにはお金がいります。賭け事は大金を“楽にもうける”誘いとなります。
多額の賞金も人を賭け事へ駆り立てる誘因となってきました。世界最大の宝くじであるスペインのエル・ゴルド,つまり“大当り”くじでは,毎年クリスマスの時期に約1,100億円の賞金が払われます。昨年,グラノーラスのあるカトリック教会の教会員たちは,司祭がこの宝くじの一部を販売した結果として,220億円以上の純益を生じさせました。英国では,今年の2月に行なわれたフットボール競技の賭けで100万ポンド(約5億5,000万円)をわずかに下回る最高額の配当を得た人がいます。賞金が高額になるに伴い,賭け事への誘惑も強くなっています。
また,賭け事には興奮が伴います。様々な問題の重圧を感じる世界にあっては,金持ちの世界へ空想の旅をすることが生活に興趣を添えると感じている人がいます。結局だれかが賞金を手にするはずです。賭けをする人は各々,「それが自分であるということだって十分あるのだ」と考えるのです。
賭け事で本当にもうけるのはだれか
賞金の多少にかかわりなく,主催者はいつももうかるようになっています。そうでなければ,経営が成り立ってゆきません。英国のある男の人の例がこれを物語っています。その人は競馬の賭けに続けて勝ち,賞金を幾千ポンドも手にしました。ところがその後,地元の私営馬券売場への立ち入りをいっさい断わられました。なぜですか。「あんなことをされては,うちは商売あがったりだ」というのが経営者の弁です。
出入りを断わられたその客はこう嘆きました。「わたしが損をしていた幾年もの期間はどうだ。両手を広げてわたしのお金を喜び迎えたではないか」。それが今では,手のひらを返したような態度です。
大金を当てても,当事者に必ずしも幸福が舞い込むとはかぎりません。ひとたびその話がもれると,お金の無心の手紙がどっと押し寄せ,“友人”が群がり集まることが少なくありません。ある夫婦がフランスの国営宝くじで史上最高の賞金を獲得したことがあります。二人はその“幸運”を自分の家族内の人々と分け合うことにしました。それぞれにかなりの額のお金を与えたにもかかわらず,お金の配分をめぐる口論がじきに騒動に発展し,最後には家族が四散してしまいました。後に,主人の方は自分の財産を守るため,枕の下にけん銃をしのばせて寝るようになりました。夜中に目を覚ますと,窓のところに人影が見えます。その人は,強盗だと思ってけん銃を発射し,自分の妻を殺してしまったのです。
「金輪際,宝くじは買わない」と妻を亡くしたその男の人は誓いました。心の安らぎや家族の一致をお金で買うことはできません。
もちろん,だれもが賭博狂になるわけではありませんが,賭博癖自主治療協会は,「ひとたび[賭け事]におぼれると,人はひとかけらの自制心も道徳感もなくなる」と指摘しています。このような人はあらゆる点で敗北者です。これほど多くのものを失うおそれがあるなら,最初から手を出さないほうがずっと賢明です。
賭け事には依然として暗いイメージがつきまとっているのはなぜか
賭け事の勝者をうらやむ人は少なくありませんが,それでも人々は,勤勉に働く人のほうを尊敬し,信頼するものです。そうした人々の見解は大抵,実際の経験から引き出されたものです。聖書も,運に頼るのではなく,正直に働くように勧めています。「勤勉な働き人を知っているか。その人は成功し,王たちの前に立つ」。これは,知恵に富む王ソロモンがこの問題についてまとめた言葉です。―箴 22:29,英語版リビングバイブル。
同様に,使徒パウロはエフェソスのクリスチャンに書き送った手紙の中で,人は「自分の手で良い業を」なすべきであると勧めています。そうするなら,「窮乏している人に分け与えることができる」ようになるであろう,ともパウロは言葉を加えています。運を頼りに手に入れたお金よりも,そのようにして得たお金を与えるほうがずっと勝っています。―エフェソス 4:28。
多くの国で,犯罪者が賭け事に触手を伸ばしているため,賭け事には様々な不正が付きまといます。たとえ犯罪組織と関係がない場合でも,折りあらば不正を働こうという誘惑が頭をもたげてくるものです。ある科学者は,「くじをごまかすことなど,科学的知識が少しあれば簡単にできる」と語りました。事実,運や偶然性が関係している場合,その結果を人が操作する可能性を皆無にすることはできないのです。
賭け事が後ろ暗い行為であるという考えはユダヤ教のミシュナにもはっきり示されています。証人もしくは裁き人として不適格な人の中に「ばくち打ち」が挙げられています。なぜ,これらの人々は除外されているのでしょうか。そうした人は,道徳的に信頼を置けず,偏った判断を下すおそれがあると考えられていたからにほかなりません。一般社会のほとんどの所で,賭け事には依然として暗いイメージがつきまとっています。
有用な資産を賭け事に用いるのは責任ある行為か
「一獲千金」の夢は人の思考をゆがめることがあります。たとえお金を沢山手に入れても,多くの場合,家族の絆にひびが入ります。
お金は,時間や健康,才能などと同じように有用な宝つまり資産です。貪欲な気持ちから賭け事を行なっておらず,賭け事をしても自分や家庭に経済的な問題をもたらすことはないと思える場合でさえ,わたしたちには考慮しなければならない道徳上の責任があります。聖書はわたしたちに,「善を行ない,りっぱな業に富み,惜しみなく施し,すすんで分け合(う)」ように諭しています。そうしてはじめて,「真の命をしっかりとらえる」ことができるのです。(テモテ第一 6:17-19)クリスチャンは,自分の時間と自分の所有するあらゆる金銭を賢明に用いて,できるかぎりの善を行なおうと努めます。これは,クリスチャンが,賭け金の大小を問わず,どんな形のものであろうとすべての賭け事を避ける十分の理由となります。