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目ざめよ! 1981
目81 3/22 20–23ページ

ユーモアのセンスは神からの賜物

南アフリカの「目ざめよ!」通信員

サムはまた仕事に遅れました。つい最近社長から,こんど遅刻したら首だぞ,と最後通牒を渡されていたので,こんどこそはサムも本当に心配でした。社長が自分を首にする時に言う文句を練習しているところを想像しました。

案の定,社長は,35分遅れて事務所に入って来たサムの方へ,こわい顔をしてやって来ました。

サムは大急ぎで考えました。そしてにんまり笑うと手を差し出し,言いました。『はじめまして。私はサム・メイナードと申します。35分前に空席ができたようですので,使って頂きたいと思って参りました。だれよりも早く来ましたから,雇っていただけるでしょうね』。同僚たちはどっと笑いました。社長も笑いを抑えかね,自分の事務所に引き揚げてしまいました。サムは,ユーモアのセンスでその日は救われました。

確かに,豊かなユーモアのセンスで緊張状態が和らげられることはよくあります。ユーモアは逆境に対処する助けにもなります。ユーモアを解する人はよく笑い,くつろいだ気分になれるので,ユーモアは健康にもよいと言えます。笑う時の横隔膜の上下運動は内臓に運動と同様の影響を及ぼす,とジェームス・J・ウォルシュ博士は,「笑いと健康」という本の中で説明しています。笑いは心臓や肝臓や腸などに良い影響を及ぼし,消化を助け,老廃物の除去に役立ちます。

ユーモアとは何か

ユーモアとは,物事のおかしい面,あるいは面白い面を見る能力と言われています。また,こっけいなことやばかげたことを感知する感覚に訴える才能,とも言われています。

こっけいな場面は,何かが場違いなときや不適当なときに生じます。例えば,細く折りたたんだこうもりがさを持ち,新聞をこわきにはさんだ,一分のすきもない,威厳のあるロンドンのビジネスマンが海の中を歩いていれば,それはいかにも場違いの珍妙な光景で,見ている人は大いに笑いを誘われるでしょう。別の例として,もしネコか犬が学校の教室に入って来たなら,笑いを巻き起こすことでしょう。動物は普通,教室などには用事のないものだからです。

状況から生まれるユーモアは,予期しない出来事が原因になる場合があります。例えば,男性が婦人にあいさつをしようとして帽子を取る時,帽子の下からハトが飛び出したりしたら,見ている人はその不意の出来事を笑うでしょう。ナイジェリアのアフリカ人は,突然に起こる事を面白がってよく笑うということです。人がバナナの皮を踏んで滑ったりすると大抵笑います。が,また直ぐに助けに行って同情と気遣いを示します。

ほとんどのユーモアは言葉で表現されます。言葉によるユーモアは,国籍,社会習慣,環境その他の要素により,極めて変化に富んでいます。より知的なものや難解なものもあれば,ドタバタ的のもの,露骨で粗野なもの,辛らつなものや痛烈なもの(英語ではしばしば「ウィット」と呼ばれる)があります。

また,ある国の人々がおかしいと思うことも,別の国の人々には意味をなさない場合があります。例えば,ある白人宣教者はアフリカ人の聴衆を前に講演をしていた時,自分では一口ユーモアを添えた積りでした。しかし聴衆は静まり返っています。しばらくして宣教者が話の中でサルを引き合いに出すと,通訳はその言葉を訳そうともせず,ただ片腕を上げてわきの下をかくまねをしました。それには聴衆は爆笑しました。

一体,ユーモアの起源はどこにあるのでしょうか。

神にはユーモアのセンスがあるか

聖書によると,創造者は「幸福な神」であり,人を『神の様に似せて』造られました。(テモテ第一 1:11。創世 1:26,新)ですから,すべての人種の人に生来備わっている喜ぶ能力や,面白いことをし,ユーモアを楽しむ能力は,創造者から付与されたものに違いありません。

多くの動物はこっけいな身ぶりをします。毛糸の玉を追いかける子ネコを見て笑わずにいられるでしょうか。子犬たちが一緒に遊んでいるところや,サルのちゃめっ気たっぷりないたずらを見たり,オウムのこっけいな話し方を聞いたりすると,だれでも笑わずにはいられません。エホバはある動物を人間にとって大変楽しいものに造られたので,喜びや楽しみに限りはありません。ユーモアを解する心は確かに神の賜物です。

言葉で表現されるユーモアの様々な型は,一つの国または国民だけの特徴ではないものの,多くの国の人々は大体特定のタイプで知られています。アメリカ人は感情をおおげさに表現するのを好むと言われています。強調のため,あるいはユーモアの効果をねらってわざと誇張して言うのです。“It's raining cats and dogs(「雨がどしゃ降りだ」の意)”はその一例です。また「笑い過ぎて死にそうだった」,とか「1,000回もやってみた」とかいうふうにも言います。むろん文字通りそうだというわけではありません。普通,聞き手もそのことを承知しています。

イギリス人は,にこりともせずにユーモアを言うので有名です。何気なく,すました顔をして面白いことを言うのです。イギリス人はまた控え目に言うのが好きです。ジョージ・マイクの「歴史に残るユーモア」という本には,この点について次のように書かれています。「控え目なのは冗談の言い方だけではない。それはイギリス人の生活様式でもある。他の国民も控え目に言うことがある。だからこれはイギリス人の専売特許ではない。ニューヨーカー誌にこんな漫画が載ったことがある。大きく揺れるぶらんこに二人の男が乗っていて,高さ30㍍に近い空中で,一人がもう一方の手を握り損なった瞬間の場面だ。少しぼんやりしていて間違いをした方の男は,『おっと,失礼』と言った。いかにも控え目な言い方だ。しかもアメリカ人にしてこれなのだ。だが,他の国々における控え目な言い方は,偶発的なものである。イギリスではそれは国民性から出るもの,いつでも自然に出るもので,冗談でない場合さえしばしばある」。

控え目な言い方の一例として,ジョージ・マイクは次の話をしています。一隻の蒸気船がイギリス海峡を渡っていました。「デッキにいたのは私ともう一人の男だけで,強いあらしが猛り狂い,強風は大波をあおり立てていた。我々はしばらく甲板の上に無言でちぢこまっていた。と,突然恐ろしい突風がその男を船外に吹き飛ばしてしまった。彼の頭は眼下の水の中から一度だけ浮かび上がった。彼は静かにわたしを見て,さりげなく,『少し風がありますな』と言った」。

アイルランド流のユーモアにも独特の面白さがあります。スティーブン・リーコックは自著「ユーモア」の中で例を一つ挙げています。「『最後部の車両はいつも不愉快なショックを受け,震動も激しいので,列車に連結してはならない』という命令が出た」。また,「はしごを降りちゃだめだよ,パット。わたしが外して持って行っちゃったからね」というのもあります。

この同じ作家は次のようなスコットランドのユーモアの例も挙げています。これは気味の悪い冗談とも言われる時もあります。「あるスコットランド人のおかみさんが病気にかかり,死んでしまったように見えた。葬式となって,棺が教会の門を通過していた時,棺をかついでいた者たちが誤って棺を門柱にぶっつけた。そのショックでおかみさんは生き返り,棺から出され,その後何年も生きた。そして再び病気にかかり,こんどは本当に死んだ。葬式の時に棺が教会の門に近付くと,妻に死なれた夫は棺をかついでいる者たちに言った。『気を付けておくれよ,若い衆。おかみさんをぶっつけないようにな』」。

スペインのユーモアには自己を卑下する傾向を帯びたものが少なくありません。これはエル・トリウンフォ誌に載った漫画ですが,二人の男が話し合っています。「文化は現代の流行だね。我が国には文部省があり,……文化省がある……そして大統領の文化顧問がいる」と一人が言うと,もう一人が,「まことに結構なことだ。あと必要なのは学校だけだね」と言いました。自分の弱点を笑うということはユーモアの重要な一面です。

ドイツ人は食べることが好きなので,食べることについての冗談はうまくいきます。例えば,ドイツのエホバの証人のある巡回監督は,実際の食物を定期的に取る必要を例にして,霊的食物を定期的に取る必要を示し,「私たちは大抵日に3度食事をします。もっとも,日に一度,朝から晩までに一度しか食べない人もいますが」と言いました。ドイツ人の聴衆は皆それに反応してどっと笑いましたが,別の国語を話す人々の大会では,同じ例えに対して反応は全くありませんでした。

むずかしい単語を喜ぶのはナイジェリア人です。ピジンイングリッシュで話す時は特にそうです。長い単語を織り交ぜて話す講演者は,熱烈な反応を得ること請け合いです。ヨルバ族の間では,どちらが相手をむずかしい言葉でやり込めることができるかで,けんかの勝敗が決まるときがあります。

ユーモアと偽りの宗教

ユーモアは偽りの宗教のばからしさ,その偽善と殊勝げな様子などをあばくのにとても効果的な場合があります。聖書そのものにも,この種のユーモアが所々に見られます。例えば,預言者イザヤは次のように記述しています。きこりは1本の月桂樹を切り倒し,その木の一部を燃やして自分の食物を料理しまた身を暖めるが,「その残りを実に神そのものに作り,その彫像とする。彼はそれにひれ伏し,身をかがめ,それに向かって祈って言う,『わたしを救い出してください。あなたはわたしの神ですから』」― イザヤ 44:14-17,新。エレミヤ 10:2-5と比較してください。

メキシコでは,宗教に関係した話題も,面白い事に敏感なメキシコ人の注意を逃れることはありません。彼らの間には,先に挙げたイザヤの例えによく似た話があります。卑しい生まれであることを知られているだれかに好感を持たない場合,メキシコ人は,「グアバの木だと分かっているのに,どうしてキリストとして崇拝できるでしょうか」と言うことがあります。この言葉の背後にある物語というのはこうです。ある司祭が土地の金持ちに,キリストの像を作る木材を求めました。司祭はグアバの木をもらい,それで像を作りました。後ほど司祭はミサの時に,その金持ちが像を見て笑っているのに気付きました。ミサが終わってから司祭は,あんな礼拝の仕方がありますか,と言って金持ちをたしなめると,金持ちは答えました。「グアバの木だと分かっているのに,どうしてキリストとして崇拝できるでしょうか」。

神の賜物を乱用しないように気を付ける

性に関する冗談を言うことは,世界の多くの場所でごく普通に行なわれています。しかし神の言葉,聖書は,「ひわいな冗談」を非としています。ですから聖書の高い規準に従って生きたいと思う人々はそれを避けます。(エフェソス 5:4)ひわいな冗談は一種の精神的堕落で,クリスチャンの社会では全く場違いです。

時と場所にふさわしい,清潔で健全な冗談やこっけいな話は良いもので,面白さや楽しさを添えます。だれでも時にはくつろぐことが必要です。しかし過度になることが非常に多いのです。ある人は面白い話をたくさん知っていて,それを話すのに多くの時間を費やします。聖書はこのことにも注意を与えています。賢王ソロモンは確かに伝道之書 3章4節(新)で,「泣く時と笑う時」があると述べています。しかし2章2節(新)には,「わたしは笑いに向かって,『狂気だ!』……と言った」と記しています。これにはどんな意味があるのでしょうか。ソロモンが笑いを狂気と言い得たのは,軽薄な笑いは健全な判断を曇らせてしまうからです。そのために非常に深刻な問題を軽く受け取って他の人を怒らせたりいら立たせたりすることになるかもしれません。ですから,ユーモアのセンスはエホバからの他の多くのすばらしい賜物同様,乱用される可能性のあるものです。

愚かな笑いについて,伝道之書 7章6節にはこう述べられています。「愚鈍な者の笑いは,なべの下のいばらの音のようだ」。いばらは一番良い薪とは言えません。すぐに燃え上がって,パチパチとやかましい音をたてますが,なべの中味は煮えていないことがよくあります。ですからそのはでな騒々しい音は無益であることが分かります。愚か者が不まじめにくすくす笑う様もこれと同じです。思慮を欠いた騒々しい笑いや,時をわきまえずにユーモアを飛ばそうとする態度は,人をいら立たせ,害を与える恐れがあります。

ユーモアの様々な表われ方を考えてみるならば,ユーモアは寛大な天の父からの喜ばしい賜物であるという結論になります。しかしこれは健全な判断に従って適度に用いるべきものです。そうすれば,ユーモアを解する心は,日々の生活に趣や活気を添えるものとなるでしょう。

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