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  • 祈る理由とその方法 ― それはどうでもよいことですか
  • 目ざめよ! 1981
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目ざめよ! 1981
目81 2/8 6–9ページ

祈る理由とその方法 ― それはどうでもよいことですか

「神様,お願いです,試験に合格させてください。試験勉強が足りないので,神様におすがりするほかありません」。競争の激しい受験シーズンが近づくと,日本の各地の神社には,このような文句を書き記した祈とう文が納められます。孫を気遣う祖父母は,孫の勉学に神仏の助けがあるよう,1年間,毎日祈ってもらう条件で,1万円の寄付をします。

この時期に神社に詣でる学生の多くは神を少しも信じていません。「いつもは神様など信じていませんが,困った時にだけは神様にすがります」と学生の一人は語りました。

こうした態度は,「困った時の神頼み」という日本のことわざを地で行くものです。

では,困難な時期が過ぎるとどうなるでしょうか。次の問題が起きるまで,神のことは大抵忘れ去られてしまいます。

人々は祈りの中で何を求めているか

普通,人は欲しいものがあって祈ります。西欧のある雑誌に子供たちの祈りの言葉が載りました。その大半は次のような何かを求める祈りでした。「神様,お小遣いをふやしてほしいのです。天使を遣わしてお父さんにそう話してください」。「どうか,私たちの家族にお金をください」。「学校にいる時,どうぞ私を助けてください」。

日本では,年の始めに神社に出かけて行き,福の神,恵比須に祈願することが習慣になっています。昨年,日本の大勢の人は神社に行って,月々お金がもうかるようにと祈りをささげました。京都と東京の特定の神社だけでも300万人以上の参拝者がありました。

家内安全を願う人々は,神社だけでなく,慈悲の菩薩,観音を祭る寺にも詣でます。

フィリピンのカトリック教徒は幸運を求めて“サント・ニーニョ”つまり“聖童”に祈りをささげるでしょう。ある人は自分のサント・ニーニョの像のために本物のルビーとダイヤモンドを幾つかはめ込んだ14金の冠を買い求めました。富が得られたのはその像のおかげであると信じて,お礼にこれをささげたのです。

中には感謝を言い表わす祈りもありますが,何かを求める祈りの方がずっと多く,ありとあらゆるものを求める祈りがささげられています。

そうした祈りはかなえられるか

出世や富を求める祈りがかなえられたと考える人がいても,それをはるかに上回る数の人が,祈りが聞かれずに落胆しています。東京ではかなりの数の学生が私立高校の入学試験の際に助けを祈り求めますが,良い成績を収めて入学を認められるのはわずか22%にすぎません。他のほとんどの人は試験に失敗します。その人たちの祈りが聞かれなかったのはなぜでしょうか。

ある5人家族が神社に行って,自動車に交通安全の祈願をしてもらいました。ところが,神社からの帰りに,車が橋げたに激突し,5人全員が死亡してしまいました。何が間違っていたのでしょうか。次の点を考えてみましょう。

だれに祈っているか

日本の学生は,“学問の神”として古くから崇められてきた菅原道真に多くの場合その祈りをささげます。道真は9世紀の人物で,詩人また学者でした。彼は1,000年も昔に死んでいます。試験で良い点を取れるようこうした人物が助けを与えてくれると考えるのは,理にかなったことですか。

実際,日本の受験競争の激しさを考えると,道真に願い求める学生の大半の祈りがかなえられないことでしょう。それは驚くには当たりません。この点で聖書の述べるところは常識的な考え方と全く一致しています。聖書は死者についてこう述べています。「死んだ者は,何事をも全く意識しておらず……シェオル[墓]には業も企ても知識も知恵もない」。(伝道 9:5,10,新)菅原道真は現在シェオルにおり,試験に合格できるほど勉強したかどうかにはかかわりなく,どんな学生にも助けを差し伸べることはできません。

観音像その他の像にささげられる祈りはどうでしょうか。少し見回せば,出世や幸福をこうした像に祈り求めていながら,依然として出世や幸福と無縁の人が世間には本当に大勢いるのに気付きます。いったいなぜでしょうか。

死者に祈りをささげても助けにならないのであれば,無生の像に祈りをささげることはそれよりも効果があるでしょうか。道理からいって,そのようなことはありません。ここでも,聖書は常識的な考えと調和した見解を示し,像について次のように述べています。それらは「地の人の手の業である。口はあっても,話すことができず,目はあっても,見ることができず,耳はあっても,聞くことができない。鼻はあっても,かぐことができない。手を持ってはいても,触ることができない。足を持ってはいても,歩くことができず,のどを使って声を出すこともしない。これを作る者はまさしくそれと同じようになる。これにより頼んでいる者は皆」― 詩 115:4-8,新。

「祈りを聞かれる方」

こう考えると,わびしくなるかもしれませんが,祈りはすべてむなしいものなのでしょうか。決してそうではありません。次の記事に示されているように,数多くの誠実な祈りが毎日聞き届けられています。しかし,然るべき方に祈ることが必要です。では,祈りの対象となるのはどのような方でしょうか。

無生の単なる像や死者などよりもはるかに強力で知恵に富まれる方を対象とすべきではありませんか。またその方は,人類に誠実な関心を示し,人類を助けたいという愛に満ちた願いを表明しておられる方であって然るべきではないでしょうか。この点で必要とされる力を備えている人間は一人もいませんから,人間以上の方に祈る必要があるでしょう。超人間的な存在の中で万物の創造者以上に力のある方がいるでしょうか。

常識から考えても,聖書の述べるところと調和する次のことが分かります。つまり,祈りは,わたしたちのような人間や,人間の作り出した像などの無生の物にではなく,宇宙の生ける創造者にささげられるべきです。

今日崇拝されている様々な神々や精霊のうち,こうした記述にかなっているのはどなたでしょうか。聖書の中でこの神がいかにはっきり示されているかに注目してください。「天の創造者,エホバの言われたことはこうである。彼は真の神,地を形造られた方またその造り主(である)。『わたしがエホバであり,外にはだれもいない』」― イザヤ 45:18,新。

しかし,この強大な創造者はご自分の創造した人間の祈りに本当に関心を持っておられるでしょうか。それとも,様々な宗教の無感覚な神々と同じく,人間の窮状に何の関心も抱いておられないでしょうか。次の心温まる言葉に目を留めてください。「祈りを聞かれる方よ,あなたのもとに,すべての肉なる者は来るのです」― 詩 65:2,新。

このように聖書は,エホバ神を祈りを聞いてくださる偉大な方として描写しています。エホバは,誠実な祈りをささげるようあらゆる文化や背景の人々を招いておられます。『良いことを言うが,それを裏付ける記述があるのだろうか』と問う人もいることでしょう。確かにあるのです。

今から3,500年ほど前,すなわち孔子や仏陀が生まれるずっと以前に,エジプトで奴隷状態にあったご自分の崇拝者たちの『うめきをエホバ神が聞かれた』ことを示す歴史的記録があります。エホバはその祈りにお答えになり,モーセを遣わして彼らを救出されました。―出エジプト 3:6-10,新。

それから500年後,エホバの忠実な僕であったダビデ王は真実を込めて,「エホバはほむべきかな。わたしの懇願の声を聞いてくださったからです」と言うことができました。(詩 28:6,新)それから1,000年後,神のみ子イエス・キリストは次のように約束して,み父が変わっておられないことを示されました。「きわめて真実にあなたがたに言いますが,あなたがたが父に何か求めるなら,父はそれをわたしの名において与えてくださるのです」。(ヨハネ 16:23)このことは今でも真実です。

『わたしの名において求める』

しかし,聖書はなぜ,イエスの名において神に近づかなければならないと述べているのでしょうか。なぜエホバ神に直接祈ることができないのでしょうか。

実のところ,エホバ神は,イエス・キリストの名において神に近づかなければならないということを知らない多くの人々の誠実な祈りにこたえてこられました。実際,そのような人々は,エホバという神固有のお名前も知らずに,多くの場合ただ「神」に祈りをささげてきました。そうした人たちは一般に神を知ることを祈り求め,神に仕えたいという願いを表わしてきたのです。こうした人たちの祈りがかなえられた例は無数にあります。―使徒 17:26,27。

しかし,これらの誠実な人々は,真の神に関する知識の面で成長するにつれ,その知識に調和して自分たちの祈りを調整してきました。エホバという神のみ名を用いることを学んだのと同様,イエス・キリストを神への祈りの経路とすべきことも学びました。これは,エホバ神の是認される謙遜という特質を当人が抱いていることを示すものです。

そうです,謙遜です。自分が罪深く,不完全であることを認めるには謙遜さが求められるからです。洗濯をしていないぼろ服しかなければ,国の支配者に謁見を求めることなど考えないのではありませんか。同様に,謙遜な人は,汚れて不完全な状態にある自分には神に直接祈りを聞いていただく権利などないことを知っています。ですから謙遜な人々は,清く完全な神のみ子がみ父の前で進んで代弁者となってくださることに感謝の念を抱いています。イエス・キリストの名においてエホバに祈れることを感謝しているのです。

エホバ神にささげる祈りの中で重要なのは,必ずしも自分のいる場所や姿勢,あるいは外見ではありません。神の目にはすべての人間は不完全で汚れているので,自分よりも「神聖」な人にお金を払って祈ってもらう必要はありません。(ローマ 3:23)神は何に目を向けておられるのでしょうか。「このような者をわたしは見る。苦しみ,霊を病め,わたしの言葉に震える者を」と,エホバは語っておられます。―イザヤ 66:2,新。

このことは,商売の繁盛や試験の合格を願う際,祈りの対象をエホバ神にし,イエス・キリストの名において祈り求めればよいという意味でしょうか。そうではありません。警察官が,法律を破る手助けをすることはないでしょう。同様に,神のご意志にかなった事柄を願い求めるのでない限り,神が助けを差し伸べてくださらないのは当然のことです。そうでなければ,神ご自身の内に永久に矛盾が存在することになるでしょう。

「そのご意志にしたがって」

聖書ははっきりこう述べています。『なんであれわたしたちがそのご意志にしたがって求めることであれば,神は聞いてくださいます』。(ヨハネ第一 5:14)これは,エホバが公正な神であるからにほかなりません。引力の法則その他,神の自然の法則には公正という特質が反映されており,だれにでも等しく当てはまります。試験勉強をしていないとしましょう。その場合,神が事態に介入し,勉強した人よりも良い点を取らせるとしたら,それは公正なことですか。実際のところ,それは他の学生に対して不公正なことではありませんか。

わたしたちが祈り求めるよう神が望んでおられる基本的な事柄は,イエス・キリストがささげた次の祈りの模範の中に示されています。どんな事柄が優先されているかに注目してください。「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においても成されますように。きょうこの日のためのパンをわたしたちにお与えください。また,わたしたちに負いめのある人びとをわたしたちがゆるしましたように,わたしたちの負いめをもおゆるしください。そして,わたしたちを誘惑に陥らせないで,邪悪な者から救い出してください」― マタイ 6:9-13。

エホバ神は,ご自分に祈りをささげる人々が,個人的な目標や野心よりも神のご意志や目的に一層深い関心を払う者であることを期待しておられます。神はわたしたちすべてに何が最善であるかをご存じなのですから,これは全く道理にかなったことといえます。『日々のパン』つまり物質の事柄について祈るのは悪いことではありませんが,富を祈り求めることについては何も述べられていません。富んでいる人は往々にして神のことを気にかけないものです。次の点に留意してください。神やその目的をまず第一に気遣い,自分のことは二の次にする祈りを神は喜ばれるのです。このような祈りは今日ではあまりにも少なくなっています。

このような祈りが確かに聞き届けられているという証拠が今日あるでしょうか。実際,祈ることには報いがあるのでしょうか。

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