筋肉にできることとできないこと
わたしたちは当たり前のことのように考えていますが,筋肉の最も簡単な動きでさえ驚嘆すべきものです。トレーニングをすれば,筋肉は驚くべき力と耐久力の表われである離れ業をやってのけます。しかし,それよりもずっと重要な別の種類の訓練<トレーニング>があります。それは筋肉には決してできないことを可能にします。
羽がいっぱい入った箱があります。それを持ち上げたいと思います。そのために必要とされる幾つかの筋肉に脳が指示を与え,羽の入った箱を持ち上げます。今度は鉛の棒がたくさん入った箱があります。羽を持ち上げた時と同じ幾つかの筋肉に,今度は鉛を持ち上げるよう脳が指示を与えます。そしてその筋肉は指示通りのことを行ないますが,簡単ですか。とんでもありません。
骨格筋の筋線維は,物が重いか軽いかによって収縮の際に力を加減することはありません。神経終末が筋線維に収縮するよう命じると,それは完全に収縮します。収縮するときには,収縮し切ってしまうのです。では,ある命令が与えられると,筋肉の出す力が羽を持ち上げる程度にとどまり,別の命令で,その同じ筋肉が鉛を持ち上げられるほど大きな力を出すのはどうしてですか。
筋肉は数多くの細い筋線維の束の集まりで,その束は各々運動単位と呼ばれています。運動単位の各々に1本の運動神経が付いており,その先端は枝分かれして,筋線維一つ一つに刺激を与える神経終末を形成する仕組みになっています。電気化学的な衝撃<インパルス>は化学物質によって神経終末から筋線維に伝えられ,そこで再び電気化学的な衝撃<インパルス>に変わり,筋線維が収縮します。その束,つまり運動単位の中にある筋線維すべてが収縮します。
さて,ある筋肉が使われる場合,筋肉中の筋線維の束すべてが収縮するわけではありません。羽を持ち上げるだけだと分かっていれば,中枢神経は羽を持ち上げるのに必要とされるだけの,比較的わずかな数の束にしか信号を送りません。しかし,鉛を持ち上げる場合,収縮するようにという刺激がもっと多くの束に送られます。
脳が欺かれることもあります。箱に鉛が入っているのに,羽が詰まっていると考えれば,収縮するよう指令される筋線維の数が十分でないため,脳は驚きます。箱が床にくぎで打ちつけられたように思えるのです。一方,箱に鉛がたくさん入っていると思ったのに羽しか入っていないなら,多くの筋線維の束は鉛を持ち上げる態勢にあるため,箱は床から飛び上がりそうになります。
決定に次ぐ決定
要するに,中枢神経は,体中にある650余りの筋肉が行なう数々の仕事のために,どれほどの筋線維の束に収縮するよう信号を送らねばならないか,絶えず決定を下しているということです。筋紡錘と呼ばれる,筋線維の中にある感覚器官は,筋線維の状態を探知し,その報告を中枢神経に折り返し送ります。この自動制御の機能により,筋紡錘は決定を下すのに一役買っています。決定を下すのがあまり好きでなくても,人は無意識のうちに幾百万もの決定を絶えず下しているのです。
収縮する筋線維が多くなればなるほど,筋肉はより大きく,またより硬くなります。例えば,腕を上げて頭をかけば,上腕二頭筋が収縮します。収縮しなければならない筋線維の束の数はわずかで,二頭筋はそれほど硬くなっていません。しかし同じ動きをして,15㌔ほどの物を自分の肩まで持ち上げれば,より多くの筋線維が用いられるので,二頭筋はふくらみ,また硬くなります。
他の筋肉より張力をずっと繊細にコントロールする筋肉もあります。例えば,指を曲げて何かをしっかり握ることもできれば,同じ指で薄い卵のからを上手に扱うこともできます。そのような筋肉には,各々わずかな数の線維から成る束が数多くあり,10本足らずの筋線維で成る束もあります。脚にあるような他の大きな筋肉には繊細な動きは取れません。そうした筋肉の場合,筋線維の束の数は少なくても,各々に含まれる筋線維の数は多く,100本を超えることも珍しくありません。
骨格筋の線維には,基本的に言って二つの種類があります。ゆっくりした,むらのない運動に用いられる色の濃い線維と瞬間的に力を爆発させる動きに用いられる薄い色の線維です。(緩慢収縮線維および急速収縮線維と呼ばれる。)反応の遅い線維ばかりで成っているような筋肉もありますが,その他の筋肉には反応の遅い線維と速い線維が入り交じっています。動きがとび抜けて敏捷な人の場合,動きの鈍い人よりも白い,つまり反応の速い線維が多いことになります。例えば,身軽な体操選手は,人を魅了する,目の回るような大きな回転運動をするのに反応の速い筋線維を必要とします。また,傑出した短距離選手には,こうした反応の速い筋線維が長距離選手よりも多く備わっています。トレーニングにより変化は生じますが,幾らトレーニングを重ねても反応の速い筋線維と遅い筋線維の割合を変えることはできません。これは遺伝,つまり天分なのです。
エネルギーの出所
筋肉を動かすエネルギーの豊富な源は,ATP(アデノシン三燐酸)です。これはミトコンドリアという小器官により,筋線維の中で作り出されます。それには幾つかの方法があります。筋肉組織(脂肪組織)の脂肪が分解され,筋肉および血液中の遊離した脂肪酸になります。やがて,筋線維の中でそれが酸化し,ATPを作り出すエネルギーになります。血液中のブドウ糖もATPを形作るために,筋線維の中で酸化します。血液中のブドウ糖の幾らかは,グリコーゲンと呼ばれる炭水化物の形で筋肉内に蓄えられます。ATPが必要になると,このグリコーゲンがブドウ糖に分解され,酸素を使わずにATPを作り出します。
この幾つかの方法が同時に用いられてATPが作られますが,その程度は状況によって変化します。運動の種類,その程度や継続時間,当人の体調などはいずれも,ある時点においてどの方法で,どれほどのATPを供給するかを左右します。しかし,長時間激しい運動を行なう長距離走の場合,ATPの主な源はグリコーゲンです。
マラソン走者はしばしば,炭水化物の詰め込みなることを行ないます。競技前の数日間,炭水化物をたらふく食べるのです。こうして筋肉中に蓄えられているグリコーゲンの量を300%まで増やせます。しかし,グリコーゲンをこのように使うと,乳酸という副産物ができ,それが筋肉にたまって疲労が生じ,やがて筋肉痛が起こるのです。
筋肉とその造り主,いずれを崇拝するか
筋肉は多くの事柄を行なえます。ボールを投げ,カーブやドロップやスライダーなどの変化をつけられます。逆立ちをして,片手で体のバランスをとれます。筋肉を使って優美に跳び上がり,宙返りをして,空中で体をひねることもできます。片腕の筋肉だけで,何十㌔もある物を頭上に持ち上げることができます。足の筋肉を使って2㍍を超すバーを跳び越え,9㍍近くの距離を跳躍し,100㍍を10秒弱で,1マイル(約1,600㍍)を4分足らずで,42㌔を2時間そこそこで走れるのです。また,80㌔,あるいは160㌔の距離を走り続けることもできます。メキシコのタラウマーラ・インディアンは,320㌔走ります。“足の速さ”の点で特別に訓練された,マヘタングというチベットの僧侶たちは自分のペースと息づかいに合わせて聖なる呪を唱えながら,480㌔を30時間で走る,という怪しげな話もあります。
筋肉について考えると,畏怖の念に打たれます。しかし,筋肉は神ではありません。走る人の中にはそう考えている人もいるようです。もちろんそうした人は少数派にすぎません。ある人は,走ることを,騎士の最高の目的とされた聖杯の探求になぞらえます。別のランナーは,「身体による霊の探求が今まさに始まった」と断言しています。多くの人からジョギングの大祭司と言われるジョージ・シーハン博士は,「私が恐ろしいと思うのは,自分の限界に到達し損ない,神を見いだせなくなることである。しかし,そこで走ることが役に立つ」と語っています。ジョギングをしている一女性は,走るという体験を改宗になぞらえています。夫が走っているという一婦人は,「主人はかつてメソジスト派の信者でした。今では走ることに信仰を持っています」と語っています。ジョール・ヘニングは,走ることに関する著書の中で,「これは正に崇拝の一形式,神を見いだす一つの方法である」と述べています。「奔走」の編集者,ボブ・アンダーソンは,「かつて『人類が生き延びるには,新しい宗教を作り出さねばならない』と言われたが,その宗教が作り出された。走る者の宗教である」と言明しました。
しかし,早まってはなりません。筋肉が救いをもたらすことはありません。それができるのは筋肉の造り主だけです。筋肉はエホバの創造の知恵を反映しています。その敏捷さ,速さ,活力,耐久力に神の創意の才が見られます。複雑な電気化学的な仕組み,無数の筋線維の中で起こる無数の反応にもそれは見られます。意識的に指示を与えなくても,一日中,毎秒毎秒,その反応は監視され,調和よく働いているのです。意識的に指示を与えなくても,肺は呼吸し,心臓は拍動し,血液は循環し,消化器官は働き,種々の腺は様々な液を分泌し,電気刺激は体中を巡り,こうして人間は生きてゆけるのです。それだけではなく,わたしたちが全く気付かないようなことが体内ではもっともっと多く行なわれているのです。
筋肉を訓練するトレーニングにも益はありますが,それは敬神の専念の面での訓練とは比べものになりません。使徒パウロはこう書いています。「身体の訓練は少しの事には益がありますが,敬神の専念はすべての事に益があるからです。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです」。(テモテ第一 4:8)どんな運動にしても,それを楽しむのは良いことです。その益を存分に味わってください。運動をすれば,気持ちがよくなります。しかし,敬神の専念は筋肉には決してできないことを成し遂げます。つまり,人を生き長らえさせ,永遠に生きる道をさえ開くのです。詩篇作者はそのことを次のように歌っています。
「主は馬の力を重んじられることなく,走る者の足を喜ばれない。主がその喜びとされるのはご自分を恐れる者たちである」― 詩 147:10,11,新英訳聖書。
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有酸素運動はどんな点で筋肉のためになるか
筋線維が強くなり,以前よりも速く収縮するようになる。
ATPを作るミトコンドリアの数が増える。
ATPを作るためにミトコンドリアが必要とする酵素の数が増える ― 長距離走者の場合は,座ってばかりいる人の3倍になる。
筋肉のミオグロビンがしばしば倍増する。ミオグロビンは酸素をミトコンドリアへ運ぶ。ミオグロビンが増えると,酸素の供給量が増えることになる。
動脈が新たに枝分かれし,毛細血管が増加し,しばしば倍増する。これは,筋肉に酸素を運ぶ血液の供給量が増えることを意味する。
このようにして血液の循環がよくなり,ミオグロビンが増えるので,酸素供給の効率が上がり,血液の流れが少なくて済む。
酸化する脂肪の量が増加し,より多くのATPを供給する。
ATPの別の供給源であるブドウ糖の酸化が増大する。
鍛えられた筋肉には,炭水化物(グリコーゲン)が高い濃度で蓄えられている ― これが長期にわたる激しい運動の主なエネルギー源となる。
鍛えられた筋肉には,乳酸がそれほど速く蓄積されず,鍛えられていない筋肉よりも多くの乳酸を保持できる。そのため疲労が少なくなる。
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運動不足が筋肉に及ぼす影響
筋肉は小さくなり,衰え委縮する。腕や脚を骨折した後,ギブスを外す時にはっきり分かる ― 筋肉が無力になっている。
ある調査で,運動選手たちが20日間ベッドの中で過ごした。酸素を取り入れる能力は4分の1以上減少し,血液を送り出す心臓の能力も同じだけ減少し,赤血球の数が15%減少した。