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  • イエス・キリストはどんな人物でしたか
  • 目ざめよ! 1982
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目ざめよ! 1982
目82 7/8 6–10ページ

イエス・キリストはどんな人物でしたか

イエスは一体どんな容ぼうをしておられたのでしょうか。芸術家はイエスの絵や彫刻を幾千点となく制作しましたが,その作品の導きとなるようなイエスの写真もイエスの同時代人による描写もありませんでした。聖書は,イエスの髪の毛や目の色,身長,体重その他イエスの容ぼうに関するどんな特徴も明らかにしていません。イエスを描いたほかのすべての絵と同様,この雑誌に載せられているイエスの絵も画家の考えたものにすぎません。

自らの容ぼうのゆえに称賛を浴びた人は少なくありませんが,イエス・キリストはその外見ゆえに名声を得たのではありませんでした。

イエスは雄々しく,顔立ちの整った人であったに違いありません。聖書は,イエスが神の霊の奇跡的な働きにより完全な人間として生まれたことを示しています。その追随者の一人であった医師ルカは,「イエスは,知恵においても,身体的な成長においても……さらに進んでいった」と伝えています。―マタイ 1:20,21。ルカ 2:52。

しかし,完全な人間であっても,超人間的な姿をしていたのではありません。また,頭の回りに後光が射していたということもありません。聖書はイエスがごく普通の人物として受け取られたことを示しています。例えば群衆に悟られずに,お忍びでエルサレムへ上って行くことができました。また,イエスを捕縛しに出掛けて行った兵士は,イエスを識別するために裏切り者の弟子ユダの手引きを必要としました。―ヨハネ 7:10-13。マタイ 26:47,48。

聖書筆者たちがイエスの外見をそれほど重要とみなしていなかったことは明らかです。むしろその任務と,イエスが地上でその任務を果たす際に明らかにされた個人としての特質について詳しく書いています。

並々ならぬ任務

イエスがこの地上で成し遂げた並々ならぬ任務について考えると,イエスが人類史にどれほど影響を及ぼしたかを理解できます。イエスの行なわれたようなことを成し遂げた被造物はほかにいません。

聖書は,イエスが人間になる前に神の天的なみ子として存在していたことを示しています。万物の創造に当たって,み子は神の最も親密で忠実な共同制作者でした。(コロサイ 1:13-17)神から与えられた,地上での任務に従事しなければならない事態が生じた時,その責任を喜んで担われました。その任務は人間として生まれ,生活し,死ぬことを意味していたのです。

そうした事を必要とした事態とは一体何ですか。アダムが自らの選択によってエデンで罪を犯したのです。アダムは神がはっきりと示された律法に違反しました。アダムの命はその律法に懸かっていました。全人類のこの完全であった先祖は,こうして人間としての完全さと地上の楽園で永遠に生きる希望とを自ら失っただけではなく,その時まだ生まれていなかったその子孫すべてからもそれを奪ってしまいました。(ローマ 5:12。創世記 2:15-3:24)アダムの不完全な子供の中には,失われたものを人類のために取り戻すことのできる人は一人もいませんでした。神の完全な公正の規準によれば,人類を請け戻すにはアダムのような完全な人間の命が犠牲にならなければなりませんでした。しかし,どのようにしてそれを備えることができるのでしょうか。エホバ神ご自身がその備えをして,公正の求めるところを満たし,かつ人類に対するご自分の愛の深さを表わし示されました。―詩篇 49:6-9。ヨハネ第一 4:9。

神はご自分のみ子である最も親密な共同者を,天から遣わされたのです。その方が生まれ,完全な大人へと育っていったことはその任務を果たすための手段にすぎませんでした。イエスはその生涯によって神への全き忠節を実証し,エホバに対する自らの献身の動機が個人としての利己的な利得では決してないことをはっきりさせました。こうして,自分がそう望みさえすれば,アダムも創造者に忠実を示し得たことを明らかにしました。イエスが完全な人間として死なれたことにより,罪と不完全さと死を受け継いだ人類を請け戻す道が開かれました。こうしてこの請け戻しを進んで受け入れようとする人々には,義の新秩序における永遠の命の見込みができました。

これより偉大な業を成し遂げた人は歴史上ほかにはいませんでした。

自分の栄光を求めない

イエスは自分の名声を高めようとしてこのすべてを行なわれたのではありません。天のみ父への祈りの中で,イエスははっきりとこう言われました。「わたしは……地上であなたの栄光をあらわしました」― ヨハネ17:4。

ご自分の役割に対するイエスの見方は次の言葉に見事に要約されています。『人の子は,仕えられるためではなく,むしろ仕えるため,そして多くの人と引き換える贖いとして自分の魂を与えるために来たのです』。(マルコ 10:45)そして謙遜にも,このすべてを可能にしてくださった方に注意を向け,こう言われました。「神は[人類の]世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされた」― ヨハネ 3:16。

熟達した教え手

西暦29年から33年にわたる3年半におよぶその公の宣教期間中,イエスは他の人々を教える業に絶えず専念されました。そして,イエスは実にすばらしい教え手でした。「あのように話した人はいまだかつてありません」。これはある時にイエスの教えを聞いた数人の下役たちの口を衝いて出た言葉でした。別の機会には,聴衆すべてが「その口から出る,人を引きつけることばに驚嘆する」ようになりました。確かに,自らイエスの話を聞いた人々はイエスが本当に熱達した教え手であると感じました。―ヨハネ 7:46。ルカ 4:22。

イエスの話された最も有名な講話は山上の垂訓と呼ばれるものです。イエスが野外で話されたこの垂訓の中に表わされている深い知恵と人間の本性に対する並々ならぬ造詣の深さは,その場に居た聴衆を驚かせただけでなく,学識の有る無しにかかわりなく無数の人々を幾世紀にもわたって驚嘆させてきました。今は亡き精神科医ジェームズ・F・フィッシャーは,その輝かしい経歴を終えるにあたり,この垂訓を高く評価していることを言い表わして,次のように語りました。「最高の資格を持つ心理学者がこれまでに書いた,精神衛生に関する権威ある論文のすべてを集めそれを合わせて洗練し,無用な語句を削り取り……次いでこの混ざり気のない純粋に科学的な知識を当代随一の詩人に正確に表現させたとしても,それによってできるのは山上の垂訓の不器用で不完全な要約でしかないであろう」。

数ある垂訓の中でも特に優れたこの垂訓に精通したいと思われるなら,聖書を開いてマタイ 5章から7章までをご自分でお読みになってみるとよいでしょう。15分ほどで読み終わります。人類の最大の必要を真に満たし,この危機の時代にもその必要を少なからず満たす思想を見いだされるでしょう。他の人々と仲よく暮らす方法や自分自身の感情に対処する方法に関する原則を見いだすことでしょう。人生の真の意義や人生において主な関心事とすべき事柄,および神と良い関係を築く方法などを見いだすよう助けられるでしょう。わずか15分間にです! イエスがその垂訓を話し終えられた時,話を聞いていた群衆は,「その教え方に驚き入っていた。権威のある人のように教えておられ,彼らの書士たちのようではなかったからである」と記されています。―マタイ 7:28,29。

イエスの教えが効果的であったのは,神,ご自分の父から実際に聞いた事柄を語っていたためです。(ヨハネ 14:10)ユダヤ人の書士たちのように人間の伝統に頼ることはありませんでした。それだけでなく,イエスは誠実に耳を傾ける人々に対して偽りのない愛を抱いておられました。人々を心の底から愛しておられたからこそ,人々の耳をとらえ,深い敬意を勝ち得たのです。人々は,イエスが書士や他の宗教教師とは大変異なっておられるのに気付きました。書士は常に人々を遠ざけ,いわば自分の長い衣を引きずって歩き,『律法を知らない群衆』に触れて汚されないようにしていました。そうした者たちは群衆を「のろわれた者」と呼んで,さげすんでいました。―ヨハネ 7:49。

しかし,イエスは深い思いやりに動かされて語り,こう言われました。『エホバの霊がわたしの上にある。貧しい者に良いたよりを宣明させるためわたしに油をそそがれたからである』。(ルカ 4:18)イエスはご自分の音信を分かりやすく,簡潔で,明快なものにされました。聴衆のよく知っている事柄を例えに使ってご自分の言わんとするところを示し,聴衆の心の奥底に達するよう努めました。人々が思いと心を入れ替え,誤った考えや行ないを改め,新鮮で新しい生き方を始めるよう促しました。そうした生き方は神の恵みを受ける関係へと導き,将来の真の希望を与えるものとなります。

お聞きになるかも知れない政治的な演説や宗教的な説教と,この教えを比較してみてください。そうした演説や説教の中には才気あふれるものや,もっともらしく聞こえるものもあります。話し手の中には激こうし,争いを引き起こす者もいます。しかし,一般の人々に対する愛と共感にあふれている人がどれほどいるでしょうか。

イエスは他の人々への思いやりを口先だけで示されたわけではありません。差し迫った身体的な必要を持つ人々を援助されました。イエスはそうした人々に食物を与え,病める人々をいやし,そうした人々の身内の者を死人の中からよみがえらせることさえしました。イエスはそうする力を神から与えられており,その力を存分に用いました。時には食事や休息の時間さえ十分にないことがありました。イエスは本当に情け深い人でした。―マタイ 14:14。マルコ 6:38-44; 8:22-25; 10:13,14。ルカ 8:49-56。使徒 10:38。

イエスの教えの最大の特徴の一つは,イエスが去られた後もその影響が将来の世代にまでおよぶような経路を備えられたことです。イエスが教えを与えた短い期間が終わった時には,一群の弟子たちを教え,訓練し,備えのできた者としておられたので,イエスの始めた業を続けるためその弟子たちを世へ遣わすことができるようになっていました。ご自分の弟子を教え手として後に残しただけでなく,教え手になるよう教育を施せる者とされました。イエスの始めた業は,その予告通り「すべての国の人びと」に達することになった,全地球におよぶ弟子を作る業へと野火のように広まって行きました。―マタイ 28:19,20。

愛のある,勇敢な指導者

イエスは弟子たちの中にあって指導的な役割を果たされました。その議論の余地のない指導力のゆえに,弟子たちは決して異議を唱えることはありませんでした。イエスは弟子たちに完全な模範を示されました。何であれイエスが弟子たちに求めた事柄は,ご自身の行動で示されました。イエスは隣人を愛するように,そうです自分の敵をも愛するよう,口先だけではなく,模範によって弟子たちを教えました。ですから,地上におけるその指導は流血とは無縁のものでした。だれか他の人の血をわずか一滴でも流したとして,イエスをとがめることはできません。ご自分の弟子のひとりが傷付けた敵対者の耳の傷をそのままにされることなく,即座にそれをいやされました。―ルカ 6:32-36; 22:50,51。

同時に,その地上の生涯を通して,多大の勇気と雄々しさと力強さが示されました。例えば,マルコ 10章32節にはこう書かれています。「さて,一行はエルサレムに上る道を進んでいたが,イエスがその先頭を進んで行かれるので,彼らは非常に驚いた。しかしそのあとに従う者たちは恐れを感じるようになった」。これはイエスが弟子たちと共にエルサレムに向けて最後の旅をしている時のことでした。イエスはエルサレムで処刑されることになるのを知っておられました。当時の宗教指導者たちはすべての栄光を自分たちのものにしておきたいと思っていたのです。それを保つために,宗教指導者たちはイエスを殺そうと意を決していました。歩いてエルサレムに上って行った際イエスはこの事をご存じであり,それについて弟子たちに語っておられました。(33,34節)イエスはたじろぐどころか,弟子たちの先頭に立って道を進んで行かれ,恐れを抱く弟子たちを驚かせました。弟子たちは本当に勇敢な指導者に恵まれていました。

数日後,イエスはご自分の命の懸かった裁判にかけられており,ローマの知事ポンテオ・ピラトからご自分が王なのかどうかと尋ねられた時,こうお答えになりました。「あなた自身が,わたしが王であると言っています」。(ヨハネ 18:37)難を逃れようとしてうそをつくことなど決してされませんでした。イエスはご自分の代表していた王国,つまり神の王国について勇敢に証しをされました。

その同じ日,イエスは死刑を宣告され,むち打たれ,いばらの冠を載せられ,顔を平手打ちにされ,つばきをかけられ,最後には苦しみの杭に釘付けにされて極めて苦痛の伴う死を味わわれました。イエスは最後の最後まで,愛のある勇敢な指導者としての責任を担われました。イエスは息を引き取る直前に天のみ父に最後の報告をされ,こう言われたのです。「成し遂げられた!」―ヨハネ 19:30。

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イエス・キリストが地上で行なわれたようなことを成し遂げた人はほかにはいない

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「あのように話した人はいまだかつてありません」という言葉が,イエスの教えを聞いた下役の口を衝いて出た

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いかなる人の血であれ,血を流したとしてイエスをとがめることはできない。それどころか,イエスは他の人々の傷をいやされた

[6ページの図版]

人類がアダムによって失ったものを,イエスが回復させてくださった

アダム

イエス

[7ページの図版]

イエスは自分自身の栄光ではなく,神の栄光を表わした

[8ページの図版]

イエスは山上の垂訓を話された

[9ページの図版]

子供たちに愛ある関心を払われた

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