ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目83 5/22 17–20ページ
  • 化石は進化を証明していますか

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 化石は進化を証明していますか
  • 目ざめよ! 1983
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 化石の記録を調べる
  • 種の不変性
  • 化石の記録に語らせる
    生命 ― どのようにして存在するようになったか 進化か,それとも創造か
  • 生物が証言する事がら
    目ざめよ! 1974
  • わたしは進化論を信じなければなりませんか
    目ざめよ! 1975
  • 全ての生物は共通の祖先から派生したのか
    生命の起源 5つの大切な質問
もっと見る
目ざめよ! 1983
目83 5/22 17–20ページ

化石は進化を証明していますか

進化論者は自分たちの理論を支持するように思える様々な論議を提出しています。それらの人々が指摘する証拠の大半は生物に関するものです。これらの人々は様々な動物の骨格が似ていることを取り上げ,これをそれらの動物が互いに関連を持っている,つまり一方が他方の直接の子孫ではないにしても,少なくとも共通の先祖を有している証拠であるとしています。また,卵細胞の発育の初期の段階において,“高等”動物の胎児と“下等”動物の胎児が似ている点も指摘します。それらの進化論者はヘモグロビンの化学構造や血漿を分析し,それを基に様々な種がどれほど近い関係にあるかを分類しています。

こうした比較によれば,すべての動物は共通の先祖を有しているとの結論に到達せざるを得ない,とそれらの人々は主張します。そして,それ以外のどんな説明も考えつかない,と語ります。もちろん,すべてのものに同一の設計者また造り主がいるという可能性は初めから排除しているため,それらの人々は代わりの説明として造り主がいるという考えを受け入れることができません。しかし,「人間と生物界」と題する教科書の中で,執筆者たちはそれらの証拠が不完全なものであることを認めて次のように書いています。「外形の相同関係,胎児の発育過程における並行現象,幾つかの等級に分類できる,生物間の化学的関係などの存在そのものは,進化が生じてきたことを証明するものではない」。

進化論者たちは,進化が実際に生じたことを示す証拠を古生物学に求めています。「地史学概説」という本には次のように記されています。「現在生きている動植物の比較研究は非常に説得力のある状況証拠を提出するかもしれないが,化石は生命が単純な形態からより複雑な形態へと進化したことを裏付ける唯一の歴史的証拠文書とも言えるものを提供してくれる」。

化石の記録を調べる

このように,進化が実際に生じたことを裏付ける最終的かつ決定的証拠は化石の記録から得られるとされています。例えば,貝から始まって,硬い殻が体を覆ううろこに次第に変化し,殻の一部が体内に入って背骨になってゆく過程を示す,一連の化石が見付かるものと読者はお考えになるでしょう。同時に,それら一連の化石は,体の一方の端に1対の目とえらが,他方の端に尾びれが発達してゆく過程を示しているでしょう。そして最後に,それは何と魚になるのです!

しかし,魚もそのままでとどまってはいません。堆積物の地質柱状図を上にたどると,ひれが下肢に変化してそこから足首や指が生え出し,えらが肺に変わりつつある魚が見付かることでしょう。さらに上にのぼると,もはやその生き物の化石は古代の海底にはなく,乾いた陸地の堆積物の中に埋められています。別の魚の場合,腹びれが翼に,尻びれがかぎづめの付いた脚に変化していったはずです。うろこは羽毛に変わり,口のまわりには角質のくちばしが生えてきたことでしょう。そして進化の魔術は突如,爬虫類と鳥類を生み出しました。ですから,先祖を成すすべての種とその子孫の各種類との間の過渡的な特徴を示す中間形態の生物を一列に並べることができるはずです。

では実際にそうしたものを見るでしょうか。もちろん目にすることはできません。それは進化論者の夢にすぎないでしょう。化石の記録が実に貧弱であることを最初に嘆いたのはダーウィン自身でした。しかしダーウィンは,時間がたてば様々な種の間の過渡的な形態の生物が見付かるものと期待していました。それら過渡的な形態の生物は失われた鎖の輪と呼ばれるようになりました。その失われた輪は,自然選択による進化の過程に対するダーウィンの信念を証明してくれるはずでした。

しかし,その希望はいまだにかなえられていません。実際の記録は何を示しているでしょうか。シダ,灌木,喬木,魚,爬虫類,昆虫,鳥,哺乳類など,植物にせよ動物にせよ,新しい種類の生物は地質柱状図に突然姿を現わします。無生代と呼ばれる,生命のこん跡の見られない堆積物の層のすぐ上には,カンブリア層があって,ここにはすでに十分に発達した,実に様々な種類の甲殻類や貝類の化石が豊富にあります。古生代中期には,木質の茎を持つ植物が突然姿を現わします。木の化石はそれより下の層には全く見られませんが,それ以降の各年代には豊富に見られます。古生代後期の岩石には,様々な変化に富む十分に発達した昆虫の化石が多量に含まれているのに対し,それ以前の層には一つも見いだされません。新生代の初期になると,現代と同種の哺乳類が突然姿を現わします。これらが初期の種類から進化した形跡はどこにも見られません。

化石の記録は次のことを繰り返し証ししています。すなわち,植物や動物の新しい種類が突然姿を現わし,その前段階の生物は見られないということです。偏見のない観察者にとって,この事実は,連続的な進化よりも,相続く各年代にこれら新しい種類の生物が創造されたことを示唆するものではないでしょうか。

種の不変性

生物学者たちは様々な種を分類する細かい系統を考え出しました。動植物学者は,すでに分類されたものとは異なる種を絶えず発見しており,それらの種は他の種の間に組み入れられます。化石によって示される絶滅した種もその分類の一定の場所に置かれてきました。異なった化石が絶えず発見され,それらは系統内の他の種の間に置かれることになります。進化論者はこれらを過渡形態の種と呼びますが,この語は,それが古い種と出現しようとしている新しい種の間に位置する一時的に存在した種にすぎないことを意味します。それらを過渡形態と呼ぶ態度そのものが,すでにその論理に先入観の伴っていることを明らかにしています。“中間”形態というのが公平な表現でしょう。

それら“過渡”形態の生物を探すことに大きな努力が払われています。そうした形態の生物の例として,進化論者は肺魚のことを指摘します。肺魚は,水中で酸素を得るためのえらだけでなく,水の外で呼吸をするための肺の役を果たす浮き袋も備えています。この肺魚は魚と爬虫類の間の進化の一段階に属するものと考えられています。しかし,この論理には思わぬ障害があります。肺魚は爬虫類になりませんでした。この魚は今日でも生きており,古代の化石に見られる肺魚と変わっていません。進化の一段階に属するというより,別個に創造され,絶滅を免れたというほうが理にかなっているのではないでしょうか。

化石の記録は進化と著しい対照をなす別の重要な証拠を提出しています。進化の過程は,「生物の絶え間ない変化」と表現されています。ところが,古代の地層から発見されるおびただしい数の化石は,肺魚の場合のように,現代の種と同一視できるのです。中生代以降の岩石に残っているオーク,クルミ,ヒッコリー,ブドウ,モクレン,ヤシその他の数多くの喬木や低木の葉の跡は今日生えているそれらの樹木の葉と変わりません。それらの植物が最初に姿を現わしてから,地質学者によれば幾百万年もの時が経過していますが,進化による変化は生じませんでした。同様に,中生代の岩石に多数の昆虫がそのこん跡をとどめています。それらの跡は,その昆虫が今日見られる同じ昆虫の種と非常によく似ていることを示しています。進化論者はそれについてこう語ります。「昆虫の進化は本質的に言って,中生代の末までに完了していた」。この中生代に昆虫は初めて姿を現わしているのです。

正直に言って,これら化石の証拠は,環境の力が絶えず種に変化をもたらし,新たな種を生み出すという理論を支持しているでしょうか。むしろそれは,かつて創造されたそれぞれの種が同じ種類の生物だけを生み出しているという原理を強力に裏付けるものではないでしょうか。明らかに後者を裏付けています。それぞれの種は,幾千年もの間,幾世代にもわたってずっとそのようにしてきたのです。

進化論者たちは今や,自分たちが長年擁護してきた理論を化石の記録が支持していないことを認めています。1980年にシカゴで開かれた進化論者の一会議で,ある古生物学者は,「過去120年にわたり発見されると言われてきた型は存在しない」と語りました。小さな変化が積み重なって新しい種が形造られるという考えは誤りです。むしろ,ハーバード大学の地質学の一教授が語っているように,「種は化石の記録の中で幾百万年もの間何の変化も示さず,そののち突然姿を消し,明らかにそれと関連はあるものの実質的に異なった別のものに取って代わられる」というのが事実です。化石の記録の中のそれぞれの種には,変化ではなく,安定した状態がはっきり認められます。

そこで今では,進化は「中断された平衡」過程に従って生じるものであるとする新しい学派が登場しました。その学派によると,ある種は幾百万年も変化しないでいるものの,ほんの数千年の間に急速に変化して新しい種になる,というのです。彼らはこれを大進化と呼びます。こん跡を化石に残すチャンスがないほどその移行は急速であるとされています。しかし,小進化にあくまでも固執する旧来の学派はこの新しい教えを受け入れるまでには至っていません。

進化論者の間のこうした論争や混乱を目にすると,一般の人々は当惑し,進化は実際に起きたのだろうかという疑問を深めずにはいられません。進化論という主義を感情的に支持しているのでない人々は,大進化と中断された平衡に関するこの話に幾分穏やかならぬ不安を抱かされます。それはおそらく,進化論が初めから抱えている幾つかの欠陥がやがて致命的な結果をもたらすのではないかと恐れているためでしょう。それらの欠陥を回りくどい大げさな表現で取り繕おうとしていることは,創造が唯一の答えであると認めているのとほとんど変わりません。

進化を支持せず創造を裏付ける科学上の証拠が増しているのに,生物の授業で創造についてあまり注意が向けられていないのはなぜでしょうか。進化論者が策をろうして,公立学校で教えられる科学の授業の内容をいまだに厳しく規制しているのはなぜですか。宗教的圧力のもとに法律まで制定されて,そのような統制を解くよう求める試みがなされてきましたが,その努力は法廷において阻止されてきました。

これらの質問は次の号の「創造説 ― それは科学的ですか」と題する記事の中で考慮されます。

[18ページの図版]

肺魚は変化しなかった。今日の肺魚は昔の化石に見られる肺魚と同じである

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする