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目ざめよ! 1984
目84 8/8 18–22ページ

私はナチ支配下のドイツで成長期を過ごした

私がまだ5歳だった1935年のある恐ろしい日に,私の幼い少年の日の安心感はみじんに打ち砕かれてしまいました。それからさまざまな変化が生じましたが,その理由はほとんど理解できませんでした。間もなくどういうわけかひどい扱いを受けるようになりました。しかし,やがて詩編作者の次の言葉に共鳴できるようになりました。「わたしの魂はあなたのもとに避難した(の)です。わたしは逆境が過ぎ去るまで,あなたの翼の陰に避難します」― 詩編 57:1。

両親は1920年代以来ビーベルフォルシェル(聖書研究者,つまりエホバの証人)でした。ヒトラーが1933年に政権を執った時,私は3歳で,姉のヘルタは5歳でした。ヒトラーはほどなくしてエホバの証人を激しく迫害するようになり,私の両親もその政権の厳しい監視を免れることはありませんでした。

1935年にゲシュタポの将校たちが私の家に押し入りました。5歳の子供の目には,その将校たちは非常に大きく,居丈高に見えました。父が聖書研究者であることの証拠となるものを求めてゲシュタポが荒々しく家の中を捜査している中で,静かにたたずむ父の姿が今でも目に浮かびます。ゲシュタポは結局父を連行しました。それから10年間,父を見ることはありませんでした。

しかし,ヒトラー政権の私たちに対する仕打ちはそれで終わったわけではありません。2年後,ゲシュタポは男性一人と女性一人という組み合わせで戻って来ました。二人はヘルタと私を指して,「この子たちを連れて行く」と,恐怖におののく母に告げました。なぜ連れて行くのでしょうか。「お前にはこの子たちを育てる資格がない」というのです。二人は私たちのことを非行少年少女であると非難し,私たちを青少年収容所に連れて行きました。ゲシュタポに無理やり連れて行かれる私たちを見守っていた母の気持ちを想像していただけるでしょうか。

ヘルタと離れ離れにされた私は,1943年までその収容所での軍隊式の規律に耐えました。その後私はアルトマルク県の小さな町の近くにある農家へ送られました。

この間ずっと,私はこうした事柄がどうして自分の身に起きるのか全く分からずにいました。両親は私に話す事柄については非常に慎重でした。きっと5歳の男の子なら,うっかり口をすべらせてしまうこともあると思われたためでしょう。ですから,どうして両親から引き離されたのか私には分かりませんでした。また,私を預かった農家の人がどうして私のことを犯罪者だと言って口汚くののしったり,どなったりするのか,なぜほかの子供たちが私に寄りつかないのか分かりませんでした。

やがて私は,当時の教育制度に従い,特別な学校で毎週幾時間か宗教を学ばなければならなくなりました。これには私は憤慨しました。二度ほどそこへ行ってから,私は学校当局に,「もうあそこには行きたくありません」と言いました。卒業証書がもらえなくなるとか,職を身に着けられなくなると言って,学校当局は無理やりに行かせようとしました。しかし,私は心中,そんなことはどうでもよいと思っていました。その学校に無理に行かされることに非常な憤りを覚えたのです。

それから,「よし,宗教を学ばせたいというのなら,自分で聖書を読むことにしよう」と心に決めました。そしてやがて,自分がこんなに不親切な扱いを受ける理由が聖書を読めば分かるのではないかと考えるようになりました。福音書を読むのは楽しくて,イエスがどんなにひどい扱いを受けたかを徐々に悟るようになりました。幼いながら頭の中で,イエスの置かれた状況と自分の状況とを比べ,『この状況は幾らか似たところがある。僕は何の理由もなく虐待され,見下げられている。ちょうどイエスと同じだ』と考えました。

とうとう終戦になりました。すぐに家に帰りたいと思い,荷物をまとめて朝早く,だれにも止められない時にそこを出る計画を立てました。しかし,私は事態がどれほど危険かを悟っていませんでした。ドイツは敗れて,がれきの山となり,田舎の地域は混乱していました。動いているものは何もありません。車もなく,鉄道もありませんでした。人々は飢えており,少し前の戦闘で使われた武器がそこらじゅうに放置されていました。きっとマグデブルクには帰れなかったに違いないと思います。

ところがその時,私に対するエホバのご配慮を示す心温まるしるしを見せられたのです。結局,私は『神の翼の陰に』宿っていたのです。その農家を出る準備をしていた正にその日に,見知らぬ女の人が,私を保護する特別許可証を持ってその農家にやって来ました。その許可証は一時的に支配権を握っていた軍政当局の出したものでした。農家の人はそれを快く思わず,その家にいるよう私を説得しようとしました。しかし,私のほうは,この見ず知らずの人と一緒に行けるのをうれしく思いました。

この婦人は一頭立ての馬車でやって来ており,私たち二人はその人の家まで約3時間ほど一緒にその馬車にゆられて行きました。少しの間沈黙が続きました。その婦人はあまり多くを語らず,私も質問をする気になりませんでした。それから,その婦人のほうが話し始めました。「さてと,ハンス君,あなたのことはよく知っているのよ。あなたが小さい時のことをよく覚えているわ」。私はその婦人を見ましたが,全く見覚えのない人でした。婦人は言葉を続け,「お父さんとお母さんのことも知っているわ。あなたのお父さんは聖書を読んでいたために強制収容所に送られたのよ」と言いました。

そして,父がエホバの証人だったこと,また自分もエホバの証人であることを説明しました。事実,その婦人は戦争中この付近で開拓者(全時間伝道者)として秘密裏に奉仕していたのです。自分の身の上をこの婦人から聞かされて,私は涙をこらえきれなくなりました。この忠実なエホバの証人はずっと私の後をたどっていてくれたのです。私がどこにいるかをはっきりと知っていても,母もこの婦人も私を訪ねて来ることができませんでした。当局が私を立派な小ナチ党員に仕立て上げようとしていたからです。しかし,初めて機会が開けたその時,その人は首尾よく私を自分の保護下に置いてくれたのです。

その人はシャイベ姉妹という人であることが分かりました。その後数週間,姉妹はあらゆる機会を捕らえて,私の両親が苦しみに遭いながらも守った事柄を教えてくれました。私は姉妹からもらった「子供たち」という本を読みました。姉妹の持っていたこの本は,ひそかに読むために小さな冊子に分けられていて,姉妹は各部分の読み方を示し,ついでその内容を私と話し合いました。自分の学んでいる事柄に大喜びした私は,困難な年月の間,エホバが私の益のために事態を巧みに動かしていてくださったことを悟るようになりました。

1か月半して,シャイベ姉妹は私が家へ帰る時が来たと考えました。旅行は依然として困難でしたが,トラックが幾らか走るようになっていました。それで姉妹は私がマグデブルクの郊外まで便乗できるように話をつけてくれました。そこから,かつてはマグデブルク市だったがれきの山の中を,道を選び選び3時間ほど歩いて,やっとのことで自分の家を見つけました。幸い,家はまだそこにありました。

私が家に向かって歩いて行った時,母はたまたま窓から外を見ていました。母は私がだれであるかを認め,飛び出して来て,10年ぶりに私を抱き締めました。その時の私たちの気持ちが想像できるでしょうか。姉のヘルタがまだ青少年収容所にいたので,その釈放を実現することにすぐに取り掛かりました。収容所までは80㌔の道のりがありましたが,徒歩とヒッチハイクでそこまで行き,母と私は,収容所の人たちがしぶるのを説き伏せて姉の釈放をかち取り,私たち3人は喜び勇んで家に帰りました。さて,いないのはあと一人だけです。

間もなくその人も,少しばかりの持ち物を積んだ古い自転車を押して帰って来ました。父は強制収容所を転々として10年間を過ごしました。かの悪名高い“死の行進”a もしたと父は言いました。それはザクセンハウゼン収容所からリューベックへの万を数える収容者たちの行進のことで,一行がリューベックに着いたら当局者は彼らを皆殺しにする計画だったようです。230人の証人たちは飢えていて,弱ってはいましたが,いつも一緒にいて互いに助け合いました。

その行進の最後の晩,収容者たちはある森の中に隠れていました。ソ連軍と米軍が迫って来ていました。幾人かの護送兵の勧めに従って,大勢の収容者たちが米軍の戦線に向かって脱出を試みました。そのうち約1,000人は,その時護送兵に射殺されました。しかし,証人たちはその勧めに疑惑を抱いていたので,エホバに祈った後,森の中にとどまっていました。それから間もなく親衛隊員の間の組織が崩れ去り,数日を経ずして証人たちは解放軍と接触しました。この苦しい試練の間にも死亡したエホバの証人は一人もいませんでした。「私たちはいつもお互いに支え合っていた」と,父は言いました。

父は一度も話してくれませんでしたが,ほかの証人たちから聞いた事柄も幾つかあります。例えば,ある日の午後のこと,父は看守にひどく殴られ,関節がはずれて,死んだように地面に横たわっていました。看守たちは父の体を持ち上げて,泥や砂利を運ぶのに使っていた手押し車に投げ込み,それから父を溝の中に捨てて行ってしまいました。父はまるで大きなごみのように泥の中で大の字になっていました。幸い,暗くなってからほかの証人たちがこっそりと出て行って,父がまだ生きているのを知りました。そこでその証人たちは父を屋内に運び込み,看病して健康を回復させました。

また,ブーヘンワルト収容所では,飢えのために力がなくなり,だれの目にも父は死ぬように見えたことがありました。ところが,はっきりした理由は一つもなかったのに,当局は突然父を別の収容所に移しました。その収容所では職人だった父の技術が利用されることになりました。ですから父が生きながらえたのは,救いを与えるエホバの力と兄弟たちの愛とに負うところが少なくありません。

再び一つの家族として結ばれた私たちは,すぐにエホバへの奉仕に忙しく携わるようになりました。1945年から1949年までの間,私たちの周りでは至る所ですばらしい増加があり,ヒトラーの時代になって以来ドイツでは味わえなくなっていた自由を享受しました。しかし,マグデブルクはドイツの東半分にあり,戦後そこは共産主義者の支配下に置かれました。その当局者は私たちを長い間平安な状態にしてはおきませんでした。

私たちが自由に大会に出席できたのは,1949年の西ベルリンで開かれた大会が最後でした。それは私にとって非常に重要な大会でした。その大会でバプテスマを受けたからです。しかし,好ましくない事柄がすでに起きていました。エホバの証人たちが姿を消していったのです。逮捕されるのではなく,誘拐されたかのようにこつ然と姿を消してしまうのです。当初は公式の禁令はありませんでしたが,圧力は増し加わっていました。次いで,兄弟たちがマグデブルクの支部事務所から鎖につながれて連行されたという話が耳に入り,禁令が公式に発表されました。

こうしてエホバの証人は再び地下に潜りました。集会に来る人の中にはスパイがいたので,注意深くなければなりませんでした。それで,集会は秘密裏に,曜日と時間を変えて行なわれました。集会を一つ欠かせば,次の集会がいつになるか分からなくなってしまいます。

家から家の伝道の際にも用心深くし,エホバの証人であることの証拠になるものは何も携帯しないようにしました。人々の反応を見て,状況を判断するのも上手になりました。何か気に掛かることがあれば,私たちはすぐに会話を終わらせて,その地域から立ち去りました。通常は,一つの通りで1軒の家だけを訪問し,それから別の地域の家へ行きます。私たちは東ドイツで,真理を本当に愛する人々を大勢見いだしました。

言うまでもなく,当局は私たち家族全員がエホバの証人であることを知っていましたから,ほどなくしてやって来ました。その時,警察は私のほうに関心を持っていたらしく,私は刑務所へ連れて行かれました。しかし,そこにいたのは,三日だけで長くはありませんでした。エホバに感謝しなければなりません。

警察署にいた時,私は自分の信仰について証言する優れた機会に恵まれました。そこには10人の警官が座っていましたが,どういうわけかその人たちは敵意を抱いてはいませんでした。私のことを共産主義に転向させられると考えていたのかもしれません。警官たちは,私が信じている事柄とその理由を尋ねました。彼らがその場に座って,一言も話さずに耳を傾けている様子を今でも思い起こすことができます。私はそのころ18歳ぐらいで,喜びにあふれて聖書からの真理を警官たちに話しました。

その後,警官たちは私を釈放し,こう言いました。「君にチャンスをあげよう。しかし,戸別伝道をしてはいけない。そして,週に2回我々のところに報告に来なさい。君のことを監視しているからね。もし何か間違ったことをしているのを見つけたら,ソ連行き,シベリア行きだぞ」。こう言った時警官たちは笑っていましたが,冗談だったとすれば,それは恐ろしい冗談でした。

1951年に,西ドイツのフランクフルトで大会を開く取り決めが設けられ,ものみの塔協会の会長がそこへ来ることになっている,という話を聞きました。私はどうしても出席したいと思いました。私たち12人ほどの小さなグループは,国境を越えるための手はずを注意深く整えました。しかし,西ドイツに入っても私たちの問題はなくなりませんでした。通貨事情のために,手持ちの東ドイツ・マルクは西ドイツではほとんど価値がありませんでした。そこで,フランクフルトまでヒッチハイクを試みなければなりませんでした。

トラックの運転手の中には私たちを乗せて行ってもよいと言う人もいましたが,それに乗るにはグループが大きすぎました。ところが,私たちがこの問題をおおっぴらに話し合っていた場所のすぐ近くに幾台かのバスが止まっていました。そのうちの1台から一人の男の人が降りて来て,私たちに目を向け,それからバスに戻って行きました。しばらくして,その人はバスからまた降りて,私たちに近づいて来ました。その人はこう言いました。「お話をうかがいました。あなた方はエホバの証人で,東ドイツからやって来て,フランクフルトでの大会に行きたいと思っているのですね。実は,私たちもエホバの証人です。私たちは皆フランクフルトへ行くところです。それで,皆さんが一緒に乗って行けるよう寄付を集めました」。

とても信じられませんでした! 兄弟たちが全員バスから降りて来て,私たちは抱き合って喜びました。国境を越える時に私たちが危険を冒したことを兄弟たちはよく知っていたので,フランクフルトまではもう少し人並の旅ができるよう助けてくれたのです。そしてフランクフルトに着きましたが,大会でも無料の食事と宿舎を提供されました。そして大会が終わると,国境まで戻るための列車の切符を与えられました。

しかし,間もなく友たちから,警察がまた私に目をつけているので注意するようにと警告されました。宣べ伝える業を行なっているのを見つけられたのです。私はシベリア行きのあの脅しを思い起こし,逃げるのが知恵の道だと思いました。そこで,1952年のある夏の朝3時に,東ベルリンで列車に乗り込み,西ベルリンまで国境を越えて短い旅をしました。数日間の形式的な手続きを経て,私は西ドイツに住むための許可を与えられました。エホバは今ひとつの危機を乗り越えるよう助けを与えてくださいました。

その後間もなく,米国へ移り住む機会が開け,私は1957年に米国に到着しました。1958年のヤンキー野球場での大会に出席するまでに,英語を学ぶ期間は丸1年ありました。長年,秘密裏に業を行なってきた後ですから,25万人余りの信仰の仲間と自由に交われるのはすばらしい経験でした。

姉と両親も結局東ドイツをあとにし,西ドイツに定住しました。両親はいずれも最後まで忠実を保って,その生涯を終えました。姉のヘルタはドイツで今でも活発なエホバの証人であり,私も米国で活発に奉仕しています。

私たちはこれまでの人生の中で,さまざまな経験をしてきましたが,その間ずっと,詩編 63編1節と7節にあるダビデの感動的な言葉に和することができました。「神よ,あなたはわたしの神です。わたしはあなたを捜し求めます。……あなたがわたしの助けとなってくださったからです。わたしはあなたの翼の陰で喜び叫びます」。―ハンス・ナウマンの語った経験。

[脚注]

a 「ものみの塔」誌1980年11月15日号の「私は“死の行進”を生き残った」という記事をご覧ください。

[19ページの拡大文]

姉と私がゲシュタポに無理やり連れて行かれたときの母の気持ちを想像してみてください

[20ページの拡大文]

「あなたのお父さんは聖書を読んでいたために強制収容所に送られたのよ」

[20ページの拡大文]

困難な年月の間,エホバが事態を巧みに動かしていてくださったことを悟るようになった

[21ページの拡大文]

母は飛び出して来て,10年ぶりに私を抱き締めた

[19ページの図版]

1937年に撮った,姉のヘルタと私と母の写真

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