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  • 「私はその人に6週間を与え,その人は私に真理をくれました」
  • 目ざめよ! 1983
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目ざめよ! 1983
目83 10/22 22–25ページ

「私はその人に6週間を与え,その人は私に真理をくれました」

私は米国テネシー州のプレザント・ビューにある小さな農場で育ちました。父は分益小作人でした。私たちは小さな家に住んでいましたから,ほとんどどんな標準から見ても,ひどく貧しいとみなされていたことでしょう。でも,遊び相手になる色々な家畜がたくさんいたので,学校の友達はみな,私が金持ちだと考えていました。私は子供なりに,たいへん満足していました。私はメソジスト派の信者として育てられました。メソジスト派の信者はたいへん自由な考えを持っていました。私もそうでした。みんなが天国へ行くつもりでいました。

私の記憶では,初めてエホバの証人に会ったのは,雪に降りこめられて教会に行けないでいた,ある日曜日の朝のことでした。一人のエホバの証人が私たちの家に来ました。母は忙しかったので私がその人の相手をさせられました。これはその人にとって興奮するほどのことではなかったでしょう。私はその時わずか7歳でしたから。それから3年後に,おばがエホバの証人になり,その後,母もエホバの証人になりました。

そのころには私は高校の最上級生になっていましたから,MYF,つまりメソジスト青年会のさまざまな活動に関係していました。そして色々な場所へ出かけました。そのような時に私は母から週に3回エホバの証人の集会に行くように言われました。それで妥協策として,日曜日にはメソジスト教会へ行き,火曜日と木曜日の夜はエホバの証人の集会へ行くということにしました。それまではエホバの証人に対して何の反感も抱いていなかったのに,その時から証人たちを嫌うようになりました。自分にはすばらしい前途があるのに,エホバの証人の集会へ行くことに時間を費やさなければならない! それでついに私は母に言いました。「こんなことをしてはいられないわ。わたし家を出ます。そして大学へ行きます」。

私は大学へ行きました。しかしおばのアーリーンのところへも行って,同居させてもらいました。おばはエホバの証人で,カリフォルニアに住んでいました。そのころおばの主人もエホバの証人になるところでした。それで私は,これは申し分のない理想的な環境とは言えないな,と心に思いました。でも,おば夫妻は私にしたいようにさせてくれました。私は大学へ行き,すべてが順調でした。依然として良いメソジスト教徒で,酒も飲まず,たばこも吸わず,汚ない言葉も口にしませんでした。そして自分のほうの色々な集会に出席し,万事が好調でした。私はまた大学で心理学の授業にも出るようになりました。無神論者によって行なわれるその“おもしろい”心理学の授業に出たのです! 彼らは一夏で,私が宗教に対して抱いていた信仰を粉砕してしまったのです。もっとも,知識に基づいた信仰はあまりもっていませんでしたが。

その時から私は,父母が過激派と考えていたものになりました。まだ事実上の過激派ではありませんでしたが,でもその道を進んでいました。母がカリフォルニアに出て来ました。私の進路について話し合う大会議が開かれました。私は会議の結果を心配していましたが,振り返ってみると,強情な私を母たちがいかに賢明に扱ったかが分かります。母たちは私がアパートで一人で暮らせるようにしてくれましたが,それで終わりというのではなくいつも連絡をとってくれました。私は母たちと完全に関係を絶ったのですが,母たちは決して私を勘当しようとはしませんでした。私がしたことを大目には見ませんでしたが,でも勘当するようなことはしなかったのです。そのために後ほど帰って来るのがとても楽でした。

ともかく私は独立し,本当にうまくやっている,と考えていました。私は大学生のデモに参加し,母はそのことに仰天しました。私はSDS ― 学生民主社会 ― のさまざまな派と関係を持つようになりました。それは非常に過激で,戦闘的で,革命的な組織でした。私は世界を変革し,世界の諸問題を解決するつもりでいたのです。後には暴動にも幾度か参加しました。といっても全国紙の大見出しをにぎわすような暴動ではなく,大声で叫んだり,投石したりする程度のものでした。警察官が二,三人負傷し,デモ隊の中の数人が打たれたかもしれませんが,彼らは1960年代初期のデモの特徴であった大勢で熱狂するタイプではありませんでした。

私はそうした事柄にすっかり熱中していましたが,やがて理想とは相入れない事柄が起き始めました。私の関係していたグループの一つが,地下室に入れてある機関銃とか手榴弾などの武器のことを私に話すようになりました。これが平和を求めて歩みを共にしてきたグループだったのです。そのグループが,「キャンパスを爆破しよう! 体制を覆そう!」などと言って,自分たちが反対している事柄を行なおうとしていたのです。建設的なものは何もなく,ただ破壊するのみで,気違いじみていました。目的のない革命でした。

私は両親からいつも命を尊重することを教えられてきました。家にも銃はありました。わたしたちはそれで子供にかみつく危険のあるアメリカまむしを撃ちました。鳥小屋に入り込んだイタチを撃ちました。また豚を撃ちました。豚をほふるのにそれが一番憐れみ深い方法だったからです。鳥や他の動物にしても,食べるため,または身を守るためでなければ撃ちませんでした。ですから農場では,いつも命を尊重して大きくなりました。

私は平和を愛していました。そして平和行進を行なっているものと思っていました。本当にそう思っていたのです。夜,学校で行なわれる話は,高潔な思想をりっぱに言い表わすものばかりでした。そうしているうちに銃や手榴弾のことを耳にしたのです! それで私は早速それらのグループから離れました。しかも思いきり遠く離れました。すべてのグループから離れ,すべての交わりをやめ,すべての結びつきを絶ちました。デートをしていた男性から結婚してくれと言われ,それは私が本当に望んでいたことではありませんでしたが,ともかく彼と結婚しました。ところが彼は3か月もたたないうちに軍隊に入ってしまったのです! 私と一緒に平和運動を行なっていたこの人が軍隊に入ったのです!

私はテネシー州に戻り,オースティン・ピー州立大学に入り,また色々な男性とデートをするようになりました。それは1971年のことでした。そのころ,軍人だった夫は,基地に来て一緒に住んで欲しいと言いました。それで私は尋ねました。「映画を見に行っていて,国歌が演奏され,国旗敬礼が行なわれる時に私が起立しないでいるとどんなことになりますか。あなたのGIの友達はみな私に対して何をするでしょうか。彼らが私に詰め寄る時,私が,ずっと前から政府に対する敬意をすっかり失っていると言ったらどんなことになりますか」。私はベトナム戦争にもいや気がさしていました。友達の中には,ベトナムで負傷し,頭の中に金属のプレートを入れたまま帰還した人たちもいました。私はどうしてよいか分からない気持ちでした。

事実,私はそういうことがいやでたまらなかったので,兄からライフルの弾を買うように頼まれた時にも断わったほどでした。兄が撃ち落とすものと言えば作物を食い荒らすホシムクドリぐらいのものでした。ウサギも撃ちましたがそれは家族が食べました。でもそのころの私はどんな種類の銃もすっかりいやになっていたので,兄のために弾を買うことさえしませんでした。

夫とのことは結局離婚に終わりました。私は夫から2カラットのダイヤモンドの美しい結婚指輪をもらっていました。でもそれを返しました。それを持っていたのはわずか3か月ばかりでした。夫はそれを後ほど子供に渡すか,あるいは母親に返したいと思うかもしれないと考えたからです。

私はナッシュビルに移転し,ある会社の副社長とデートを始めました。もしかしたら解決策は大企業にあるかもしれません。以前は平和運動を試みましたがそれは余りにも戦闘的だったので,「実業界に入ろう。それですべての問題が解決するかもしれない」と考えました。そのころ一人の刑事がぶらりとやって来ました。それで私はデートをしていたその副社長が盗品やコカインを売買していたことを知りました。その会社のもう一人の副社長は,この男に関する内部情報をすべて話すようにと私に詰め寄りました。それは会社内部の権力争いだったので,私はそんなものには巻き込まれたくないと思いました。ビジネスに対する興味も早々となくなってしまいました。

そのころ母は,私の優しい母は,エホバの証人の集会でレイ・ロイドとスージ・ロイドに目を付けていました。もしお母さんが教育のある証人を見つけたならその人と聖書を勉強してもいい,と私は皮肉たっぷりな冗談を言っていました。レイは講演を行ないました。母はそれに感動し,「娘と勉強していただけないでしょうか。ナッシュビルに住んでいるのですが」とレイに言いました。レイもナッシュビルに住んでいましたが,私のいた所からは街の向こう側になりました。母は,レイとスージがはるばるナッシュビルの街を突っ切って来て,私のトレーラーの中で私と勉強してくれることを知っていました。二人は確かにそれをしてくれたのです。二人は遠い道のりをやって来てくれました。でも私は全く関心を持っていなかったのです。かわいそうなほどに無関心だったのです!「やれやれ,面倒なことに巻き込まれてしまったのじゃあないかな」と独り言を言いました。ともかく私はスージから本を幾冊か求めました。それらの本の色は居間の飾りにはよくマッチしていました。そしてしばらくはそれだけのことでした。

私はトレーラーをプレザント・ビューに移し,不正を働いた例の副社長を調べていた刑事とデートを始めました。私にも道徳観念はありませんでしたが,この刑事は犯罪者の中でも最大級の犯罪者であることが分かりました。私が彼と一緒になって行なったことは大変な不法行為であり,野卑なことで,私が以前行なったどんな事柄よりも悪いことでした。しかも彼はナッシュビル警察の刑事で20年の経験を持つベテランだったのです。私は麻薬を使うようになっていました。当時,医師たちはマリファナもLSDや覚せい剤も無害だと言っていました。しかし,麻薬が効いている間に自分が行なった事柄を幾つか振り返ってみますと,身震いがします。

私には考えられる限りの薄気味悪い友人が幾人かいましたが,その中でも私がデートしていたこの刑事は最も薄気味の悪い人物でした。私は彼ら全部に,そして自分自身に全くいや気がさしてしまい,すべてのことをやめてしまいました。また,そのころ重い病気にかかり,医師から6週間静養するようにと言われました。私は全くのどん底状態にいました。

そんな時に私はスージ・ロイドを思い出しました。なぜだかどうしても分からないのですが,スージに電話をかけて聖書研究を頼まずにはいられない気持ちになりました。私は実際に電話をかけましたが,スージの電話番号は変わっていました。私は受話器を置き,自分に尋ねました。「どうしてあの人に電話などかける気になったのだろう」と。私は迷いました。スージに電話をかける理由などないのです。それでもかけました。また受話器を取り上げて新しい電話番号を見ながらダイヤルを回し,出し抜けに,「スージ,6週間あります。聖書を教えてくれますか」と言いました。

スージは聖書を教えてくれました。まず最初に教理を取り上げましたが,やがて範囲を広げて聖書の正確さや合理性,聖書が霊感によって書かれていることなどを教えてくれました。また,聖書に記されていることは真実であること,もし真実であるなら聖書が語る神は存在するに違いないことも教えてくれました。スージとの研究によって,神に対する信仰がよみがえったのは大きな成果でした。私たちは週に3度,一回に4時間研究をしました。そしてその後コーヒーを飲み,さらに2時間聖書について討論しました。2週間たつとスージは王国会館の集会に行くべきだと言ったので,私は集会にも行きました。

聖書と引き比べながら勉強していた1冊の本が終わり,約束の6週間は過ぎました。でもその時には私は研究を続けたいと思っていました。そのころは,私のトレーラーの中ではなく,スージの家で勉強をしていました。

それで私はスージに,「これで終わったのですね,スージ?」と言いました。

「そうですね」。

「このあとはどうするのですか」。私は証人たちが大抵もう1冊の本を研究するのを知っていました。母がそのことを私に話していたからです。私はスージがそのことを提案してくれるのを待っていました。そしてその提案を丁重に受け入れるつもりでいました。ところが彼女は言いました。

「6週間が終わりましたね。あとはあなた次第なんですよ」。

私はすっかりしょげてしまいました! そして弱々しく,「じゃあ,これでやめます」とつぶやくように言いました。

車で家に帰る途中,私はかつてなく惨めな気持ちになっていました。エホバの証人たちは頼むようにするもの,私に勉強を続けて欲しいと言うものと思い込んでいたのです! 私はいつも,勉強をしてあげているのだというふうに見ていました。でもその見方は外れました。私はとても悲しく,気落ちしてしまい,車を走らせながら泣きじゃくっていました。しかしふと,『こんなことをするなんてばかなこと。研究を続けよう。スージに電話をかけよう』と考えました。私は車を止め ― 真夜中に公衆電話を探すのは容易なことではありませんでしたが ― 電話ボックスを見つけ,スージに電話をしました。レイが電話に出てスージを風呂から呼び出しました。私はすすり泣きをしながら,どうしても勉強したい旨をスージに話しました。

それから2か月後に私はバプテスマを受けました。トレーラーを売り,借金を返し,そしてカリフォルニアで開かれたエホバの証人の国際大会に出席しました。その大会で私はバプテスマを受けたのです。バプテスマを受けた翌日から私は家から家に宣べ伝える業を全時間行なうようになりました。世俗の仕事を持っていましたが,最初の月には150時間宣べ伝える業を行ない,次の月には140時間行ないました。少し速度を落とすようにと助言されて,3か月目には100時間奉仕しただけでした。それから間もなく仕事をやめ,エホバの王国を他の人々に告げることに努力を集中しました。

テネシー州に戻ってから,やはりエホバの証人であるゲアリー・ホブソンに会い,数か月後に私たちは結婚しました。1976年のことでした。私たちは一緒に全時間の伝道奉仕を始め,その後の7年間は,私の生涯の中の最も幸福な時でした。私たちは今も,エホバの王国をふれ告げることに全時間をささげて奉仕しています。―寄稿,キャシー・ホブソン。

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「その“おもしろい”心理学の授業……は一夏で,私が宗教に対して抱いていた信仰を粉砕してしまったのです」

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「私は……平和行進を行なっているものと思っていました。……そうしているうちに銃や手榴弾のことを耳にしたのです!」

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「私と一緒に平和運動を行なっていたこの人が軍隊に入ったのです!」

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「少し速度を落とすようにと助言されて,3か月目には100時間奉仕しただけでした」

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