ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目84 1/8 6–8ページ
  • 今日の娯楽に見られる道徳のゆがみ

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 今日の娯楽に見られる道徳のゆがみ
  • 目ざめよ! 1984
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 麻薬,流血
  • ビデオ・ロックの暴力
  • ポルノ
  • ポルノ ― 無害? それとも有害?
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2013
  • ポルノにはどんな害があるのだろうか
    目ざめよ! 1983
  • 春画の問題
    目ざめよ! 1971
  • ポルノはなぜこれほど広まっているか
    目ざめよ! 2003
もっと見る
目ざめよ! 1984
目84 1/8 6–8ページ

今日の娯楽に見られる道徳のゆがみ

「優れた作家たちも,かつてはもっと良い言葉を知っていたのに

今では卑わい語しか用いずに

散文を書く……

どんなことでも許される。

今の世界は狂っている

そして今,善は悪である

そして今,黒は白である

そして今,昼は夜である……

どんなことでも許される」― アメリカの作詞家コール・ポーターによる詞,1934年。

「善は悪である,悪は善である,

と言っている者たち,

闇を光,光を闇としている者たち……は災いだ!」

― イスラエル人の預言者イザヤの言葉,西暦前732年。―イザヤ 5:20。

上に掲げた二つの引用文の間には26世紀以上の隔たりがあります。これらはそれぞれ異なった目的のために書かれました。一方はブロードウェイの観客を楽しませるために,もう一方は古代ユダの住民の不法な行ないを糾明するためです。しかし,どちらもわたしたちの時代と関係があります。正邪の概念が絶えず変わってゆく今日,一見「どんなことでも許される」かに見えます。

娯楽に見られるゆがみほどこの点をはっきり示しているものはないでしょう。娯楽は文化の一部であり,文化とは一つの社会が学び取った特徴的な行動の仕方,考え方,感じ方のことです。それは人々の生き方全体です。ですから,社会の道徳観はその文化を通して見ることができます。

今世紀になって映画やテレビほど成長した,あるいは人気を博して影響力を行使した芸術はほかにないでしょう。中には映画は実生活を映し出しているのだという人もいます。しかし同時に,映画スターが現代の民衆の英雄であるために,映画は新しい道徳習慣を増幅し,それに認可を与え,それを認められたものとします。映画産業は人を操るこの強大な力に気づいています。映画産業の「製作規定」は,「娯楽は人類にとって有用な性質のものとも有害な性質のものともなり得る」と述べています。現代の娯楽は世界の道徳と人類が向かっている方向について何を物語っているでしょうか。

1939年にアカデミー賞を獲得した映画,「風と共に去りぬ」の中で用いられた卑わい語一語は,多くの人に衝撃を与えました。今日,その同じ言葉は少しの波紋も引き起こさないでしょう。娯楽はほんの数十年の間に,たわいない家族の楽しみから“成人用”へと大きく変化しました。中にはこの甚だしいゆがみを罪のない現実逃避として正当化する人もいます。しかし,本当にそうでしょうか。事実を言えば,三つの事柄のために,現代の娯楽の大半から,わずかばかり残っていたかもしれない道徳的な価値が全くぬぐい去られてしまったのです。その三つの事柄とは,不法な麻薬,過度の暴力,そしてあからさまな性です。

麻薬,流血

過去数十年の間連続メロドラマはラジオやテレビで毎日のように放送されてきました。今では“麻薬ドラマ”があります。舞台でも,映画のスクリーンでも,テレビでも,不法な麻薬が社会の主流に大幅に流れ込んでいることを正常な事柄,日常生活の一部として描き出しています。禁制の麻薬を使用したり密売したりする人が自動的に敗北者,変質者,悪者と見られることはもはやなくなりました。むしろ,大抵の場合に英雄,勝利者,スター,老若共に見倣うべき人物とされているのです。しかも,そのショーの製作者はこの変化の責任を一般大衆に転嫁し,『我々は人々の望むものを与えているのだ!』と叫びます。

芸能界は“流血ドラマ”にもふけっています。暴力がこれほどあからさまで人を無感覚にさせたことは映画史上かつてありません。文字通りの流血の大虐殺が映画の観客の目の前に映し出されます。電動のこぎりが肢体をばらばらにし,ドリルが犠牲者の頭に穴を開け,血が吹き出します。肢体を食べる人肉嗜食の音が聞こえてきます。この不快な虐殺は大抵の場合に何らかの形の性愛を扱った状況と混ぜ合わされています。こうした情景やそれ以上に胸を悪くさせるような情景が,大勢の人々が娯楽に期待する事柄の重要な部分となっているのです。

今日,人々はこの種の恐怖映画を見るために人目を忍んで映画館に入って行く必要はありません。ホーム・ビデオの装置があれば,そのフィルムを借りたり自分用のものを買ったりすることができます。あるビデオ・フィルムは,「強姦と虐殺の92分」と銘打って広告されていました。品性を落とすそのような暴力的な映画の市場は急速に広まっています。例えば,英国のあるビデオ業界誌は,犠牲者が切り刻まれて殺される新作のビデオ恐怖映画,あるいは“気持ちの悪い映画”の一つに対する評論を載せた後に,「どの取り扱い業者にも絶対必要。これはそれほど長いこと棚に残ることはないだろう」と予告しました。

こうした“流血ドラマ”を定期的に見ている人は,ごくありふれた日常茶飯の暴力に満たされているのが正常な生活だという結論以外に,人生についてどんな結論を出せるでしょうか。現実の世界における暴力がより多くの人々により一層受け入れられるようになってきているとしても何の不思議もないのではありませんか。一言で言えば,この種の娯楽は暴力ポルノなのです。

ビデオ・ロックの暴力

今では,特に米国で,“ビデオ・ロック・ドラマ”があります。有線テレビの加入者が,すさまじいビートのハード・ロック音楽を聞くだけでなく,それに伴う暴力行為をも見ることのできるような都市が多くなってきています。ビデオ・ロックはビデオ・カセットの形で購入することも,ロック・クラブの大きなスクリーンの上で見ることもできます。

自分の見たビデオ・ロック音楽の番組にあぜんとした一人の視聴者は,ウォール・ストリート・ジャーナル紙上でその番組のことを「これまで見た中で最も下劣で,最も胸を悪くさせるサディズムの演技」と描写しています。同紙の記事はこう続いています。「ロックの曲の間には短い場面がそう入される。ネズミの死がいを無理やり食べさせられながらヒステリックに叫んでいる女性の登場する場面などはその一つである」。視聴者で苦情を申し立てる人はほとんどいません。

音楽は人の感情を揺り動かすことができるので,この新しい形態のロック音楽は人生に対するゆがんだ見方を強化する可能性を秘めています。なぜでしょうか。なぜなら聴覚と視覚という人間の感覚の二つが直接関係しているからです。音楽を聴く時,聞く人はその音楽の意味に関する自分個人のイメージを脳裏に描きます。音楽とビデオを結び合わせることにより,人は自分の想像力を失いほかのだれか,つまりそのビデオ・ロックを製作した人の道徳規準を取り入れているのです。ニューズウィーク誌はこう論評しています。「音楽の顕著な長所の一つは,深い,言葉では言い表わせない感覚を喚起する力であり,その効果は聞く度に異なる。ビデオは聞く人の空想がどんなものになるかを定め,歌が歌われる度にそれをスクリーンにはっきりと描き出す」。

ポルノ

別の形のさもしい刺激は“セックス・ドラマ”です。ポルノは新しいものではありませんが,それを公の目にさらすようになったのは最近のことです。一般の人々の目からポルノを隠していた壁は,1960年代にデンマークがあらゆる種類のポルノを合法化する最初の国となって以来崩れてゆきました。それ以降,病原菌の侵入した潰瘍からにじみ出るうみのように,ポルノはその醜い汚点を世界中にまき散らしてきました。

ポルノが,もうけが大きいとはいえ依然として隠れた産業になっている国もありますが,若者をも含めすべての人の前にポルノがあくどいほど公にさらされている国もあります。あからさまで堕落した性の場面が小説の中で読まれ,雑誌やテレビや映画の中で見られるようになっており,その増加率は爆発的なものとなっています。人々は成人向け映画を上映する映画館に,糞の山に群がるハエのようにしばしば群がり集まって来ます。

例えば,スペインの新聞売店には性愛を扱った出版物がたくさん集められています。そして同国の新聞の中には,「悪魔の作かと思われる,セックスと堕落と奇行の映画」というようなポルノの広告を載せているものもあります。英国では,デーリー・テレグラフ紙が,「事実を言えば,ポルノショップは現代英国におけるほぼ唯一の成長産業となっている」と伝えています。また日本では,「ポルノ産業は着実に増加しており,いよいよ毒々しいサービスを提供している」と,英文毎日は伝えています。昨年,米国だけでも,ポルノは推定70億㌦(約1兆6,800億円)の総収益を上げました。

ポルノが栄えるのはなぜでしょうか。古くからある需要と供給の法則のためです。週刊マンチェスター・ガーディアン誌が伝えるように,フランスの元ポルノ映画スターは一つの答えを指摘して,「どんなに平凡なものでもポルノに将来があるのは,需要がそこにあるからだ」と語りました。そして今では,ポルノ映画を上映する映画館へ行くのを見られるのはきまりが悪いと考えていた客が,他人に干渉されない自宅でビデオ・カセットを使い,熱心な観客になっています。このように,需要が供給を正当化しているように見えます。

性の退廃は幼児から十代の若者までの年少者たちをさえわなに陥れています。「生後わずか8か月の幼児に対する性行為までが,増大する子供ものポルノの下位文化の要求を満たす秘密業者によって映画や写真にされている」と,ニューヨーク・デーリー・ニューズ紙は伝えています。その同じ新聞は,米国で「年に推定5万人の子供たちが行方不明になり,どこへ消えたか分からなくなる」ことを付け加えています。その中には,いや応なく性的な面で利用されたりポルノへと追い込まれたりする子供が少なくありません。ポルノのフィルムはスカンジナビア諸国へ送られて焼き付けされ,増加の一途をたどる倒錯者の,身の毛もよだつような趣味を満足させるために世界中にばらまかれます。

ですから,大人あるいは子供の間のどぎつい性描写をしたものであろうと,暴力を描いたものであろうと,娯楽は「悪」を,つまり堕落したものを,「善」つまり受け入れられるもののように見せています。

このような腐敗をもたらす影響力がこの事物の体制の土台をむしばんでいるのであれば,この体制は生き延びることができるでしょうか。「人はその懐に火をかき集めておいて,なおその衣を焼かれないようにすることができるだろうか」。(箴言 6:27)今日の道徳は,この世界をどんなところにしてしまうのでしょうか。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする