「私の体にはカントリー・ミュージックの血が流れています」
山々には雪がありました。雪はたくさん積もっていました。道路はふさがれ,食糧は底をついてきていました。父は人々を愛していたので,私たちの手持ちの供給物資を4頭の荷馬に積みました。その険しい地形の地理に明るかったため,父は大小さまざまな川を懸命に進み,困っている人々に食物を運ぶことができました。
これは50年以上も昔の話です。私たちはやがてウェストバージニア州を後にしましたが,人々に対する父の関心は今に至るまで私の中に残っています。父は人々への愛のほかにもう一つ,私が“心のふるさと”の音楽と呼ぶもの,つまり,自然の美や健全な家族生活や積極的な価値観を称揚するカントリー・ミュージックへの愛を植えつけてくれました。
バンジョーを鳴らすのは父で,歌うのは母でした。川のせせらぎと,谷間にこだまする山岳地帯の人々の演奏や歌に耳を傾けながら夕方に山道を下った時のことが幾度となく思い出されます。世界はもっと多くの“心のふるさと”の音楽を必要としているのだ,と私は常に考えてきました。そして人生の早い時期に私はそれを人々に提供し始めました。
第一歩を踏み出す
ウェストバージニア州からペンシルバニア州に引っ越して間もなく,ギターの演奏を始めました。既に学生時代に最初の演奏グループを結成し,十代後半の青少年向けに学校の行事やバザーで演奏しました。程なくして,音楽には人を幸福にする力があるということがはっきり分かってきました。
それから第二次世界大戦となりました。出征して人を殺すことは,父から教え込まれた,人々に対する愛と全く調和しません。豚を飼育していたおかげで最初は徴兵を延期されましたが,後に徴兵されて歩兵部隊に配属されました。ある晩のこと,演習中に高さ9㍍のつり橋から落ち,足を7か所骨折しました。その傷が快方に向かう間,私は軍人たちからなる小編成のグループで演奏を続けました。
除隊になってから,一流のカントリー・アンド・ウエスタンのグループを結成することに取りかかりました。ビルボード誌に広告を出したところ,津々浦々から演奏家たちが集まり,パイン・ホロー・ジャンボリーが結成されました。まずはラジオから始め,やがて米国東部とカナダで舞台に立つようになりました。私たちの旅行する地域に,17の放送局を結ぶネットワークが張りめぐらされました。
次いでペンシルバニア州に私のヒルビリー・パークができ,そこで,カントリー・ミュージックの世界で非常に有名な演奏家たちが数多くゲスト・スターとして出てくれました。私はそのショーの司会を務め,パイン・ホロー・ジャンボリーの35名という大勢のキャストがそのショーを支援してくれました。それは商売ではありましたが,幾千人もの人々が毎週公園にピクニックにやって来て“心のふるさと”のカントリー・ミュージックを生で堪能する様を見るのはとても楽しいことでした。
ロックンロール
カントリー・ミュージックは順調に進むかに見えましたが,そこへロックンロールが登場したのです。私がロック音楽と最初に出会ったのは,クリーブランドの円形劇場で行なわれたショーの司会をしている時です。プロデューサーがかんかんになって楽屋へ飛び込んで来ました。聴衆はあわてふためいていました。ステージの歌手に退屈し切っていた人もいれば,その歌手の体の動きにショックを受けた人もいました。いや気がさしてそこを出た人も大勢いました。エルビス・プレスリーという名のその新しい若い歌手をステージから下ろし,次の出し物を出すのは,しかもそれをすぐさま行なうのは,司会者である私の仕事でした。
「あんな若僧,大物にはなるまい」と私は考えました。もちろんそれは当たっていませんでした。発声の訓練を受けた後のプレスリーは,ほかのだれよりもロックンロールの発展に貢献したと言っても過言ではないでしょう。同時に,この人はカントリー・ミュージックにも多大の影響を及ぼしたと思います。現代のカントリー・ミュージックの多くは,伝統的なものから離れ,ロックに向かっています。そのおかげでカントリー・ミュージックとロック双方のファンを得ましたが,そのために支払った代価は大きなものでした。
ロック音楽の嵐が国中を吹き荒れていた間,私はずっとカントリー・ミュージックの振興に忙しく携わっていました。ナッシュビルの興行師から,カントリー・ウエスタンのスターであるジミー・ウェイクリーと一緒に巡業してくれないかと,頼まれました。米国東部をほぼ網羅してから最後にハリウッドに立ち寄り,そこで私は数本の映画に出演しました。
何かが欠けていた
ハリウッドでの私の生活は順調でした。申し分のない人々と会い,申し分のない場所へ行き,新進のスターが行なっているべきことすべてを行なっていました。でも,何かが欠けていたのです。そこから生み出される虚飾にすぎない華麗さには,山道をはだしで下りて来る少年に相当する基本的な実質が欠けていました。自分はその少年のような存在であると私は常々考えています。私は故郷のペンシルバニア州へ戻りました。
あるレコード会社から,「エルフィー・ザ・エルフ」という楽しい歌をレコーディングしないかとの誘いがかかりました。これはすぐに大当たりし,七つのレコード製造会社で取り組んでも売れ行きに追いついていけませんでした。最初のレコードが人気を博したため,その後の私のレコードの売り上げ枚数はすぐに高い数字に達しました。
レコードで有名になると地方巡業がどうしても多くなります。しかし私たちが演奏していた歌で思い起こすのは,はるかかなたにいる献身的な妻のことでした。妻のいる家に帰りたいという思いが私の心の琴線をかき鳴らしました。生活に立ち向かうためにしばしば演奏家たちはアルコール飲料や麻薬に頼ります。私は家へ帰りました。
欠けていたものを見いだす
1969年に私たちはフロリダ州へ移転し,フロリダ州中部の平地で,人々や山々や音楽に対して私が抱いていた本能的な愛の何たるかを見いだしました。
それは1970年のクリスマスの日のことでしたが,私たちは教会から帰ってきたところでした。ドアをノックする音がしたので開けてみると,正直そうな顔つきの,率直な話し方をする男の人がそこに立っていたのです。その人のことを私は決して忘れません。私たちは色々なことを話し,その人は私が知らなかった多くの事柄を聖書から示してくれましたが,その人が話したどんな事柄よりも印象的だったのは,私に示してくれた明らかな関心でした。
その人は帰る前に,近くの王国会館に来るようにと招待してくれました。集会はその日の数時間後にあると言うのです。私は行ってみました。聖書の講話は興味深いものでしたが,私の注意をとらえたのは,その後に行なわれた聖書の話題に関するだれでも参加できる討議でした。
米国をさいなむ人種問題がそこでは全く見られませんでした。黒人も白人も,老いも若きも,あらゆる階層の人々が,心から何かを分かち合うことに熱心だったのです。「これこそあるべき姿だ!」と私は内心思いました。
集会後に私は歓迎ぜめにあいました。私を招待してくれた男の人は,エホバの証人は喜んであなたと家で聖書の勉強をします,と言いました。「いつから始められますか」と私が答えました。その勉強は翌日の晩から始まりました。
2週間後そのエホバの証人は,自分と一緒にほかの人を訪問しようと招待してくれました。その時以来私は,事態が改善されるという聖書の希望を分かち与えてきました。
妥協させようとする圧力
私がフロリダ州へ移ったのは,結局,音楽への関心を満足させるパートタイムの仕事を何か見つけるためでした。私は,色々なクラブで週に二晩か三晩演奏する寄席芸人のバンドに流れつきました。気がつかなかったことですが,現代の音楽における変化は,私が学んでいた聖書の原則と真っ向から衝突する方向にあったのです。
クラブのショーを司会するためには,セックス中心のきわどい冗談や話をすることがしばしば必要になります。客の酒が進むと,彼らの思考は鈍くなり,その結果一層恥ずかしげもない話を求めるようになります。私はそんなことは決してしませんでした。自分の規準を曲げようとしなかったために,職を得る面で問題が生じ始めました。
カントリー・ミュージックがロックのメロディーへと傾いていても,それは私にとって大した問題とはなりませんでした。カントリー・ミュージックの歌手は,自分の純粋なカントリー風の歌い方に合わせてメロディーを変えることができます。私はそうしました。しかし歌詞を変えることだけはできませんでした。
伝統的なカントリー・ミュージックの歌詞が,愛情の三角関係のような事を扱う傾向もたまにありました。メロディーがロック風になったため,現代のカントリー・ミュージックの歌詞は,みだらな行ないをいっそう露骨に描写するような,ひときわ俗悪なものになってゆきました。大衆から,特にクラブで求められるのは,大抵の場合,そのような歌です。
私はどうしたらよいのでしょうか。私の人生全体は音楽を通して自分自身を表現することにかかっていました。ところが,人々の聞きたがる音楽は,道徳的で上品だと私が考えるものすべてを攻撃していたのです。
聖書研究を始めて間もないころ,あるクラブのショーで仕事をしていた時に危機が訪れました。歌っている間,聴衆はダンスをしたり,テーブルの所に座って話したり食べたり飲んだりしていました。その時,飲み過ぎていたとしか思えない一人の女が,上半身裸になり,不道徳な歌詞のついた現代のカントリー・ミュージックを演奏して欲しいと私たちに頼んだのです。
もう我慢できませんでした。『こんな所で自分は一体何をしているんだ。新しく得られたクリスチャンの友達はどう思うだろうか』と私は自問しました。私の道徳規準と聖書の原則を曲げさせようとするこの最後の圧力のために,私はその晩限りカントリー・ミュージックを職業にすることをやめました。
健全な音楽を人々のために歌う
私にとって音楽は単なるぜいたくな生活をはるかに上回る意味を持っていました。私の体の中には音楽の血が流れていたのです。ですから,それを完全にやめるのは不可能に近いことだったでしょう。完全にはやめませんでした。自分の属する会衆の成員のピクニックの時に,一人がバイオリン,一人がギター,といった具合に楽器を持って来ました。私もそれに加わり,すべてが再び一から始まりました。私たちは,仲間のクリスチャンたちの結婚式や親睦の集まりなどで演奏します。経済的な報酬はありませんが,健全な楽しみと,音楽を通じて自分を表現できるこの機会により,私は十分報われていると感じます。
私にとって多くのことを意味していたカントリー・アンド・ウエスタンという音楽の分野は,生活を豊かにする基本,つまり自然環境への愛や,家庭の取り決めへの愛着や,これらのものが提供する思いの平安といったものを扱ってきました。ある秋の日のこと,ペンシルバニア州のまばゆく彩られた丘を車で走っていた時,新しい考えが“稲妻のように”ひらめきました。私の“心のふるさと”の感情は,学び始めた聖書の真理と直接つながっているのです。
愛すべき土地,そして顧みるべき土地を人間に与えてくださったのはエホバ神です。エホバは,わずか一つの谷だけを平和な状態に戻すことではなく全地を美しい楽園に戻すことを意図しておられます。エホバは常に結婚における貞節を求めておられ,神が造られる新しい体制内でもそれを要求されます。それはすべて納得のゆくことでした。それこそ“心のふるさと”の意味するところでした。
長年の間に,私は健全な音楽が戦争や経済的な苦境や家族の崩壊に直面した人々の気持ちを高める上でいかに力があるかを見てきました。しかし音楽が与える楽しみというのは,精々一時的な慰めにすぎません。
エホバの証人の一人として聖書の原則や希望を隣人に分かち与えるなら,より多くの事柄を成し遂げることができます。またそうあるべきです。歌詞ともいうべきその言葉は完全ですし,その歌は,何かを切望してやまないすべての心に触れる力を持つ歌です。そしてそれは,人を永遠に高めることができる思いの平安を与えてくれるのです。―ウッディー・ウッデルの語った経験。