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  • どうすればほかの生徒たちにいじめられないですむか
  • 目ざめよ! 1984
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目ざめよ! 1984
目84 5/22 21–23ページ

若い人は尋ねる…

どうすればほかの生徒たちにいじめられないですむか

少年の歩き方がすべてを語っています。緊張していて自信がなく,新しい環境に戸惑っていることが一目で分かります。それで上級生たちはその新参者の少年に目を付けます。一群の少女がさっとその少年を取り囲み,卑わいな言葉で悪口を浴びせかけ,彼女ら特有の“入学式”を執り行ないます。少年は顔を耳まで真っ赤にして一番近い逃れ場,つまりトイレに逃げこみます。笑い声が壁に響きます。

これは多くの学校でかなりよく見られる光景です。いやがらせをしたり,からかったり,侮辱したりするなど,ひどいことをして時間をつぶす若者が少なくありません。ある若者は,「ほかの子たちが僕を見つけて笑い始めると,死にたくなる」と言いました。

ソロモンはかつて,「剣で突き刺すかのように無思慮に話す者がいる」と言いました。(箴言 12:18)同年配の仲間たちが浴びせる悪口雑言は,鋭い剣のように人の自信をずたずたに切り裂きます。そしてその影響はいつまでも残ることがあります。『学校に通っていた時,私ははっきり物を言うことができなかったので多くの人に笑われました。それで私は内気になり,人前で話すことを恐れるようになりました』と,ある人は学校時代を思い出して語りました。受けた嘲笑は今日に至るまでその人に影響を及ぼしています。

ですからある若者は,『どうすればあの子たちにほおっておいてもらえるだろうか』と考えるかもしれません。それにはまず彼らが人をからかう理由を考えてみるべきでしょう。

彼らがそうする理由

聖書の箴言 14章13節には,「笑っていても,心の痛むことがある』とあります。若者たちのグループは,だれかに対していやがらせをする時に爆笑します。しかし,「心の良い状態のゆえに喜び叫ぶ」のではありません。(イザヤ 65:14)その笑いは心の中の不安をカモフラージュするためだけのものである場合が少なくありません。人をいじめる者たちは,虚勢を張っていてもその実,『何もこんな自分たちが良いと思っている訳ではないが,だれかをけなすと少しは気持ちがよくなる』と言っているのかもしれません。

教師のエドワード・C・マーチンは,「女生徒たちのあるグループが,2週間にわたり,一人の女生徒に対して,教室の中や外でいやがらせをしていた」のを思い起こしました。ねらわれた少女は「文字通りおびえていました」。「その子に目をつけたグループにとって,けんかを売るようなその態度はグループの一致と仲間意識の源だったのである。その女生徒たちは相手と対決する時や,相手を巧妙な方法でからかう時を楽しんだ。敵をあざける,より面白い方法を考え出すことにそれぞれがが誇りを持ち,またそれによってグループの称賛を得た」と,マーチンは語りました。みんなと一緒になってそのように人をからかっていたシェリーという名の女生徒も,「わたしたちはそうするのが“ナウ”なことだと思っていたのです。……そういうことをするとお互いに対して親しみがわくような,仲間なのだというような気持ちになるのです」と言いました。

ねたみも攻撃の引き金になります。聖書にはヨセフという名前の十代の若者のことが述べられています。ヨセフの兄弟たちは,ヨセフが父親のお気に入りというだけの理由で,ヨセフに敵意を抱くようになりました。激しいねたみにかられた彼らは,言葉による侮辱を加えただけでなく,殺人をもくろむまでになりました!(創世記 37:4,11,20)今日でも同じように,ずば抜けて頭のいい生徒や,先生方から好かれる生徒は仲間のねたみを買うかもしれません。侮辱は“相手を分相応なところまで引き下げる”という訳です。

ですから人を嘲笑する原因は,多くの場合,不安感やねたみ,自尊心のなさなどにあります。では,精神の不安定な一部の若者たちが自尊心をなくしたからといって,どうしてあなたが自尊心を失わねばならないのでしょうか。

いやがらせをやめさせる

「幸いなるかな……あざける者の座にすわらなかった人は」と,詩編作者は述べています。(詩編 1:1)自分自身から注意をそらすために人をあざけることに加わるのは,侮辱の悪循環を長びかせているにすぎません。

しかしソロモンは有益な事柄を提案しています。「自分の霊にせき立てられて腹を立ててはならない。腹立ちは愚鈍な者たちの胸に宿るからである」― 伝道の書 7:9。

そうです,からかわれてもそれをひどく深刻に受け取ることはありません。結局のところ,実際には悪意の無い場合がほとんどです。それで,もしだれかがたわいない気持ちで ― あるいはたわいないとは言えない態度で ― あなたをからかい,あなたが気にしている点に触れたとしても,落胆することはありません。言われたことが卑わいな事柄でなければ,その中にユーモアを見いだすようにすることです。「笑うのに時が」あります。ですから,冗談半分にからかわれて腹を立てるのは,行き過ぎかもしれません。―伝道の書 3:4。

しかし,それが冗談でない場合はどうでしょうか。体育の時間やロッカー室の中で,だれかが皮肉たっぷりに,あなたの体格のことを取り上げてからかうかもしれません。にきびに悩まされている女の子なら,気にしているそのことを指摘して面白がる人がいるかもしれません。ユーモアのセンスのあることを示すのは言うほど易しくないかもしれません。というのは,人は自然の反応として,批判されると守勢を取るからです。ですからマニュエル・J・スミス博士は,「どんな批判も否定しない(つまりやり返さない)ように,守勢を取らないように,反撃を加えないようにと[人々に]教える」と言っています。あざける者たちは,相手の反応や,相手が惨めな気持ちになるのを見て大いに楽しもうという考えです。こちらが痛烈な言葉でやり返したり,守勢を取ったり,わっと泣き出したりすると,あざける者はいい気になっていやがらせを続けるかもしれません。

作家のキャスリーン・マッコーイは,キャロルという名前の十代の少女のことを述べています。キャロルは非常に背が高くて太っていたために,絶えずいやなことを言われていました。それで母親はキャロルに,「こちらが人の行動を変えさせるわけにはいかないわね。それならそういう子たちを振り切る方法を何か考えられるかしら?」と尋ねました。キャロルは,「こちらが腹を立てて相手に満足感を与えないことかしら」と答えました。ほかの若者たちも同様に,平静な態度であざける者たちを無視し,侮辱的な言葉をかわしてきました。

ソロモン王はさらにこう述べています。「また,人々が話すかもしれないすべての言葉に心を向けてはならない[「人々が話す事柄すべてに注意を向けてはならない」― 今日の英語聖書]。あなたの僕があなたの上に災いを呼び求めているのを聞かないためである。あなたの心は,あなた自身も幾度となく他の者たちの上に災いを呼び求めたことを知っているからである」。(伝道の書 7:21,22)あざける者たちの辛らつな言葉に『心を向ける』ことは,自分に対する彼らの評価を心配しすぎていることになります。彼らの評価は正当なものですか。パウロはねたみにかられた仲間たちの公正を欠いた攻撃を受けましたが,「さて,わたしにとって,あなた方に,あるいは人間の審判の場で調べられることは,ごくささいな事柄です。……わたしを調べる方はエホバなのです」と答えました。(コリント第一 4:3,4)パウロと神との関係は非常に強固なものであったために,パウロは公平を欠いた攻撃に耐える自信と自尊心を持っていました。

「逆らいのことば」に耐える

時には,クリスチャンとしての生き方をしているために,ばかにされることがあるかもしれません。イエス・キリストご自身もそのような「逆らいのことば」に耐えなければなりませんでした。(ヘブライ 12:3)その逆らいのことばには,意地の悪い,人の自尊心を傷つける侮辱的な言葉も含まれていましたが,イエスは侮辱に対して侮辱を返すようなことをされませんでした。(ペテロ第一 2:22,23)山上の垂訓の中で説かれた事柄,つまり『他のほほをも向ける』ことを自ら実践されました。―マタイ 5:38-42。

あなたも,あざけりに耐え,あざけりを無視することが必要かもしれません。しかし,他の人たちを絶えず批判したり,自分のほうが優れていると考えているような印象を与えたりして相手に敵意を抱かせないようにしなければなりません。自分の信仰について話す機会が訪れた時には,それを話すのは良いことですが,「温和な気持ちと深い敬意をもって」行ないます。(ペテロ第一 3:15)行状がりっぱだという評判は,在学中の一番大きな保護になるかもしれません。ほかの若者たちはあなたの勇気ある態度が気に入らないとしても,そのために仕方なしに尊敬する場合が少なくありません。

バネサという名前のクリスチャンの少女は,ある少女たちのグループにいやがらせをされていました。そのグループはバネサをたたいたり,こづき回したり,手に持っている本をたたき落としたりしました。けんかを売ろうとしていた訳です。チョコレート・ミルクセーキを頭から掛けてきれいな白いドレスを汚してしまったことさえありました。それでもバネサは決してその挑発にのりませんでした。ところが何か月かたってバネサは,エホバの証人の大会でそのグループの女番長に会ったのです! 以前のそのつっぱり屋は,「あなたの勇気が憎らしかった。一度でいいから冷静さを失うところを見たかった」と言いました。しかし,バネサが落ち着きを失わないことに好奇心を持ち,エホバの証人と聖書研究をしてみる気になりました。「学んだことがすっかり好きになってしまったので,明日バプテスマを受けます」と,彼女は言いました。

ですから「逆らいのことば」に気を落とさないことです。適当なところではユーモアのセンスを示しましょう。悪に対しては親切をもって答えることです。争いに油を注がないようにしていれば,そのうちにあなたをいじめる者たちは,あなたを嘲笑の的にすることに興味を失ってくるでしょう。「まきがなければ火は消え(る)」からです。―箴言 26:20。

[22ページの図版]

あざける者たちは相手が惨めな気持ちになるのを見て大いに楽しもうという考えである。痛烈な言葉でやり返したり,わっと泣き出したりするとかえっていい気になって,いやがらせを続けるかもしれない

[23ページの図版]

多くの場合,言葉による攻撃を退ける一番良い方法は,その攻撃を無視すること

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