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  • 非暴力は世界中で現実のものとなりますか
  • 目ざめよ! 1984
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目ざめよ! 1984
目84 7/8 9–12ページ

非暴力は世界中で現実のものとなりますか

「人生は単に生き延びるかどうかの問題ですね」。一人の女性はボンベイへ向かってスピードを速める満員の列車の中でそう言いました。その人は,容赦なく降る雨期の雨につかった貧民街が幾キロも続いて美観がすっかり損なわれた景色をながめていました。「近ごろの人々は価値観というものを持っていません。だれも自分以外の人のことは考えなくなっています。伝統的な価値観でさえ,その影響力を失ってきています」とその女性は言葉を続けました。

この女性の観察は,定まった倫理的価値観の体系を何ら持たずに存在している無数の人々の生活を反映していました。貧富の別を問わず,そうした人々は受け継いだ道徳律をさえ,現代の生活には役立たないとか現代の生活をあまりにも拘束しすぎるとして,退けたり放棄したりしています。そうした人々は,自己の法則,つまり自分が生き延びることと自己満足とをもってそのような道徳律に代えています。

安定をもたらす価値観が全くないために,苦もんや怒りを味わうようになった人は少なくありません。暴力のあふれる世にあって,自己防衛はごく普通の戦術となっています。そして,大勢の人々が『攻撃は最大の防御』と信じているために,暴力は,言葉によるものであれ腕力によるものであれやはり暴力を生み出します。

『危険に満ちた時代』

全人類の創造者はこのような時代,つまり人々が神から与えられた価値観を退け,そのためにもがき苦しむ時代が来ることを予見しておられました。その結果は,2,000年近く前に言い表わされた知恵の言葉の中で,わたしたちのために明らかにされています。「しかしあなたは,終わりの日に,その時代が危険に満ちたものとなることを認識しなければなりません。人々は全く自己本位になり,金銭に貪欲で,大言ばかり吐くようになります。彼らは誇ったり,人を侮辱したり,親から教わった事柄を全然顧みなくなります。彼らは感謝の念や,崇敬の念や,正常な人間の愛情の全く欠けた者になります。……彼らは見せ掛けだけの『宗教』を維持しますが,彼らの生活はその真実さを否定するものとなります」― テモテ第二 3:1-5,J・B・フィリップス訳「現代英語の新約聖書」。

わたしたちの日常生活の中にこの陳述の正確さが認められるのではありませんか。世界は多くの人にとって,非常に薄情な所,人々に「正常な人間の愛情」の欠ける所となっていませんか。人々は身体的にも心理的にも侮辱されています。人間の尊厳は大きな規模で侮辱されています。自己本位の哲学が幅をきかせるこの時代には,正常な人間の親切な行為でさえしばしば非常にまれなものとなっているので,親切で人間的な行為を実践する人は大抵の場合に変人扱いされます。

こうした事態すべてを変える方法があるでしょうか。人類の心の中から暴力というものを根絶できるなんらかの勢力,あるいは力があるでしょうか。変化を促す強力な動機づけとなるものが何か存在しますか。

心を再教育する

教育の目指すところは人格の形成でなければならないと言われてきましたが,わたしたちはそれに価値観の形成を加えることができます。非暴力が単なる常套句,つまりありふれた決まり文句に終わらないようにするためには,神と隣人とを本当の意味で愛するよう世界中の人々を再教育しなければなりません。この教育は,情報を分析する思いだけではなく,さらに重要なこととして,動機の座である心を動かさなければなりません。

しかし,価値観の体系はだれのものでも受け入れてよいのでしょうか。明らかに,それはできません。その体系の与え主は健全な判断力を持ち,非の打ちどころのない経歴の人でなければなりません。その価値観は時の試みを通過し,人間のかかわる広い分野に当てはまるものでなければならないでしょう。あらゆる国籍や背景を持つ人々を包含するものでなければなりません。何にも増して,人々の心を動かすものでなければならないでしょう。

このような導きを,この危険で悩みの多い時代に与えることのできるのはだれですか。わたしたちが忍耐するのに役立ち,絶望ではなく希望を抱いて生きてゆくことを可能にする一組の価値観を提供できるのはだれですか。わたしたちの心を動かし,暴力と憎しみの代わりに穏やかな気持ちと親切とを心の中に植えつけることのできるのはだれですか。

この務めはいかなる人間の能力も及ばないものであることを歴史は示しています。それで,尊敬を集めていた老齢の人モーセがわたしたちの創造者エホバ神について書いた次の言葉を少し考慮してみましょう。「それはわたしがエホバの名をふれ告げるからだ。わたしたちの神に偉大さを帰せよ! 岩なる方,そのみ業は完全,そのすべての道は公正である。忠実の神,不正なところは少しもない。義であり,廉直であられる」。考えてみてください。公正かつ完全な神であられ,しかも忠実な方なのです。―申命記 32:3,4。

古代のダビデ王はこう書きました。「エホバの律法は完全で,魂を連れ戻す。エホバの諭しは信頼でき,経験のない者を賢くする。エホバから出る命令は廉直で,心を歓ばせる。エホバのおきては清く,目を輝かせる」。(詩編 19:7,8)確かに,エホバの律法と諭しは心に染み込み,わたしたちの考え方を変え,その結果わたしたちの行動を変化させることができます。暴力的な人々が平和を求める親切な人になり得るのです。

平和を求める人たちとはだれのことか

2,000年近く昔に,人類の最も愛ある教え手,イエス・キリストは山の中腹に集まった群衆にこう言われました。「温和な気質の人たちは幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。……平和を求める人たちは幸いです。その人たちは『神の子』と呼ばれるからです」。(マタイ 5:5-9)そのような温和で,平和を求める人々が今日地上に存在しますか。もちろん,戦争を挑発するキリスト教世界の人々が,そのような人であるとは認められません。

しかし,自分たちのかつて抱いていた暴力的な見方を変え,神から与えられた新しい一組の価値観を取り入れた,あらゆる国籍の人々が,今日世界の至る所に存在しています。その人たちは再教育を施されました。その人たちの心は動かされ,彼らは次の招きに喜んでこたえ応じました。「『来なさい。エホバの山に……上ろう。神はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう』。……そして,神は諸国民の中で必ず裁きを行ない,多くの民に関して事を正される。そして,彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない」。この預言によると,非暴力を推し進める民は,「末の日」に形成されるでしょう。この人たちはだれでしょうか。―イザヤ 2:2-4。

その人たちはエホバの証人として知られており,世界中にそうした人々が数百万人もいます。きっとご近所にもいることでしょう。エホバの証人は平和を求める人々で,エホバの義の道について他の人々に知らせるために家から家へ行きます。また,いかなる国においても武器を執ることをしません。政治やそれに伴う暴力行為に巻き込まれることもありません。真に平和を愛し,神を恐れ,非暴力を推し進める人々です。そして,人類の病弊の解決策としてキリストによる神の王国政府を唱道します。神の王国が間もなく地上から暴力と暴力をふるう者たちとを一掃することを知っているのです。エホバの証人たちの生活は,非暴力が単なる理想ではなく,現実であるという事実を如実に示しています。―ダニエル 2:44。啓示 21:3,4。

エホバの証人は,「神が不公平な方ではなく,どの国民でも,神を恐れ,義を行なう人は神に受け入れられる」と聖書が述べていることを知っています。(使徒 10:34,35)ですから,社会的な背景や皮膚の色にはかかわりなく,すべての男女子供の尊厳に敬意を払います。いかなる階級制度もカースト制度もエホバの証人の兄弟関係を引き裂くことはありません。

公正を切望していますか

あなたはいかがですか。差別の無言の犠牲者になっていますか。自分が目にし,肌で感じる不公正のために,あなたの心は叫び声を上げているでしょうか。公正と公平を切望していますか。宗教の名において行なわれている「忌むべきことのために嘆息し,うめいて」いますか。それでは,神があなたの必要としている事柄をご存じであるということに確信を抱いてください。―エゼキエル 9:4。

神の霊感のもとに,詩人は聖書の中にこう書いています。「エホバよ,あなたは柔和な者たちの願いを確かに聞いてくださいます。あなたは彼らの心を定めてくださいます。あなたは耳を傾けて注意を払ってくださいます」。エホバが今,間もなく到来しようとしている非暴力の新しい事物の体制のために,あなたの心を定めようとしてくださるとき,それに進んで応じますか。そうであれば,この雑誌の発行者かエホバの証人の一人と連絡を取るようにお勧めいたします。エホバの証人は,間もなく神の王国により,どのように非暴力が全地にわたって現実のものとなるかを理解できるよう,喜んでご援助いたします。―詩編 10:17。

[12ページの囲み記事/図版]

不可触賤民の目から見た生活

ルカーマニは40歳で,マラーティ語を話します。ボンベイの市場のすみの人通りの多い道端に座って,野菜を売っている彼女の姿を見かけることでしょう。

ルカーマニはこのように話しています。「私の生まれはヒンズー教徒で,ハリジャン[神ビシュヌの民]でした。これはヒンズー教徒の間で,低い階級の人とみなされています。幼いころ,なぜ自分が同じ年代のほかの女の子と一緒に遊ばせてもらえないのか不思議に思ったものです。それは私たちのカーストがほかの人たちのカーストよりも低いからだ,と父は説明してくれました。私はとても傷つきました。学校でも,ハリジャンの子供たちは別のベンチに座らされたからです。ほかの生徒たちは私たちを見ようとも,私たちに話しかけようともしませんでした。ヒンズー教の寺院には入ることさえ許されず,私たちよりも上のカーストに属するヒンズー教徒の所有する井戸から水をくむことも許されませんでした。私たちは不可触賤民でした。そのために私も家族も惨めな気持ちを味わいました。

より良い生活をするために,ルカーマニとその家族はアームベドカー博士というヒンズー教の改革者に従うようになりました。1956年に同博士はハリジャンの社会全体に,仏教に改宗するよう呼びかけました。改宗したのちも,ルカーマニは幸せではありませんでした。なぜでしょうか。ルカーマニはこう語っています。「ヒンズー教徒と仏教徒は互いに平等であると考えてはいましたが,実際にはそうではありませんでした。私たちは依然として低い階級とみなされていたので,ヒンズー教徒と結婚することはできませんでした」。

時たつうちに,ルカーマニは仏陀を崇拝しなくなり,故人となったアームベドカー博士を崇拝するようになりました。ルカーマニは混乱し,悲しみに打ちひしがれていました。「こうして私は人間を崇拝するようになりました。毎日,博士の写真のために花輪を買い,その写真の前で祈りました」。では,このことはルカーマニを幸福にしたでしょうか。「いいえ,心の中では幸福ではありませんでした。私には将来がありませんでした。自分の人生に対する正しい導きを求めましたが,どんな助けも見いだされませんでした。

「そうしたある日のこと,近所の人がやって来て,『顧みてくださる神がおられますか』という小冊子を私たちに勧めました。その婦人は,真の神エホバを崇拝する人々で成る清い組織に属していると言いました。私はこの音信に関心を示し,聖書と共にこの小冊子を研究するようになりました。それは私の物の見方全体を変えてしまいました。間もなく,私は仏像とアームベドカー博士の写真とを処分しました。そして,地元の王国会館でのエホバの証人の集会に出席するようになりました。聴衆の前で初めて5分間の聖書の話をしたときの私の気持ちを想像してみてください! 不可触賤民である私が,エホバの証人の会衆の中で自分の話をしているのです!」

ルカーマニはエホバの証人のどんなところに引かれたのでしょうか。彼女はこう答えています。「証人たちの間にある愛と一致です。この宗教にはカーストによる差別というものがありません。これは私にとって非常に重要なことでした。長年の間,その差別のために無言の苦しみを味わってきたからです。エホバの証人の間では,私はもはや不可触賤民ではなく,姉妹でした! 私はこの親切な神,エホバを知るようになったことを毎日喜んでいます」。

[11ページの図版]

間もなく,いかなる暴力も不公正も貧困も,永遠に過去のものとなる

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